28節「これらのことを話してから、イエスはさらに進んで、エルサレムへと上って行かれた。」エルサレムへの最後の旅も、いよいよゴール目前となりました。ということは、イエス様が十字架にかかられる時が近づいたということです。「さらに進んで」のところ、「先頭に立ち」(口語訳)、「先に立って」(新共同訳)とも訳されます。イエス様は十字架に向かう旅の最終局面も、自ら先頭を切って、決然と向かわれたのでした。
ところで「エルサレムへ上って行かれた」とありますが、日本語でも地方から東京に出て来るのを「上京」と言いますが、エルサレムはただ首都であるだけでなく、標高790mほどの台地にありました。直前にイエス様一行がおられたエリコは海抜マイナス250mの低地ですから高低差は1000m以上になります。エリコからのルートだと、まずエルサレムの東側にあるオリーブ山の東側のふもとにあるベタニヤ、ベテパゲという村に来ます。ふもとと言っても標高約700m。かなりの高地です。そこからさらに100mほど上ってオリーブ山の頂上に着きます。そこからは西に谷を隔てて向かい側にエルサレムが見えます。そこからエルサレムに行くには、いったん数十m谷を下って、また数十m上るというコースを取ることになります(数字はすべて概数)。
このとき、イエス様一行は、エリコから角度のある坂道を上って、オリーブ山のふもとのベテパゲ、ベテニアという村に近付きました。すると、ここでいったん立ち止まって、イエス様はちょっと不思議な指示を弟子に与えました。それはイエス様がこの時、エルサレムに入るために必要な準備でした。
29-31節。イエス様の指示は、ご自身が、旧約聖書で預言されていたメシア、救い主なる王であることを示すものでした。旧約聖書には、救い主なる王が、柔和で、ろばに乗って来る、という預言があります(ゼカリヤ書9:9)。通常、王は勇ましい軍馬に乗って現れるのですが、この王は荷物や人を運ぶ苦役に使われるろばに乗って来られるというのです。これはこの王が力によらずに王となることを表わしていました。それが「まだだれも乗ったことのない子ろば」であるのは、神の用のために聖別されたものであることを表わします。
この預言が成就するために、イエス様は御霊によって、このようにろばが備えられていると示されたのでしょうか。そして、ろばをつないでいるひもをほどこうとしたら、当然、持ち主か知り合いかが「どうしてほどくのか」と聞いて来るだろうから、そしたら「主がお入用なのです」と言いなさいと指示されました。他の福音書には「すぐにまたここにお返しします」と言うようにとも言われています(マルコ11:3)。一時的に、ちょっと貸して下さい、という感じでしょうか。しかし、そんなにちょうどよく、誰も乗ったことのないろばが、つながれているだろうか、また気前よく貸してくれるだろうかと思ってしまうところです。
32-34節。まったくイエス様の言われた通りでした。神はすべて備えておられました。預言は必ず成就する。神のご計画、神のみこころは、必ず成就する。神が成就させるのです。考えてみれば、存在するすべてのものは神がお造りになったものです。すべてのものは、人も物も、神がご自身の目的のためにお造りになったのであり、神の御心を行うために、それぞれの時代に、それぞれの場所に置かれています。このろばの持ち主も、そのために備えられた人だったのでしょう。何も文句を言わず、スンナリ渡してくれました。
続いて35-36節。2人の弟子はろばをイエス様のもとに連れて来ると、鞍の代わりにでしょうか、自分の上着をろばの背中に掛けて、イエス様をお乗せしました。イエス様に対する敬意のあらわれでしょう。周りにいた人々も、イエス様が通られる道に、いわば絨毯代わりにでしょう、自分たちの上着を敷いたと言います。これは新しく王になった人のために人々がした行為です(第二列王記9:13)。このとき人々はイエス様を新しい王としていたのです。
そして、オリーブ山の頂で、向かい側に広がるエルサレムの町のパノラマを目にすると、彼らの感情はいやが上にも高まったでしょう。エルサレムに向かって、オリーブ山の頂からいったん下り始めると、大勢いた弟子たちの興奮は高まり、大声で神を賛美し始めました。37-38節。「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」という叫びは、詩篇118:26の言葉です。「方に」を「王に」と言い直しているのは、彼らがイエス様をダビデの家系から出ると預言されていた王と認めていたということです。後半「天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように」は、どこかで見覚えがないでしょうか。イエス様がお生まれになったとき、御使いたちが「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」(2:14)と賛美していました。ここでは「天には平和が」となっています。これは天の神の御座で、平和があるようにということ。これからイエス様が、罪人のために身代わりに十字架にかかって下さることによって、神の正義が満足して、神の御前に平和が作り出されるということでしょう。そのキリストによって実現した、神の側での平和があるからこそ、地に住む私たちも、キリストを信じることによって、神との平和の関係に入れて頂くことができたわけです。このときの群衆はそのことはわかりませんでしたが、本人が知らずして預言していたということは、聖書ではあることです(ヨハネ11:50-52)。御霊の隠れた働きによって、人々は知らずして詩篇の預言の言葉を成就し、またこれからイエス様がなさることを預言していたのでしょう。
ところが、この人々の賛美をやめさせようとする者たちがいました。毎度お騒がせのパリサイ人です。39-40節。この言い方は、ただケチをつけているというよりも、もっと切羽詰まったものを感じます。自分たちではもう抑えられないから、イエス様に頼んででも、この民衆運動を抑えてもらわないといけないと。当時、この地方を支配していたローマ帝国は、ユダヤ人による暴動や反乱、とりわけ「新しい王」を立てようとする動きに対してとても神経質になっていました。折しも、時は過越の祭りの直前で、国内外から数十万人ものユダヤ人が集まり、民族的な熱気が高まる時期でした。過越の祭りは、主なる神がモーセを立てて、エジプトの圧政からイスラエルの民を解放して下さったことを記念する祭りです。いやがうえにもナショナリズムが高まる時です。ローマ総督ポンテオ・ピラトも、暴動を警戒して本拠地カイザリアからわざわざ軍隊を引き連れてエルサレムに駐留していたと言います。そんなときに、大勢の弟子たちが大声で「祝福あれ。主の御名によって来られる方、王に!」と叫んでいたのです。これはローマ皇帝・カイザルに対する反逆罪と取られかねない危険な言葉です。それで、パリサイ人たちは、「このまま放置すれば、ローマ軍がやってきて、自分たちの土地も人々もとりあげてしまうだろう」と恐れたのです(ヨハネ11:48)。
しかし、イエス様はそうはならないことを知っておられました。ローマ軍の手にかかるのでなく、祭司長たちの手によって十字架に引き渡されることも予告しておられました(9:22-23)。そして今、預言の成就として、真の神の国の王としてエルサレムに入り、それは詩編で預言されていたように、人々の賛美の声で迎えられなければならないことを知っていました。神のご計画は、すべて、一つも地に落ちることなく、必ず成就しなければなりません。だから、「もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」なのです。人が神のご計画を止めることはできない。人という人を全員、口をふさいだとしても、それなら石が叫び出す。もし石が取り除かれたら、地面が、山が、空が、、、とあれがダメならこれ、これがダメならそれと、モグラたたきのようにイエス様を王とたたえる賛美が出て来る。誰にもそれを止めることができない。神の御子が、御国の王として今、エルサレムに入城するということは、それほど歴史的な、人類の全歴史の中で最も栄光ある瞬間であり、神が賛美を伴わせずにはおかない出来事だということでもあります。
「 主は御心 成し給わん 」新聖歌 301 番
今日の個所は、イエス様が柔和な王としてご自身をあらわされたというところです。私たちも、今、天の王座から、ご自身を信じる者たちからなる神の国を治めておられる王としてあがめ、従順と賛美をおささげするべきお方だということを心に刻みたいと思います。
それとともに、今日の個所から、神はご自身のご計画を必ず行われるということも心に刻んでおきたいと思います。2つの例話をお話しします。東日本大震災による原発事故の影響で長年避難を余儀なくされていた福島県大熊町の教会は、最近、ようやく毎週の礼拝を再開しようという動きになったそうです。しかし、再開するにあたって牧師自身の中にも不安やあきらめの気持ちがあったといいます。「期待半分だけどやってみたけど、誰も来なかった、ということになったらどうしよう」と。実際、それまでは月に1回、1泊や2泊で現地に泊まり込み、掃除をして、お菓子を並べ、メッセージをして、またゴミを集めて帰るという日々を何年も続けており、牧師自身も「クタクタに疲れた。いつまでやるのかな、もう年かな」と半分あきらめのような限界を感じていたそうです。ところが、いざ毎週の礼拝をスタートさせてみると、人間の計算や予想を超えた変化が起こり始めました。毎週のように、不思議といろんな人が教会を訪ねてくるようになりました。昔その教会が運営していた幼稚園の卒園生がひょっこり現れたり、かつて一度だけ教会に来たことがある人が何十年という時を経て戻ってきたり。さらにはクリスチャンではない人が「あそこに昔の建物を残して、10数年の時を経て再び時が動き出している珍しい場所があるよ」と言って、その噂を聞きつけて長崎大学の学生が訪ねてきたいと言ってくるなど、思いもしない形で次々と人が送られてくるようになりました。牧師は、この状況を振り返って次のように語っています。「今、現地で仕えている先生の報告にも『祈りの蓄積を感じています』とあった。何もないように見えて、ウンともスンとも言わない時期があっても、ガッカリして投げ出さずに祈りを積み上げていくこと。それが満タンになったとき、動き出す。だから目に見える状況が止まっているように見えても、あきらめてはいけない。もう限界だ、あきらめようか、と人の力に限界を感じていたところに、過去の何十年もの祈りの蓄積が実を結び、不思議なタイミングで次々と人が送られてきて活気を取り戻したんです。」人があきらめかけても、神のご計画は成るのです。神が実現されるのです。また、そのために、祈りも大切です。祈りは、私たち自身の信仰を支えるために、希望を失わないために、有効な手段です。
もう一つ、栃木県のある教会の話。その牧師は関東での働きを終えて、一応定年と思ったけど、ここの開拓伝道を助けてって言われて来たそうです。来たけれど、毎週集まるのが自分たち家族と、1人、2人。あるいは、もう1組の牧師家族だけ。それが1ヶ月、2ヶ月じゃない。それで、その牧師は思ったそうです。「この教会は消えるな」と。「このまま行ったら、1人、2人いる信者さんがどんどん高齢化して、献げ物も減っていって、閉じるしかないね」と。1つの教会が消滅するだろうなと本当に思っていたそうです。ところが、何年前だったか、突然いろんな人がその地域に引っ越してきました。それから、ある1人の人が学校関係で救われたら、そこの家族みんなクリスチャンになったり。今は集めたら25人ぐらいになっていると。こんなことは逆立ちしても信じられなかった。自分の計算では消滅する教会だと思って、今日も牧師さん相手にお話したり、あるいは1人相手に話したりして、それを1ヶ月、2ヶ月じゃない、ずっとそうだった。でも、やめないで続けてよかったと。人の目には希望が見えなくても、無理だと思っても、神のみこころは必ず実現するのです。ピリピ2:13-14 「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行いなさい。」
