礼拝説教要旨 2026年7月12日
何の権威によって
(ルカの福音書 20:1~8)

1節。おそらくイエス様が十字架にかかられる三日前のことです。いよいよ秒読みです。しかしイエス様は、十字架にかかられる日がこんなに間近に迫っても、自己憐憫にひたって無駄に時間を費すのでなく、最後まで、時を惜しんで人々を教えておられました。

ところが、そんな貴重な教えの最中に、いきなりドカドカと割りこんできた不届きな連中がいました。この、授業中でも構わず妨害しながら入ってくる不良中学生のようなことをしたのは、いったい、どこのどいつか、というと、なんと「祭司長たち、律法学者たち、長老たち」。ユダヤの最高議会サンヘドリンのメンバーというお歴々でした。今日でいえば、いわば国会議員です。それが、権威を笠に着て、でしょうか、イエス様が教えておられる最中に傍若無人にも割り込んできたのです。特に神殿は大祭司の管轄です。我が輩にはこうしてイエスとやらの教えの最中でも割り込んで入る権威があるのじゃと、人々に見せつけたかったのでしょうか。もしかしたら、彼らとしては、今度こそ、人々の前でイエス様に恥をかかせる自信があったのかもしれません。自信がなければ、もうちょっと時を選ぶんじゃないかという気もします。これまで何度も返り討ちにあっていますから。

では、彼らが自身満々で引っさげてきた秘策は何だったかというと、2節。「イエスとやら、お前は、我々の許可なしに勝手に神殿から商売人を追い出したり、ラビのもとで正規の学びをしたこともないくせに、勝手に人々を教えたりしておるが、いったいなんの資格で、そんなことをしているのか。誰がお前にそんな権威を与えたのか。」と。イエス様は確かに、何の学歴もなければ、誰かお偉い先生のお墨付きがあるわけでもありません。彼らは、ここをつけば、さすがのイエス様も人々の前で答えに詰まるだろう、と踏んだのでしょう。

しかし彼らは、聖書の専門家なのですから、本当は、イエス様が神から遣わされたメシアだと知ることができたはずです。彼らが精通していた聖書には、神が遣わされるメシアは、盲人の目を開け、耳の聞こえない人の耳を聞こえるようにし、悪霊につかれていた人からは悪霊を追い出し、貧しい人たちには福音を宣べ伝えると書いてありました。これがメシアのしるしだと。その聖書の預言しているまさにそのことを、イエス様はなさっておられました。イエス様が救い主メシアだということは明らかだったはずです。しかし、彼らはイエス様が気に食わなかった。自分たちの罪を指摘し、悔い改めを迫るのが、気に入らなかった。悔い改めの向こうに神の祝福があるのに、彼らはそれを拒んだ。それで、あえて権威の出所を問題にして、イエス様を排除しようとしたのです。

これに対して我らがイエス様は、どう応じられたのでしょう。3-4節。前に出てきましたバプテスマのヨハネ。人々に悔い改めを迫り、イエス様を指して、この方こそ、神から遣わされた救い主メシアです、と世に紹介した、あのバプテスマのヨハネです。そしてヘロデ・アンティパス王の不倫を、「それは罪だ」と咎めて投獄され、ついには首をはねられた義人ヨハネです。彼も、イエス様と同じく何の学歴もなく、偉い先生のお墨付きもありません。突然、荒野に現れて「悔い改めよ、神の国が近づいたから」と宣べ伝えた人でした。その彼は、天から、すなわち神の権威によってしていたのか。それとも人から、すなわち彼が自分勝手にやっていたに過ぎないことなのか。あなたがたは、どっちだと思うか、と問い返されたのです。で、もし、ヨハネを神からと認めるなら、そのヨハネは「イエス様が、神から遣わされたメシアだ」と宣べ伝えていたのですから、自動的に、イエス様は神から来られた方と認めることになります。ヨハネの権威がどこからのものだったと考えるかは、イエス様の権威がどこからかに直結していたのです。

バプテスマのヨハネをどう思うか。実は、以前、ヨハネが、この祭司長、律法学者たちに向かって悔い改めを迫った時には、彼らは拒んで、ヨハネに背を向けました。自分たちは、悔い改めなければならないような罪人ではない、そういう自負があって拒みました。しかし、それは以前のこと。今、改めて思い返して、神の義を貫いて殉教していった彼は、やはり本物の預言者だったと認めて、悔い改めてくれるか。そう期待して、イエス様は、もう一度彼らに、チャンスを与えたのでしょう。

ところがところが、そんな主のお心を知らず、彼らの頭は、この期に及んでも、人間的な自己保身の思いでいっぱいという、情けないありさまでした。5-7節。ヨハネの権威を素直に認めたくもなかった。認めると、自分たちが間違っていたということになってしまうし、目の前のイエスをメシアと認めて頭を下げることになる。絶対にそれは出来ない。しかしだからといって、あからさまにヨハネを否定すると、群衆がただではおかない。我々を石打ちにしかねない。どっちと答えるわけにもいかない。そこで彼らが苦し紛れにひねり出した最後の一手は、「わかりません」と白を切ることでした。人々の前でイエス様に恥をかかせようと乗り込んで来たのが、答えに詰まって「わかりません」と言うしかなく、かえって自分たちが人々の前で恥をかくことになりました。

それにしても、5-6節には彼らが何を論じ合ったかが、ハッキリと記録されています。彼らは、ヨハネが神からか、人からかを論じたのではありません。彼らが論じたのは、こう言えばああなる、ああ言えばこうなる、ということだけ。打算しか、なかったのです。大祭司、律法学者ともあろう、聖書の専門家でありながら、聖書に照らして、何が真理か、ヨハネは神からか、人からか、を論じるのではなく、ただ人間的に政治的駆け引き、損得だけ。それだけ。それに尽きていた。先週に続いて、当時の宗教家たちの堕落ぶりがうかがわれます。

イエス様は、彼らが今からでも悔い改めてくれることを願って、こう問い返されたのでしょうが、こうして、あくまでも神の前に身を低くする気がなく、かたくなに悔い改めを拒み続ける以上、イエス様も彼らに真理を告げることを拒まれます。8節。かたくなに罪の中に留まることを決めている心に対しては、ついには神は沈黙してしまわれるという厳粛な事実がここにあります。言われているうちが花です。

「 主と崇めよ 」新聖歌 140 番

イエス様が何の権威によって、宮きよめをし、みことばを語っていたか。私たちはもちろん、正解を知っています。正真正銘、神からの権威によってです。私たちは大祭司、律法学者たちのようにはならずに、素直にキリストの権威を認め、心から受け入れましょう。キリストの権威に心から従いましょう。キリストは私たちに対して王としての権威を与えられています。イエス様に対して、やさしい羊飼いというイメージが一般的かと思いますが、同時に王の王であられるお方としても覚えるべきお方です。イエス様がお生まれになったとき、東方の博士たちが「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と言ってイエス様を捜し、見つけると、黄金、乳香、没薬をささげて、王として拝みました(マタイ2:1-11)。つい先日見た箇所では、イエス様は旧約聖書の預言の通りに、「祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に!」と歓呼の声で迎えられる中、軍馬ではなく、ろばに乗った柔和な、平和の王としてエルサレムに入られました。キリストの王国が力によって建てるこの世的な王国ではなく、霊的な王国であることを示しています。

他のところで、イエス様は、わたしの国はこの世のものではありませんと明言されました(ヨハネ18:36)。そしてこのあと、十字架にかけられたときには、その十字架の札には「ユダヤ人の王」と書かれました。そして十字架の三日後、復活され、さらにその四十日後に天に昇られて、神の右の座に着座されました。今もそこから、私たちの王として、御霊とみことばによってご自身の民を、信じる者たちからなる王国を治めておられます。それは時代と国境を越えて広がる王国です。

ウェストミンスター小教理問答問26「キリストは王の職務をどのように遂行されますか。」答「キリストは、私たちをご自身に従わせること、私たちを治め、守ること、また、彼と私たちのすべての敵を抑え、征服することによって、王の職務を遂行されます。」ここに「私たちをご自身に従わせること」とあります。私たちはイエス様の神の御子としての権威、私たちの王としての権威を心から認めて、受け入れて、イエス様のみこころに、みことばにお従いするべき者です。イエス様にお仕えするべき者です。でも、どうでしょう、実際は、イエス様のみこころと関係なく生きていないか?イエス様が何を望んでおられるかなど、考えたこともないのでは?イエス様を、ただ自分の願いを聞いてくれる方としか、自分のために何かしてくれる方としか、認識していなかったのでは?だから、あろうことか、イエス様が自分の願う通りにしてくれないと、不満に思ったり、怒ったり…。そんな、どっちが王だかわからないありさまだったとしたら、まず、そこを改める必要があります。従うのは私たちの方です。本来は。私たちがイエス様のみこころにお仕えするべき者です。イエス様の王としての権威を心から認めて。

もしそうなっていなかったとしたら、むしろイエス様の方が私たちに対して不満を持ち、怒っても当然なのでした。でも、柔和で、忍耐に富む私たちの王イエス様は、広い広いお心で、私たちが自分から進んでイエス様にお従いする心が芽生えるのをずっと待っておられるのだと思います。癒しが必要な人には、まず癒されるように。いやしが必要な人にむち打って、働け、働けとやるような、パロのような王ではない。癒しが必要な人はまず癒されるように。そしてできるところから主にお仕えする。ほめたたえること、祈りをささげることも、主に仕えることです。

ともかく、キリストが望んでおられるのは、私たちが心からキリストをあがめて、その権威を心から認めて、心から喜んで従うことです。しかし、相手の権威を心から受け入れて、心からお従いするということは、相手を心から信頼していないとできないことです。だから、神の御子キリストは、自ら天を蹴って人となり、私たちの救い主となって下さったのです。自ら進んで、私たちのために私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかって下さったのです。私たちが心からキリストを信頼して、心からキリストの権威を受け入れて、心からキリストにお仕えすることができるようにと。キリストは、私たちを力づくで従わせるのでなく、キリストが私たちのためにして下さったことを知って、私たちが心からキリストを信頼して、自ら進んでみこころにお仕えすることを願っておられるからです。

イエス様を私たちの王として認め、そのみこころに仕えるということは、私たちの日常の小さな積み重ねの中にあります。朝、神をほめたたえること、神に愛されている存在であると思い出すこと。家庭で、職場で、学校で、置かれている所で、なすべき役割を果たすこと。自分のできる範囲で、神を愛し、隣人を愛すること。また、生きていると腹の立つことは避けられませんが、そんな時、私たちの王は「悪をもって悪に報いず、かえって祝福しなさい」と言われます。そんな時、イエス様の王国は、この世の王国ではないと改めて思います。そしてそのようにできるように、聖霊によって力を与えて下さいと祈らされます。感情に従うのでなく、理性を働かせてみことばに従えるように。またこの世の汚れから自分の身と心をきよく守ることもそうです。アメリカでの話ですが、ある男の子が高校生の時に、周りの人たちはみな、よくパーティを開いていました。しかし彼のお母さんは熱心なクリスチャンで、彼がパーティに行くことを許しませんでした。高校生のパーティは罪の機会になることが多かったのでしょうか。彼は「でも、みんな行ってるよ!行かないのは僕だけだ!

」と言いましたが、母親は「死んだ魚が、川の流れに流されるままなのです。生きている魚は流れに逆らって泳ぎます。」と諭したそうです。キリストによって、神とともに生きる新しいいのちに歩むようになった者は、世の流れに流されるままではなく、逆らってキリストのみこころに従う歩みをすることもあるのだとわきまえておきたいものです。

まず、毎朝の祈りの中で、キリストの権威を心から認めて、「主よ、今日もあなたが私の王です。どうぞ、御霊とみことばによって、私を治めてください。あなたのみこころに仕えさせてください。」と告白することから、キリストの王国の民としての歩みを始めましょう。