礼拝説教要旨 2026年7月19日
神の畑の豊作祈願
(ルカの福音書 20:9~19)

前回の続きの場面です。前回、宮の中でイエス様が人々に教えておられるところに、祭司長、律法学者たちがズカズカと割って入り、イエス様に「何の権威によって、これらのことをしているのか、教えてくれませんか」と迫りました。しかし、彼らはただイエス様に言いがかりをつけるために言っているだけで、真摯に質問しているわけでなく、聞く耳も持っていないので、イエス様は8節「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」と言われました。その場面の続きです。聞く耳を持たない祭司長たちからは顔を背けて、イエス様はそこにいた一般の人々に向かって、ご自身が何の権威でなさっているのかを、たとえで話されました。そして、イエス様は神からの権威をもって来られましたが、祭司長たちはそれに対してどういう態度を取るかが示されます。聖書のたとえ話というのは、ある事を際立たせるために、現実にはありえないような設定をしたり、ある点が極端に強調されたりしますが、このたとえで印象的なのは、主人の、あり得ないほどの忍耐と恵み深さ、それに対する農夫たちの、恐ろしいほど自分勝手で利己的に凝り固まった態度です。しかし今日はそれだけでなく、神が何を、どんなことを私たちに望んでおられるかをこの箇所から深読みしたいと思います。

まずは、たとえの舞台設定。9節。登場人物はぶどう園の所有者である主人。そしてぶどう園で働く農夫たち。農夫たちは、本来ならば、そのぶどう園でぶどうの木のお世話をして、時が来たら収穫して、主人に納めます。もちろん、自分たちも労働に対する相応の報酬を受け取って。当然、そうなるはずです。ところが、この農夫たちは、その当然のことをせずに、主人のものを盗んで開き直る、筋金入りの悪党でした。10節。やってることが、まるで強盗です。しかし主人はあり得ない忍耐をもって、二人目、三人目としもべを遣わします。11-12節。そもそも、この農夫があり得ない設定なのですが、それに対する主人の対応もあり得ない忍耐で、他人事ながら、それは甘すぎですよ、と言いたくなります。普通ならもう堪忍袋の緒が切れているところ。ところが、ところが、この主人はさらにまだ上を行くのです。底抜けのお人好し…。13-15節。主人は、これだけされてもなお、彼らを信じて、彼らに期待して、愛する息子を送れば、さしもの彼らにもその心が通じてくれると思ったのでしょうか。心が通じて、悔い改めて、愛する息子を敬ってくれると思ったのでしょうか。しかし彼らには心が通じませんでした。あろうことか、愛する息子をぶどう園の外に放り出して、亡き者にしてしまいました。

ここでイエス様は「こうなったら、ぶどう園の主人は彼らをどうするでしょうか」と人々に考えさせ、一呼吸おいて「主人はやって来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるでしょう」と続けられました。たとえはここで終わりです。

さて、たとえの解き明かし。「ある人」は主なる神。「ぶどう園」は、神の国の特権と恵みを与えられたイスラエルのこと。神のみこころが記された律法を与えられ、幕屋や神殿、そして祭司たちが備えられて、神を礼拝する特権と恵みを与えられた神の民。そこでは神のみこころにかなった正義と公正が行われ、隣人愛のわざが行われ、神を喜び、神をほめたたえる。そういった霊の実がたわわに実っている神の国となることが期待されました。「農夫」はそのために労する祭司や律法学者たち、宗教指導者たちのこと。彼らは、神にそれらの霊の実をおささげするべく、人々に律法を教え、礼拝の奉仕をする務めを委ねられた者たちでした。ところが、彼らは前に見たように、神殿で商売人と結託して、不正な利権を得て、私腹を肥やしていました。神殿を私物化していました。まるで神などいないかのように、神殿を「強盗の巣」にしていました。もちろん、神は何度も預言者を遣わして、彼らに悔い改めを迫りましたが、彼らは遣わされた預言者を迫害するばかりで、一向に聞く耳を持たない。旧約聖書を読むと、そのような歴史が記されてます。神は何度も警告を与えてくださいます。いきなり裁きを下すのでなく。いろんな方法で、いろんな人を通して、何度も何度も。神が警告を与えてくださっているうちに悔い改めることです。しかし彼らは拒み続けた。

そして最後に、神は愛する御子をお遣わしになりました。「愛する子」という表現は、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けたとき(ルカ3:22)や変貌山でも(ルカ9:35)、父なる神から語られた言葉です。「これはわたしの愛する子」と。イエス様はここで、ご自身がこれまでの「しもべ」の延長線上でなく、決定的に異なる「神の御子」であることを明らかにしています。イエス様が神の権威によってすべてのことを行っていたことが明らかにされます。が、彼らは神の権威など気にもかけません。むしろ、宮きよめなんぞをするキリストが目障りで仕方がない。14節の言い草にこの時の祭司長たちの思いがあらわれています「あれを殺してしまおう。そうすれば、相続財産は自分たちのものになる」キリストさえ、いなくなれば、また自分たちが神殿礼拝で実権を握って好きにできる。そう算段したのでしょう。15節「彼をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった」とは、彼らがキリストをエルサレムの城壁の外のゴルゴダの丘で十字架につけることを預言したものでしょう。

その結果、どうなったか。農夫たちはさばかれ、ぶどう園は取り上げられて、ほかの人たちに与えられることになりました。これはイスラエルが滅びることを意味します。祭司たちがいなくなり、神の国の特権と恵みが彼らから取り上げられて、ほかの民に与えられるようになる。これを聞いた人々は、その事を理解したのかもしれません。旧約聖書ではすでに、神の国としてのイスラエルのことをぶどう園に例えられていましたから(イザヤ5:1-7)。聞いていた人々は、自分たちから、神の民の特権と恵みが取り上げられて、他の民に与えられると聞いて、思わず「そんなことが起こってはなりません」と言ったのでしょうか。

そんな彼らを見つめて、イエス様は言われました。17節。二重鍵カッコ内は詩篇118:22-23からの引用。「家を建てる者たち」とは、さっきの「農夫」と同じ、祭司長、律法学者たちといった、イスラエルの宗教指導者たちのことです。彼らは、旧約聖書の御言葉を民に教えて、イスラエルを神の国にふさわしく建て上げる役割を担った者たちでした。それで彼らは「家を建てる者たち」と呼ばれています。ところが、その家を建てる者たちが、見捨てた石。それが、なんとその後に建てられる真の神の家の要の石となったという、大変不思議な預言です。この石とは、イエス様のことです。祭司長たちから捨てられて、十字架にかけられたイエス様。しかしイエス様は三日目に復活し、後に世界中に広がる真の神の家・教会の要の石となりました。神のなさる事はまったく、人の思いを超えています。人々は、イスラエルから祭司長たちが取り去られ、神の国の恵みが取り去られることは、決して起こってはなりませんと言いましたが、イエス様は、でも、聖書にこう書いてあるでしょう?と返されたのでした。

この詩篇は過越の祭りの時に歌われたものだそうです。イエス様は、十字架を目前にした受難週にこの詩篇を引用して、ご自身がこの「石」の成就であると宣言されたのでした。

続いて18節。これは、祭司長たちから捨てられた石とは言え、決して力がないのではなく、キリストを拒む者に対する徹底的な裁きを示しているとされます(イザヤ8:14-15、ダニエル2:34-35)。これらのイエス様の話を聞いた祭司長、律法学者たちは、当然、これが自分たちのことを指していると悟りましたが、悔い改めるどころか、かえってイエス様を捕らえようとしました。19節。イエス様が、自分たちのことを言っていると気づいて、怒っているけれども、でも、実際やろうとしていることは、やはり、あの農夫たちと同じです。それで結局、結末もあのたとえと同じ結末を迎えることになってしまいました。イスラエルは紀元70年にローマ軍によって滅ぼされて消滅し、神の国は、異邦人に回されました。

「 住み給え君よ ここにこの胸に 」新聖歌 100番

先週、私たちは祭司長たちのようにはならずに、イエス・キリストの王としての権威を心から認めて、受け入れるべきことをお話ししました。キリストは力づくで暴君のように無理やり従わせることはなさいません。そんなことを望んでいない。私たちが心からキリストの権威を受け入れることを願っておられる。しかし、相手の権威を心から認め、受け入れるには、相手に対する信頼が必要です。信頼していない相手に対して、その相手の権威を心から認めることはできません。何をされるかわからない相手に権威を認められない。それで、イエス・キリストは私たちの罪のために、私たちを滅びから救い出すために、ご自分が身代わりに十字架にかかってくださいました。だから、私たちが心からイエス様を信頼して、そして心からイエス様の王としての権威を認め、心に受け入れるようにと。キリストの権威を受け入れるということは、キリストのことばの権威を受け入れるということになります。すると、キリストのことばが自分のうちで権威をもって来るのを感じると思います。キリストの権威を心から認めていないとすると、それは心のどこかで拒んでいるということ。すると、キリストのことばも、心のどこかで拒んでいるのだと思います。

で、その視点から、改めて、今日のたとえを思い返してみます。たとえの中の、ありえない恵み深さ、常軌を逸した恵み深さ、こんな人いるわけがないと誰しも思うあの、主人の恵み深さは、神の恵み深さです。神の忍耐です。どうしてそんなにまで忍耐して恵み深くあったのか。それは、農夫たちが悔い改めて、心から主人を敬って、収穫を納めるようになることを望んでいるからではないかと思います。力で抑え込むのでなく、彼らが主人の心に気付いてくれることを忍耐強く待って、預言者を何度も遣わす。そして最後に、愛する息子まで送った。愛する息子を送る主人の心が通じて、彼らが心を打たれて、悔い改めてくれることを願って。

私たちはどうでしょう。最愛の御子をお遣わしくださった、その神のお心は、私たちに通じているでしょうか。御子をさえ、お遣わしくださった、その神のお心が、通じない人間になっていないでしょうか。神は、最愛の御子をお遣わしくださり、十字架にまで渡されました。その神のお心を知って、何も感じないということはないでしょうか。神のそのお心は私たちに通じているでしょうか。神に残念な思いをさせていないでしょうか。

マタイの福音書の並行箇所では、「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。」と書かれています(マタイ21:43)。私たちは、「神の国の実を結ぶ国民」と呼ばれています。神は、私たちが実を結ぶ事を期待されています。どういう実かというと、たとえば、ガラテヤ書にある御霊の実のリスト、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった霊の実です。神の救いを喜ぶことも、神に喜ばれる霊の実。イエス様が共にいてくださるので、平安というのも、御霊の実として、神に喜ばれるもの。寛容、親切、善意は、相手がどうだから、こうだから、でなく、主が喜ばれることだから、主にこのわざをおささげするという意識を持つのも有益でしょう。またヘブル書13:15-16には、神へのいけにえが挙げられています。「…私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。」

第一コリント3:9では教会は神の畑と呼ばれています。神のお心を思って、所沢聖書教会という神の畑(所沢ファーム?)が、そのような神の国の実、御霊の実が豊作でありますように。今も、根気よく、私たちのゆっくりとした成長を見守っていてくださり、所沢ファームの実りを楽しみにしつつ、温かいまなざしをひとりひとりに注いでくださっている、恵み深い主に一つでも二つでも霊の実をおささげさせて頂きたいと思います。