神のあわれみによって

2026年7月26日 渡辺晴山師
聖書箇所:詩篇 78篇1〜29節・72節
序

謎解きが流行っています。謎解きは脳を使うため、脳の活性化や認知機能の向上などの脳トレ効果があると言われています。また、謎解きに取り組むことで、自分自身を客観的に見ることができ、自己肯定感の向上にもつながるそうです。今日の詩篇は、「昔からの謎を語ろう」と言って、始まります。どんな謎なのでしょう。謎の答えは何なのでしょう。

Ⅰ-民を救い出し、守り、導いてくださった神-

1〜2節を見てみましょう。「昔からの謎」と言っています。ずっと以前から謎のようなことがあったのに、その謎を説くことができなかったのです。詩篇78篇は、神の民の歴史を扱ったものですが、詩人は、何が謎なのか気付かせようと神の民の歴史を取り上げていきます。その歴史の中に長い間謎となっていることがあると詩人は言うのです。3〜4節。

謎を知ってもらうために、まず神が先祖にどんなことをされたのかを語ります。時系列的に取り上げてみましょう。民の先祖と結んでくださった契約のゆえに、エジプトで奴隷生活をしていた民を救い出して、荒野の生活を通して、約束の地に導いてくださいました。43〜53節。十の災いを通してエジプトを打ち、引き出されたことで、自分たちの神がまことの神であることを見せてくださいました。私たちにも、信仰生活の中で、神が私たちを助けてくださり、神がまことの神であることを知ったことがいっぱいあるでしょう。

12節からは、エジプトを出る時の奇跡のみわざが記されています。12〜16節。「海を分けて彼らを通らせ、せきのように水を立てられた」ので、紅海を歩いて渡ることができました。神の民の中で特筆すべき大きな奇跡でした。エジプトを出た後の荒野での生活40年、昼には雲の柱、夜には火の柱で導き、荒野で飲み水がない時は、岩から水を出してくださいました。私たちの信仰生活の中には、奇跡的な助けや導き、癒しがありました。覚えて感謝したいものです。Ⅰテサロニケ5:18。

荒野で神の民は、食べるものがなく飢えた時、神は、民にマナとうずらをくださいました。23〜29節、出16:13。私たちもそれぞれ、今日まで食べることができて、日々生活ができたことをどう思っているでしょうか。当たり前のことですか。神によって生活が守られたことを忘れないで感謝して歩むことが、信仰生活です。神の民に対しても、忘れないようにと言っています。7節。

神は、民の荒野40年を守り導いてくださり、ついに約束の地に入れてくださいました。54〜55節。最後のところには、神が民のためにダビデを送り王国が立てられ、ダビデを通して民を守り、養い、導いてくださったことが教えられています。69〜72節。ソロモン王の時には聖所が建てられました。教会の歩みも、一人ひとりの人生もそうではないでしょうか。守られ、こうして導かれて今日があることを感謝します。

神は、ダビデを羊飼いとして送られて、民を牧させたというのは、やがて来られるイエス様を思わせています。救い主イエス様は羊飼い、牧者であり、救われ、養われ、導かれる聖徒たちは、その羊です。ヨハネ10:11,14。

Ⅱ-救い出し、助けてくださった神に文句を言い、反逆した民-

こうして、神がご自分の民に対して良いことをしてくださったことを確認して来ました。数々の奇跡もありました。長い期間を通して、守り、導いてくださいました。ところが、神の恵みに対する民の反応は、神を知らず、恵みを忘れたかのようです。10〜11節。神の民の先祖たちは、神の契約を守らず、神のおしえに従って歩むことを拒み、神の数々のみわざと多くの不思議を忘れてしまったのです。37節。私たちにもないでしょうか。以前の罪が聖められたことを忘れ、御言葉に聞き従って歩むのでなく、自分の思いのまま歩もうとしてしまうことはないでしょうか。Ⅱペテロ1:9。

民は、神に逆らい、神の言われることを信頼しませんでした。水が与えられても、感謝せず、「食べる物がない」と神に文句を言いました。17〜19節。神が民のためにマナを降らせ、うずらをくださったにもかかわらず、民は罪を犯し、神のみわざを信じませんでした。32節。私たちは、どうでしょう。祈りが聞かれ、恵みが与えられても、新しい不満が生じ、文句を呟いてしまうことはないでしょうか。何かあると、御言葉の約束を信じて神を信頼することができなくなったりしないでしょうか。

それから、民は、神を繰り返し「試み」、罪を犯しました。18,41,56節。「試みた」と言われているのは、何度も繰り返し荒野で神に逆らい、荒れ地で神を悲しませたからです。40節。神に言われたようにしなかったからです。55,57節。民の不満や文句に対して、神が水を出し、マナやうずらを降らせても、繰り返し逆らい、繰り返し神を試みました。神を試みる、つまりテストするということは、神様の力を疑い、否定する行為です。神の御怒りを引き起こすことになります。18節。私たちは、神を試みようとはしないでしょうが、無意識に神を試みているもかもしれません。

さらに、約束の地で生活するようになったのに、神を試み、神に逆らって、神のさとしを守らず、弓矢のように御心から反れてしまいました。56〜57節。御心からはずれ、御言葉からそれると、罪に陥ります。民は神を捨て、神を離れて偶像に仕えるようになりました。58節。偶像を拝むことについては、神は特に強く怒りを引き起こされます。私たちは偶像崇拝をしようとは思いませんが、何か神よりも頼るものがあるなら、それが自分の偶像となります。お金、地位、能力、評価などもなり易いです。

こうして神の民の反応を見て来ると、疑問に思うことがありませんか。一方的に民をご自分の民としてくださり、エジプトから奇跡をもって神の民を引き出してくださいました。それなのに水がない荒野で死なせるのか文句を言うと、水を与えました。それなのに食べ物がないと文句を言っても、マナもうずらも与えました。荒野で神を試み、逆らって罪を犯しても、一日も欠かさず民を守り、導いてくださいました。怒っても見捨てられることはありませんでした。

不思議ではありませんか。なぜ神はこんな民を見捨てなかったのですか。どうして罪を犯す民を滅ぼされなかったなのでしょう。なぜ神に逆らい、勝手にする民を守り、導かれたのですか。これが神の民の歴史における謎です。詩人は大きな謎だというのです。詩人は、この謎を考えてもらうために、神の民の歴史で繰り返し行われた民の姿を取り上げて来たのです。たしかに謎だと気付きましたか。謎だと気付くなら、それなら私たちもなぜ見捨てられていないのだろう。どうして守られ、導かれているのかと思わないでしょうか。私たちの歴史も謎ではないですか。

Ⅲ-恵みを忘れ、逆らう民を愛され続けられた神-

謎の答えはどうでしょう。この謎の答えは何ですかと問われたら、何と答えますか。なぜ神は民をエジプトの奴隷から救い出してくださったのですか。なぜ文句を言う民に水を与えられたのですか。なぜ、文句を言う民にマナやうずらを与えたのですか。なぜ裏切って逆らう不信の民を見捨てなかったのですか。なぜ神に背を向け偶像を拝んだ民を滅ぼさなかったのですか。詩人は、神のなさったことと民のしたことを交互に取り上げながら、そのことを繰り返し謎として問うていたのです。これを読む私たちに対しても、謎について考えさせ、答えを質問しているのです。

謎の答えはこの詩篇の中にあります。38〜39節。そうです。謎の答えは「神のあわれみ」です。文句を言い、逆らう民を赦して、滅ぼされないで、怒りを抑えられたのは、ただ神の深いあわれみのゆえだったのです。助けられても、愛されても、文句を言う不信の民を顧みて、なおも愛し、助け、導いてくださったのは、神があわれみ深く、情け深く、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられたからです。詩篇86:15。

「あわれみ」という原語ラフムの派生語であるラハムという動詞の意味は、「思いやる、愛する」です。ご自分の民としてくださったゆえに、どのような民となっているとしても、愛して、思いやってくださるあわれみ深い神なのです。民がどれほど弱くて、肉にすぎない風のような存在であるか知っておられたので、あわれんでくださいました。39節。

この民の神は、イエス様を通して私たちを救ってくださった神です。神は私たちがどれほど弱い存在であるか知っておられます。私たちが恵みを忘れて文句を言い、背を向けても、あわれみ、愛してくださいます。私たちが間違い罪を犯したとしても、赦し、立ち返りを待ってくださいます。テトス3:5〜6では、私たちが救われたのは、私たちが行った義のわざによってではなく、私たちの罪の代わりに御子イエス様を十字架に渡された神のあわれみによると教えています。救われた私たちが間違いを犯し、文句を言い、神に逆らい、試みたとしても、この神のあわれみの中で赦され、愛され、助けられています。神のあわれみの中に生かされています。

それなのに、あわれみを忘れて、繰り返し文句を言い、逆らい、神を試みていいのでしょうか。もう、私たちにとってこの民の姿は謎ではありません。神は、大きなあわれみのゆえに、イエス様を十字架に渡され、よみがえらせることによって私たちを救ってくださいました。Ⅰペテロ1:3。私たちが今あるのは、私たちの願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。ローマ9:16。神の愛とあわれみに応えて生きて行く者となることを願います。詩篇103:2〜5。