神のものは神に返しなさい

2026年8月2日 横田俊樹師
聖書箇所:ルカの福音書 20章20〜26節
お祈り

恵みとあわれみに富みたもう、聖なる天の父なる神さま。あなたの麗しい御名をすべてにまさってあがめ、ほめたたえます。今朝も、週の初めの日、ただキリストのゆえに、すべての罪を赦されて、汚れを洗い流されて、聖なるあなたの御前に集められ、あなたを私たちの慈しみ深い父として覚えて、礼拝をおささげできます幸いを感謝いたします。どうぞ、集う一人びとり、またそれぞれのところで礼拝を捧げるお一人びとりに霊の祝福を豊かに注ぎ、恵みで満たしてくださいますように。そして一人ひとりの内なる人を、恵みによって、また御霊によって、強めてくださいますように、お願いいたします。

私たちの羊飼いなるイエス様。あなたは私たちを「緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」肉体の健康とともに、私たちの霊の渇きを癒し、御霊のいのちの水で潤して下さい。それぞれの家庭を祝福して、御霊の水が流れ、霊を生かすところとして下さい。職場で、学校で、人間関係において、経済において、すべてにおいてキリストの生ける御霊の水を行き渡らせてください。

暑い日が続いています。ひとりびとりの心とからだの健康をお支えください。子どもたちをあらゆるわざわいから守り、あなたに愛されている子として、成長を育んで下さい。さまざまな悪からお守り下さい。特に夏休みに入っているこの時期、霊肉の健康が支えられ、有意義な夏を過ごすことができますように。親御さんに助けと知恵とが与えられますように。

これからみことばの取次ぎをします。聖霊がこの場をご支配下さり、いっさいを導いてください。イエス様の御声を聞き取り、イエス様に導かれる幸いを増し加えて下さい。

これらの願い、祈り、いっさいのことを聖い御心に従って、主を愛する者の益となるように、そしてご自身の栄光に至るように、定め、導いておられるあなたに信頼し、いっさいを御手にお委ねして、私たちの贖い主、御子イエス・キリストの尊き御名によって、お祈りいたします。アーメン。

今日の場面も、イエス様が十字架にかかられる数日前、おそらく宮でのこと。イエス様を逆恨みして、腹の虫がおさまらない律法学者、祭司長たちが、何とかイエス様をなき者にしようと仕掛ける場面が続きます。祭司長たちはイエス様への攻撃を次から次へと繰り出し、それをまたイエス様が次から次へと見事にカウンターを決めるという場面です。イエス様はこれまで病を癒す奇跡をしてこられましたが、このあたりはいわば知恵の奇跡と言えるでしょうか。今日の個所はその第二ラウンド。正面から挑んでもかなわないから、今度は一つ、芝居を打ってイエス様を言葉の罠に陥れようとしました。

20節。「義人を装った回し者」マタイによると、律法学者たちの「弟子たち」ですから、まだ若い者だったでしょうか。いかにも青年らしく、自分たちは大人の思惑や、政治的な駆け引き抜きの、純粋な神の道を知りたいのです、という顔をしてイエス様に近づいて言いました。21節。いかにも純粋そうに、目をキラキラさせて言ったのでしょうか。彼らは下心があってこう言ったわけですが、皮肉にも、この彼らが言った内容自体は、本当のことでした。イエス様が教えておられることは正しく、また人を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられる。イエス様は人を分け隔てなさいません。金持ち、貧乏人、社会的地位、良くも悪くも、これまでしてきたこと、こんなに立派なことをしてきた、人からすごいと言われることをしてきた、とか、反対に後悔の念にさいなまれること、人から後ろ指さされることをしてきた、とかで分け隔てなさいません。イエス様が見ているのは、今、悔い改める心があるのか、ということです。神の前に、神のみこころに従って生きる人生を送りたいと願っているか、その意思があるか。そこです。それがあるならば、イエス様は決して見捨てることなく、とことん付き合って、必ずその願いをかなえてくださいます。イエス様にはその力があります。私たちは罪に対して無力であったり、自分で自分を変えることはできなかったりしますが、神に不可能なことはありません。イエス様にはおできになります。イエス様を信じましょう。

さて、彼らはそのように言って、いわば、イエス様をおだてておいて、次の質問を投げかけます。22節。彼らはイエス様に「神の民は、異教徒のローマになど、税金を納めるべきでない!」と勇ましい事を言わせたかった。それで、あなたは、相手がカエサルであろうと誰であろうと、正しいことを、真理に基づいて神の道を言いますよね、と誘導しようとしていたわけです。そしてイエス様がそういった瞬間、大騒ぎして、同時に、ちょっと離れた所で様子をうかがっていた者が、すぐにローマ総督のところに直行して、イエス様のことを訴える、という段取りだったのでしょう。20節後半「イエスのことばじりをとらえて、総督の支配と権威に引き渡すためであった」とあったのは、そういうことです。またもし万が一、カエサルに税を納めなさいと言えば、イエス様をローマの支配から解放してくれるメシア・救い主と信じていた民衆が失望し、民衆の支持を失うという読みだったのでしょう。

しかし、そんな猿知恵、猿芝居は、イエス様の前には通用しません。イエス様は人の心にあることをすべてお見通しです。23—25節。「デナリ銀貨」は当時、ローマ帝国内に流通していた貨幣で、労働者一日分の賃金に相当する金額とされます。ローマ帝国内では、14歳〜65歳の男子(地域によっては12歳〜65歳の女子も)はみな、一年に一デナリ納めることになっていたそうです。そのデナリ銀貨には、月桂樹の葉で編んだ冠を頂いた皇帝ティベリウスの横向きの顔があり、そのまわりにラテン語で「神聖なアウグストウスの子、ティベリウス・カエサル・アウグストス」と名前が刻んであったそうです。ですから、イエス様がそのデナリ銀貨を指して「だれの肖像と銘がありますか。」と問うと、彼らは「カエサルのです」と答えました。そこでイエス様は言われました。「では、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、黙ってしまいました。勝負あり、です。本当は、黙ってしまうのでなく、悔い改めてくれればよかったのですが。彼らの辞書には「悔い改め」という言葉がないようです。本当は悔い改めこそが、真の祝福の道なのに。

今日は25節のイエス様のことばから二つのことを学んでおきたいと思います。

まず一つめは、「カエサルのものはカエサルに…返しなさい。」とイエス様は異邦の権威に税を納めることは合法と認めているわけですが、ここでイエス様は「返しなさい」と仰いました。22節では、イエス様のところに来た者たちは税金を「納める」という言い方をしています。これは原語では単に「与える」という意味の語ですが、税金なので「納める」とどの訳でも訳しています。それを、イエス様は「返しなさい」つまり、本来、それはカイサルのものなのだから、「返しなさい」と言われました。異邦の権威を認めておられるのです。

パウロも世俗の権威について教えています。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。」(ローマ13:1)神は、人々が平和で落ち着いた生活を送れるようにと、社会の秩序を保ち、悪を抑えるために、この世の権威を立てています。それはクリスチャン、ノンクリスチャン関係なく、人々が平和で秩序をもって生活するために必要なものとして、神が与えているものです。ですから、クリスチャンは「神の国の民」であると同時に「地上の国の民」でもあります。世俗の権威を軽んじることは、神の御心ではありません。とはいえ、世俗の権威を絶対視するのではありません。もし世俗の権威が神の明らかな命令に反することを要求した場合、クリスチャンは「人に従うより、神に従うべきです」(使徒5:29)という立場に立ちます。そこの優先順位はしっかりとわきまえておかなければいけません。

それを踏まえた上で、上に立っている人の、その背負っている責任の大きさを思うと、ただ批判して悪口を言っているのでなく、彼らのために祈ってあげる必要があると思います。パウロも勧めていました。「そこで、私は何よりもまず勧めます。すべての人のために、王たちと高い地位にあるすべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい。…そのような祈りは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることです。」(第二テモテ2:1,3)。現代のように社会全体に「信頼」が揺らいで来ている時代だからこそ、私たちクリスチャンは、批判するばかりでなく、彼らのために祈るということを神は望んでいらっしゃるのではないかと思います。

それから二つめに教えられることは、後半の「神のものは神に返しなさい」ということです。もちろんすべてのものは、創造主なる神が造られたのですから、チリ一つにいたるまで、いっさいは神のものなわけですが、ここではそういう一般的な意味ではなくて、特別な意味で神のもの、神が特別にこれはわたしのものだ、と所有権を主張されるもののことを言います。で、デナリ銀貨にカエサルの肖像と銘があって、これはカエサルのもの、とされたことからすると、神の肖像が刻まれているもの、また神の御名が刻まれているものが、特別な意味で神のものということでしょう。神の肖像が刻まれ、神の御名が記されている、といって、これは仏像とかどこかの神殿の像とかのことではなくて、なんとなんと、私たち、生きている人間、それも神が贖ってくださった神の民のことなのです。

もともと創世記によると、神は、ご自分に似せて、神のかたちに人を造られたとあります(創世記1:26-27)。で、ギリシャ語で書かれた70人訳聖書の「神のかたち」の「かたち」という語が、ここの24節に出てくる「肖像」と訳された語と同じです。人は、もともと、その魂に「神の肖像」を刻まれたものだったのです。人の命が神聖不可侵であることの根拠もここにあります(創世記9:6)。人が神のかたちを宿しているからです。

そして、その人々の中でも、特にイエス・キリストを信じた者たちには、聖霊によって証印が押されていると言います。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。」(エペソ1:13)古代において証印は、その品物が誰のものであるかという「所有権」と、その内容が本物であるという「保証」を意味しました。たとえば、ある荷物に王の証印が押されていたら、誰もそれに手を出せないし、むしろ、大切に扱われるでしょう。で、目には見えませんが、私たちには神のものであるという、神の証印が押されているのです。状況が思わしくないように見え、感情が揺れ動いても、この聖霊による証印は決して消えることがありません。自分のような汚らわしい罪人は、「お前などわたしの民ではない」と捨てられて当然と自分では思っても、なお神は、わたしのものと呼んでくださるのです。

天地を造られた神が、私たちのことを「ご自分のもの」として下さっているとは、何と心強く、幸いなことでしょうか。私たちが神のものであれば、誰も、何ものも、神の御手から私たちを奪い去ることはできません。私たちの救いは保証されています。と同時に、私たちが神のものであるということは、自分に対する神の所有権を認めるということでもあります。私たちは神の所有の民です。心から、神の所有権、主権、権威を認め受け入れて、神にお従いするということです。それは何か特別な功績ということではなく、神に「お返しする」ことに他なりません。当然、お返しするべくしてお返しするということです。しかし、このところ、続けて言っていますが、私たちが神の主権を心から受け入れるためには、神を心から信頼していなければできません。何をされるかわからない相手に、心から権威を認めることはできません。あわれみ深い神は、私たちが神を心から信頼できるようにと、愛する御子をお遣わし下さいました。罪びとである私たちを聖なる神がご自分のものとして受け入れるためには、罪なき神の御子キリストが私たちの罪のための身代わりとして十字架にかけられる必要がありました。そのことを神はして下さいました。その神の心が通じて、私たちが心から神を信頼するようになるためです。神は無理やり、力づくで私たちに権威をふるい、従わせることを望まず、尊い御子をお遣わし下さった神の愛を私たちが知って、その神の心が私たちに通じて、私たちが心から神を信頼し、神の主権を心から認め、受け入れて、神にお従いすることを望んでおられます。神の国の支配とは、そのような支配です。

「 この身と魂を 永遠まで わが主のものと なさせたまえ 」新聖歌 114番

具体的に、神にお返しするものは、まず感謝、礼拝です。神からあらゆる良きもの、恵みを頂いているのですから、当然、神に感謝をささげ、礼拝をささげるべきです。また、それぞれが置かれているところで、主が、そこで私たちに何を望んでおられるのか、それを考え、行動するように心がけることです。自分の願いよりも主の願いを行うように。家庭でも、あるいは兄弟姉妹方との関係においても、あるいは職場でも、まず、自分の思いを神におささげして、神が何を望んでおられるか。その時に、自分の利益や願望と衝突する事が示されるかもしれません。長い間、抱えてきた怒り、憎しみ、そういった手放したくないものも手放さなければならないかもしれません。それは容易ではないかもしれません。しかし、神のみこころに従うために神に力を求めるなら、神は必要な助けを与えて下さるでしょう。大切なのは、神に信頼して、神に従う決心をすることです。

宗教改革者ジャン・カルヴァンの紋章には、「私の心をあなたに捧げます。主よ。速やかに、かつ真心を込めて。」と刻まれているそうです。私たちも、今朝、改めて自分自身を神に贖っていただいた者であると覚え、神の所有の民としてふさわしい信仰の歩みをと願って、聖餐式に臨みたいと思います。

お祈り

私たちの王であるイエス様。あなたは暴君ではなく、柔和で真実な王であられます。王でありながら、私たちのために十字架にまでかかってくださった王です。あなたを心から信頼し、あがめ、そしてあなたの権威を、あなたのみことばの権威を認め、受け入れます。どうか、あなたが私たちの心をご支配下さり、私たちがあなたのみこころを行い、私たちのまわりを幸いな神の国としてくださいますように。