27節。当時の権威筋が入れ替わり立ち代りでイエス様に挑みかかってきます。今度はサドカイ人の登場となります。サドカイ人とは、当時、神殿を取り仕切る祭司の家系に連なる裕福な上流階級です。大祭司も彼らの中から選ばれました。また最高議会サンヘドリンの過半数を占める有力者たちでもありました。信仰の面での特徴は、彼らは旧約聖書全体を信じているのではなくて、旧約聖書の最初の五つの書、モーセが書いたので「モーセ五書」と言いますが、これだけに神の権威を認めて、他の預言書だとか詩篇だとかは認めませんでした。それで彼らは、モーセ五書に書かれていない(と思っていた)、死者の復活とか、死後のいのち、また死後の裁き、また御使いや霊の存在などといったことは全部否定していました。もっとも本当のところは、そういうものがあっては困るというのが本音だったのかもしれません。神のきよさとか正義とか裁きとか考えずに、今、良い生活ができていることが大事。彼らの関心は現世のことだけ。伝統的な宗教儀式は守りましたが、真の意味で宗教的な問題は敬遠していました。なので、それらのことを信じていたパリサイ人や律法学者たちとはこの点で対立していました。
で、彼らはモーセ五書の中にある一つの規定をとりあげて、「もし仮に、復活なんてことがあったら、これこれこういう不都合が起こるから、復活はありえない。」とイエス様に迫ったのです。もしかしたら、これまで律法学者を答えに詰まらせてきた、伝家の宝刀の質問だったのかもしれません。
28-33節。28節は旧約聖書の申命記25:5-6にある規定。そこには、弟が兄嫁によって得た子には、その亡くなった兄の名前を付けなければならないともあります。こういう定め自体は聖書独自のものでなく、一般に「レビラート婚」と言われるもので、世界の多くの民族で見られた制度です。それは死んだ兄弟の名や嗣業を絶やさないために定められました。で、サドカイ人は、もし復活があるとしたら、モーセの律法に従って、ある女性が次々と7人の兄弟の妻になった場合、復活の際に誰の妻になるのか、と得意げに迫ったわけです。我々はそこまで考えている。お前らみたいに単純に信じている奴らとは違う、とおごりもあったでしょうか。ちなみに、パリサイ派はこれに一応の答えを用意していて、こういう場合には一番最初の夫の妻になるとしていたそうです。さてイエス様の答えはどうでしょう。
34-36節。マタイ、マルコの並行箇所では「そんな思い違いをしているのは、あなたがたが聖書も神の力も知らないからです」とイエス様は彼らにキツイ一発を見舞っています。かしこぶって、復活などあるわけがないとあざけっていた彼らは、ただ無知なだけだった。私たちも、聖書も神の力も知らずに、神の約束を信じない、あるわけない、などとあざけることのないように、と自戒させられます。サドカイ人たちは、復活の状態を、この世のありさまをそのまま延長したものであると思い込んでいました。それで当然、結婚関係・夫婦関係もあるという前提で、ものを言っていた。ところが、その彼らの前提自体が大間違いだったのです。復活の時には、今の世の創造の秩序、あり方がガラリと変わる。まったく一新するのです。神がすべてを全く新しく造り変えるのです。その神の全能の力を見くびるなかれ。結婚制度は今の世界に神が定めた制度・創造の秩序であって、次の世にはその結婚制度自体がないのです。次の世ではもはや死ぬことがないので、子どもを産むということがないから、というのです(もちろん結婚の意義は子孫を得ることだけではありませんが、この議論ではそこに絞っています)。そして「彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。
」と言われました。御使いたちはめとることも嫁ぐこともありませんが、そもそもそのような生殖機能・そのための本能・欲望がないのだと思います。そのようなものがないようにはじめから造られている。そのように、私たちも復活のときには、いっさいそのようなものがない状態で、御使いたちのような者となるのでしょう。
私たちは、今、イエス様を信じることによって、すでに神の子どもです。神の子どもの身分を与えられ、神の御霊を頂いて、神をわが父と親しくお呼びできる関係に入れて頂いています。その関係は揺るぐことがありません。ただキリストが成し遂げてくださった十字架と復活のみわざにのみ、基づいて、与えられた関係なので、私たちが何をした、何をしたに関わらず、どんなときにも微動だにしません。しかしまだ私たちのうちには、生まれながらの肉の性質や罪深い性質が残っています。肉体はまだ贖われていません。なので罪を犯してしまうことがあります。罪との戦いもあります。パウロも言っていました。「私は自分がしたいと願うことはせずに、むしろ自分が憎んでいることを行っている」(ローマ7:15)、「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。こうして、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
」(同7:22-25)。そしてこの苦しみの中から、からだも贖われて神の子どもとして復活する希望を告白しています。「…御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいています。私たちは、この望みとともに救われたのです。…」(同8:23-24)やがてほかならぬ私たち自身が持つようになる復活の肉体は、今の私たちの肉体とはまったく違う、聖い神とともに永遠に生きるにふさわしい栄光の肉体です。
さて、こうしてイエス様は、サドカイ人たちが自信満々で引っさげてきた質問に見事に答えましたが、今度は彼らに対して攻勢に出ます。復活については旧約聖書の中でも語られているのですが(イザヤ26:19、ダニエル12:2、ヨブ19:26など)、彼らがモーセ五書しか認めないというのなら、彼らの土俵に降りてきてあげて、モーセ五書の中の一節から復活を論証して見せるという、余裕綽々ぶりです。37-38節。モーセの柴の個所は、出エジプト記3章に記されていて、ここの二重カギカッコはその6節からの引用です。モーセが羊を飼っていた時に、主なる神が突然、燃えているのに燃え尽きない柴の炎の中に現れて、モーセに自己紹介した時の言葉です。ここに出てくるアブラハム、イサク、ヤコブは、モーセより何百年も前のご先祖様で、当然、この時にはすでに地上を去っていました。で、その時、神はその昔々のモーセのご先祖様を指して、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」と自己紹介されたのです。ルカのここの37節には「である」がついていませんが、元の出エジプト記では「である」と訳されていて(マタイ、マルコも)
、この辺の文法の説明をするとややこしくなるので結論だけ言いますが、要は、何百年も前に地上を去ったアブラハム、イサク、ヤコブに対して、主は今も、彼らの神である、と現在形で言われたということです。彼らの神であったと過去形でなく。「わたしはアブラハムの神であった。あいつは信仰深くていいやつだった。」と回想しているのではなく、今現在のこととして、「わたしは彼らの神である」と今の彼らとの関係を言っておられるということです。もうとっくに地上にはいないのに。人が死んで終わり、存在しなくなるのだったら、神はこういうふうには言われない。神が「彼らの神である」と自己紹介しているということは、彼らがこのときにも生きているということです。地上では見えなくなったけれども、神との関係においてはその後もずっと場所を変えて生きている。そして、いつの日か、神が定めているときに復活して、神が約束された御国を受け継ぐ日を待ち望んでいるのです。
もう少し詳しく見ます。神がアブラハムと契約を結ばれたことは、創世記の中に記されています。その中で神がアブラハムに言われました。「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、またあなたの後の子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる。わたしは、あなたの寄留の地、カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える。わたしは彼らの神となる。」(創世記17:7-8)。このように、神はアブラハムと永遠の契りを結ばれました。「わたしは誰それの神となる」神のこの一言は重い。神は軽い気持ちでこう言われたのではありません。聖書の中で、この「だれそれの神」という言い方は、神とその人が、特別な真実な愛の契約関係にあることを表します。神は誰でも彼でもかまわず、「わたしは誰それの神」と仰るわけではありません。特別に、この人と契約関係を結ぼうと決めた相手に対してだけ、「わたしは、誰それの神」と言われるのです。そして神がいったん、誰それの神と宣言し、絆を結ばれたら、その絆はどんなことがあっても断ち切られることはありません。神は、どこまでも、そのきずなを守り抜かれます。罪は、聖なる神と人との間に断絶をもたらします。
人の罪は、神との絆を断ち切ります。しかし神は誓いを変えられません。神は、私たちの罪のゆえに、ご自分の御子を私たちの身代わりに十字架に引き渡してでも、御子もご自分が私たちの身代わりに私たちの罪を背負って、十字架にかかってでも、私たちとの絆を守り抜くのです。神が一度、「誰それの神」と宣言されたら、それは罪によっても、死によっても断ち切られることを許しません。それは文字通り、永遠の絆なのです。
天地を造られた神は、私たちに対して、イエス・キリストによって、永遠の契約関係を結んでくださいました。私たちがイエス・キリストを信じて、罪赦され、神の民・神の子どもとされるその契約関係が結ばれたら、それは、この地上だけで終わりではなく、死の向こう側まで、天においても永遠に続くのです。その関係の中で、私たちが永遠に神を喜ぶということが成就します。神から切り離して、復活という事実だけを問題にして、復活がありやなしや、と考えても、結論は出てこないかもしれません。ただ、私たちと愛の契りを結ばれた神というお方に目を向けて、このお方を信頼するかどうか。そこが問われるのだと思います。サドカイ人は、人間同士の結婚関係だけを考えて、復活があると、それはおかしいと言っていましたが、もっと肝心な神との関係を彼らはどう考えていたのか。神との関係も、地上にいる間だけのもの、死んだらおしまいになるもの、その程度のものでしかないと思っていたのか。彼らにとって、神は、愛する相手を死から救い出す事ができない、力ない、情けない神でしかなかったのか。いや、そもそも、神との関係など、彼らにとってはそれほど大切なものではなかったのか。彼らが口にした質問から、彼らがいかに、神をいい加減にしか考えていなかったか、うかがわれるような気もします。
以上のイエス様のサドカイ人に対するお言葉を聞いて、日頃、この難問に悪戦苦闘していた律法学者たちは思わず、イエス様を賞賛しました。39-40節。これ以降、彼らはイエス様には言葉で挑んでも到底勝ち目はないと思い知って、何も質問しなくなったと言います。
このように語られたイエス様は、この数日後、私たちのために十字架にかかられ、そして三日目に事実、死者の中から復活されました。ご自身のからだをもって、神がご自身の愛する者を復活させることを実証してくださいました。クリスチャンは、キリストが復活したことを信じ、それゆえキリストを信じる私たちも復活することを信じる者です。それも今の肉体や創造の秩序の延長や再現ではなく、まったく新しい世界で、永遠の命を生きるにふさわしい栄光のからだに復活させて頂いて。そして、永遠の契りを結んでくださった神を永遠に賛美し、永遠に喜ぶ時を迎えます。この、文字通り永遠の契りを、キリストによって、私たちと結んでくださった恵み深い神に、心からの賛美をお捧げしたいと思います。