イエス様がエルサレムを目前に控えた頃の一コマです。このたとえ話は、いわゆる起承転結の構成になっていて、起 12-14節、承 15-19節、転 20-23節、結 24-27節と見ることができます。11節には、今日のたとえ話の背景が説明されています。当時、人々の間には、弟子たちも含めて、神の国の到来について大きな誤解がありました。11節。「これらのことば」とは、これまで語られてきた神の国についての教えのことでしょう。彼らは、イエス様が都エルサレムに入れば、すぐにでも異教徒の支配者ローマの圧政を打ち倒し、栄光に満ちた神の国が実現すると期待していました。当時、この地方では、神の国を待望する熱狂的な運動が続々と起こっていたと言います。たとえば、使徒の働き5:35以下には、聖霊によって福音を宣べ伝えていた使徒たちをどう扱うかについて、偉い律法学者の先生が次のように述べています。
「イスラエルの皆さん、この者たちをどう扱うか、よく気をつけてください。先ごろテウダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどになりました。しかし彼は殺され、従った者たちはみな散らされて、跡形もなくなりました。彼の後、住民登録の時に、ガリラヤ人のユダが立ち上がり、民をそそのかして反乱を起こしましたが、彼も滅び、彼に従った者たちもみな散らされてしまいました。そこで今、私はあなたがたに申し上げたい。この者たちから手を引き、放っておきなさい。」ここに当時、我こそは、イスラエルに解放をもたらすメシアだ!とローマに反旗を翻した者たちが次々と出現していた様子が記されています。ですから、イエス様の話を聞き、片っ端から病人を癒すのを見た人たちのほとんどは、この方こそ、神から遣わされたメシア、エルサレムに入ったらすぐにでも、ローマの支配を取り除き、栄光に輝く神の国を実現してくれるに違いない、と誤解していたのでしょう。
しかし、イエス様がこれから向かうのは王座ではなく十字架です。そして神の国が目に見える形をとって実現するまでには、主が不在となる期間があること、それも「遠く」まで旅に出ますから、相当な時間があること、しかしやがて必ず王位を受けて帰って来られること、そして主が地上に不在の間、しもべたちがどう過ごすべきか、を教えるために、このたとえ話が語られました。
12-14節。ある身分の高い人が王位を受けて帰るために遠い国へ旅立つとは、イエス様が、十字架と復活を経て天に昇り、やがて再び戻って来られること。そのときは、目に見える形で実現する神の国の王として戻って来られます。旅に出る前に、彼は10人のしもべに1ミナずつ、預けて「私が帰るまで、これで商売をしなさい。」と言いつけました。1ミナは、労働者の約100日分の給料と言われます。一方、14節には何やら不穏な動きが記されます。この人々は彼を憎んでいたので、彼の後に使者を送り、「この人が私たちの王になるのを、私たちは望んでいません」と言ったというのです。これは、ユダヤ人たちがイエス様を拒絶したことを指します。なぜ、拒絶したか。イエス様は神の御子として、神のご性質を表すお方です。きよく、真理を語り、弱い者、悲しむ者、悔い改める者にはあわれみを示して希望を与え、他方、傲慢な者、宗教指導者たちには、その偽善や罪をあきらかにして、悔い改めを迫ったからです。イエス様を拒むということは、イエス様があらわしている神ご自身を拒むということでした。そして神が差し伸べている救いの御手を拒むということでした。
さて、主人は無事、王位を受けて帰ってきて、しもべたちの働きの決算が始まりました。まず最初の二人。15-19節。彼らは、預かった1ミナを用いて積極的に商売をして、それぞれ10ミナ、5ミナを得ました。17節の主人の言葉をよく見てみると、稼いだ金額そのものよりも、しもべの忠実さが認められたことが伺われます。「よくやった。良いしもべだ。おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」チェックポイントは「忠実さ」です。商売の才能とか、稼いだ金額とかでなく、「忠実だったから」と。聖書のほかのところでも教えられていますが、これは、神が私たちの働きを評価する時の大原則です。主は忠実さを見られます。もしかしたら、主人が不在の間にしもべたちに1ミナを預けたのは、単にお金を無駄に眠らせておきたくないというよりも、しもべたちの忠実さを見るためだったのかもしれません。ふるいにかけると言いますか。主人が王位に就いたときに、「忠実な者たち」をそれぞれの賜物に応じて、ふさわしい地位に就かせるために。
ですから、5ミナもうけたしもべにも、「5ミナしかもうけなかったのか。あいつは10ミナだったぞ!」などと責める言葉は一つもなく、同じようにもうけた額に応じて5つの町を支配させました。これが不忠実だったら、一つの町たりとも、任せるわけにはいきません。
ところで、ここでイエス様が再び来られた時に、彼らに与えられる報いが、10の町、5つの町を支配することだと言います。やがて来る歴史の最終章、ゴールで実現する神の国では、キリストとともに治めるということは、何よりの最高の栄誉であり喜びであり、報いなのだろうと思います。今の、この世での私たちのあり方が、将来、やがて来る世でのあり方を決めます。テモテへの手紙第一6:18-19「善を行い、立派な行いに富み、惜しみなく施し、喜んで分け与え、 来たるべき世において立派な土台となるものを自分自身のために蓄え、まことのいのちを得るように命じなさい。」今の世でのあり方が、来るべき世でのあり方に影響を与えることが、ここにも記されています。さらに、ローマ8:17「キリストとともに栄光を受けるために、苦難をともにしているのですから、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。」キリストとそのしもべたちが共に御国を治めるという図は、歴史に対する神のご計画のゴール、完成形です。
そのとき、主はご自身の心をしもべと分かち合い、しもべは主の心をわが心として、主と心を一つにしてお仕えし、こうしてしもべたちは、主から御国の運営を安心して任せられるパートナー、共同統治者となります。10の町、5つの町を支配するとは、主から「あなたはわたしと心一つになっているから、わたしの名代としてこの町々を治めてくれ」と全面的に信頼される、人としての最高の栄誉です。そのとき、神のかたちとして造られた人間は、その本来、造られた目的を全うするのでしょう。
さて、最初の2人のしもべは良いしもべでした。問題は、別のしもべです。起承転結の転です。20-23節。これは一見、主人を恐れているように見えますが、よくよく見てみると、逆にふてぶてしいようにも見えます。あからさまに主人の命令を不当だと非難しているように見えます。21節「あなたは預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取る厳しい方ですから…」預けた1ミナで商売をせよ、という主人の命令を、彼は、預けなかったものを取り立てる、不当な命令と言っています。1ミナを活用して商売して増やせということですから、1ミナしか預かってないのに、1ミナ以上を返さないといけない。それを、預けなかったものまで取り立てる不当な要求だと、主人を非難しているのです。
これに対して主人は、「悪いしもべだ。私はおまえの言葉によっておまえを裁く」と言われました。確かに、このしもべの言い草には矛盾があります。彼は、主人を厳しい人間で、預けなかったものを取り立てる方だと言いながら、利息もつけずに元本だけを突き返しています。命じられていることに、真っ向から反抗して、開き直っています。ふてぶてしい態度です。もし、本当に主人をそのような人間だと思っていたら、利益なしに元本だけをそのまま返すことが、どれほど主人を怒らせるか分かっていたはずです。そしてそれゆえ、商売はできなくても、銀行に預けて少しでも益を得ようとしたはずです。それすらしないということは、要するにこれは、怠惰なのか、何なのか、主人のために益をもたらそうという気のないしもべの、何もしなかったことの言い訳なのでしょう。当時も今も、銀行に預けて利息を得るのに、労力やリスクはほとんど発生しません。それをしなかったということは、単に、主人のために益をもたらそうという気がなかったということ。それは悪意ある不従順です。しもべ失格です。
もしこのしもべが、商売をすることは失敗を恐れてできなかったとしても、主人のために少しでも増やそうという気持ちがあって、銀行に預けていたら、それで得られる利息がわずかだったとしても、この主人は怒らなかっただろうと思います。主人のために益をもたらそうという心をもって、自分のできることをしているからです。
こうして最後に、悪いしもべに対する裁きの言葉が述べられます。24-27節。悪いしもべは預けられていた1ミナを取り上げられ、それは10ミナ持っている者に与えられました。不忠実な者は、何も任されない。忠実な者はさらに任される。当然と言えば当然です。「持っている人はさらに与えられ、持たない人は持っている物まで取り上げられる」という、これも聖書の他のところでも記されている霊的法則です。だから、今、与えられている恵みを無駄にせず、勤勉に、忠実に用いなさいと励まし、怠惰を戒めることばです。
そして最後、27節は最も厳粛な裁きの言葉です。10人のしもべとは別の、主人に敵対していたこの国の人々に対する裁きの言葉です。直接的には、イエス様を拒絶した当時のユダヤ人指導者たちですが、現代においてもキリストの救いを拒み続ける世の姿でもあります。主の再臨の日には、忠実なしもべへの報酬の決算だけでなく、主を拒絶した者たちへの裁きが執行されるという事を聖書は告げています。私たちの多くも、かつては神に敵対する者でしたが、神はそんな私たちのために御子イエス・キリストをお遣わしくださって、私たちをご自身と和解させて下さいました。さばきの時が来る前に、今のうちに、キリストを信じて、神と和解する人が起こされますようにと願わされます。
「イエス君は いと麗し」新聖歌 141 番 この箇所で「主が来られる日まで、商売を」という題の説教がありました。主は私たち一人ひとりに「1ミナ」を預けておられます。最後の一日まで、主のために益となることをさせて頂きたいと思いますし、たとえその力はなくなったとしても、その願いは最後まで持ち続けたい。私たちの主イエス・キリストは、十字架で私たちの罪のために死なれ、復活し、天に上られました。そして約束通り、栄光の王として、再び来られます。その時、主の前に立ち、イエス様から評価を受けます。主は私たちの不完全さや失敗を責める方ではありません。与えられている今のいのち、時間、あらゆるものを「主のために」と用いる心。主が喜ばれる忠実さとは、その心をもって、主からお預かりしているものを用いる忠実さです。
19世紀のイギリスに、ある熱心なキリスト者の実業家がいました。彼は若くして商売で大きな成功を収めましたが、ある時、このルカ 19章の御言葉に直面しました。「自分の富も、時間も、才能も、すべては天の主から『商売をしなさい』と託された1ミナに過ぎない」と気づかされたのです。彼は自分の利益をため込むことをやめ、福音宣教の働きや、貧しい子供たちの教育のために、その資産を大胆に投資し始めました。
周りのビジネス仲間からは「そんなことに使っては損をするだけだ」と笑われました。しかし、彼はこう答えました。「私は、本当のオーナーである主人が帰ってこられた時に、『預けた資産をどう用いたか』という決算報告をしなければなりません。主人のビジネス(神の国)のためにこれを用いることほど、確実な投資はありません。」彼は地上での生涯を終える時、多くの魂が救われ、神の国のために豊かな実が結ばれたことを見届け、喜びの中に主のもとへと帰っていきました。
毎日少しだけ誰かのために祈る、優しい言葉をかける、自分の持ち物を分かち合うといった「確実なルーティン」を継続すること。これも、着実に利息を生み出す銀行預金のような生き方です。大切なのは、主のために実を結ぶという思い。主に益をもたらしたいと願う心です。私たちのお慕いするイエス様を賛美して、その心を新たにしましょう。