礼拝説教要旨 2026年8月9日
戦後81年目の夏を迎えて
キリストにあって生きる者
(ローマ人への手紙 6:1~14)

使徒パウロは、全人類が罪の下に閉じ込められた事実を明らかにしつつ、その罪の悲惨からの救いは、ただ神の恵みにより、キリストを信じる信仰によってもたらされることを、ローマにある教会の聖徒たちに心を込めて説いていた。この福音のメッセージは、実は全人類が本気になって聴くべき大事な大事なメッセージあることを、私たちも覚えてこの手紙を読み進みたい。人が神によって義と認められるのは、行いによるのではなく、キリストの十字架の身代わりの死を信じることによる。救いは神の賜物であり、驚くべき恵みであるとパウロは強調している。これが「信仰義認」という救いの奥義の一面と。

1、ところが「信仰義認」の奥義は誤解され易く、なかなか人の心に届きにくい。「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」と聞くなり、「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか」と言う者が現れる。(1節)「善をもたらすために悪を行おう」(3:8)と言うのと同じである。これらは、神が恵みによって罪を赦してくださるのなら、もはや自分は罪に支配されてはいない、だから何をしても大丈夫、罪さえ犯しても赦される・・・という身勝手な解釈である。罪から離れようとせず、罪の中に留まり続けながら、それでいて、神の恵みに浴しようというわけである。

パウロの答えは明確であった。「決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」「誤解しないでください」とか、「どうして物分かりが悪いのですか」と問い直すのでなく、「そんなことはありません!」と、きっぱりと退けた。キリストを信じる者は、「罪に死んだ」のであって、罪の中に生きてはいない。キリストを信じて洗礼(バプテスマ)を受けたのは、キリストと共に死んで葬られ、キリストにあって新しいいのちに生きる者となった、そのしるしを身に帯びるためであったと。罪に対して死んで、神に対して生きる。これがキリストを信じる者の姿、キリストにあって生きる者の日々なのである。(2~4節)

2、洗礼の意味するところは、キリストとの「結合」、あるいは「合体」である。キリストを信じる者がキリストと結びつき、キリストのものとなること、キリストと霊的に、そして有機的に一体とされることにある。この霊的事実の目に見えるしるしが「洗礼」である。キリストのものとなること、一体となるという意味で、洗礼はキリストとの婚礼であるとされる。けれども、洗礼は婚礼だけではなく、葬儀の意味もあり、キリストが十字架で死なれたのは、私の身代わりであったと信じる時、自分も十字架においてキリストと共に罪に死んだのである。一度限りの完結した死として。それゆえに「罪の中にとどまる」ことは有り得ず、「その中に生きる」ことは不可能となる。それは自分に死ぬことであり、罪に死んで、もはや罪から引き離されていることでもある。この奥義を理解するのに、やや難しさがあるのは事実である。(5~7節)

「洗礼」がキリストとの「婚礼」だけを意味しているなら、人々はこぞって教会に集い、洗礼を受けたいと願うに違いない。ところが、「洗礼」には「葬儀」の意味のあることに気づくと、教会に通うのはいい、教えを聞くのもいい、でも「洗礼」は止めておこうと躊躇う。罪を認め、悔い改めて洗礼の恵みに与るには、神の前に徹底的に悔い崩れることが必要となるからである。やはり、罪を認めること、そして自分の死は受け入れがたい。けれども、一度キリストと共に十字架で死んだならば、罪から解放され、キリストと共に新しいいのちに生きる者とされる。キリストの死と死からのよみがえりのいのちは、キリストを信じて洗礼を受けた者には、単なる望みではなく、確かな約束として、日々経験できることである。「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きた者だと、認めなさい。」(8~11節)※パウロ自身の告白(ガラテヤ2:20)

3、罪の中にとどまって生きるのでなく、罪に対して死んだ者、神に対してキリストにあって生きる者、これがクリスチャンである。このクリスチャンの日々の生活は、罪に支配されることはないが、罪と関わり、罪と戦うことが要求される。ここに信仰によって義と認められた者の「聖化」の歩みがある。新しいいのちに生きる日々は、キリストが共に歩んでくださる日々であり、聖霊の働きに導かれる、キリストにある日々となる。「キリストにある」とは、言葉は単純であっても、その意味するところは重く、深い。「キリストの内にある」ことは、キリストと一体であること、キリストそのものであることになる。果たして、そのような現実を生きることが、私たちにできるのだろうか。

「聖化」は、私たち人間の側のできるできないの問題ではない。人が努力して罪に死ぬことでもなく、罪の支配から逃れようと必死になることでもない。また罪に打ち勝とうと戦うのでもない。既に罪の支配から解き放たれているゆえ、また死はキリストを信じる者を恐れさせることはないゆえ、再び自分を罪の支配に任せることにはならない。神が、キリストにある者として私たちを生かしてくださる。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。・・・・むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。・・・・」(12~14節)この勧めには、日々の生活において、罪の支配が襲いかかろうとも、それに負けることは有り得ない、だから、自分を神にささげなさいとの励ましが込められている。

<結び> 罪の支配に打ち勝つ者が救われるのではない。キリストを信じる者が、罪に死んで、罪の支配から解放され、キリストにあって生きる者とされる。これが恵みによる救いである。キリストのいのちを生きることになる。日々の生活において、罪と無関係に生きることはできない。けれども、罪は決して私たちを支配することはない。14節にある「恵みの下にあるからです」とは、恵みの支配の下にあることの幸いを告げている。キリストにある全ての人がこの幸いの内に、確かに招かれている。神が私たちを招いてくださる救いの道は、キリストにあって罪に死んで、新しいいのちに生きる道である。私たちが、本当の意味で人生を生きる確かな道、唯一で完全な道筋を神は備えてくださっている。キリストを信じるなら、私たちも義と認められ、キリストにあって生きる者として、新しいいのちに生きることができる。(コリント第二5:14~17)私たちは、その確かな道を歩ませていただいているのである。

この世はなお罪が支配し、罪の力ははなはだ凄まじい。世界中で戦争の準備どころか、戦争そのものが広がっている。安全保障と言葉を言い換え、武器、兵器を増産し、人のいのちをおろそかにしている。そんな時代だからこそ、キリストにあって生きる者の存在は尊い。クリスチャンの存在の証しが求められている。(マタイ5:13~16)「キリストにあって」、「主にあって」また「主に在りて」等々、私たちは自分がキリストにあることを、言葉で言い表している。決まり文句としてではなく、心の底から「キリストにあって生きる者」であることを告白し、キリストの証し人として歩めるように!!

今年も、今週の15日、私たちにとっては特別の日として、その日を迎える。何を思い、何を考え、何を決意し、何を行うのか、その人その人それぞれであろう。けれども、私たちは一人一人、目を覚ましてその日を迎え、キリストにあって生きる者として、自分はどのように生きるのか、確かな思いを主からいただいて生きられるように祈りたい。今、この世ははなはだしく揺れ動いている。このような日々こそ、主の助けと導きが必要となる。主の導き、また助けを待ち望むことができるように。