「それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです」(11節)と、パウロは、キリストによる救いを大喜びしていた。12節からは、この喜びがどのようにもたらされるのかを、最初の人アダムとキリストを比較することによって明らかにしようとしている。
<1、罪と死の支配>
罪からの救いを理解しようとするのに、避けて通れないのが罪の事実である。なぜ罪が全人類に入ったのか? 最初の人アダムの背きによって、罪が全世界に入り、この罪によって死が入り、死は全人類に及んでいる。これが聖書の主張であり、パウロの理解である。(12節、創世記3:1~19)ここで言う「ちょうど一人の人によって罪が世界に入り」とは、アダムの罪のゆえに、「すべての人が罪を犯した」ことを意味している。そのようにして「死がすべての人に広がった」ので、死を免れる人は一人もいない。アダムの罪がなぜ現代の自分に及ぶのか、全く理解できないと抗弁しようとも、罪によって、死がすべての人に等しく広がったのである。(死、そして、ありとあらゆる悲惨の事実が、罪の事実を物語っている。罪そのものを指しているとも言える。)
「死」は肉体の死を指すとともに、霊における死を指している。肉体が朽ちていく死を「自然死」とすれば、霊における死は、神との交わりが断たれた状態、「霊的な死」を意味する。この「霊的な死」が、すべての人を罪に閉じ込めている悲惨の元凶である。この死からの解放なくして、私たちに、決して救いはない。罪に堕ちた人間は、罪を罪と気づかず、自分勝手な道を突き進む。そのまま「死」の恐れから逃れられず、神との交わりが絶たれたまま、平安を得ることもできず、真実な喜びもないままに、地上の生涯を終える。神への背きの結果、罪の支配の下、死の支配の下に閉じ込められたからである。
<2、キリストにある恵みといのち>
罪の自覚、罪の認識という課題はとても大きい。罪を罪とも思わないのが、私たち人間の罪の現実である。これが罪の支配の下にあることであって、死の支配の下に閉じ込められたからである。旧約聖書のモーセの時代に、十戒によって律法が明らかにされ、それによって何が罪であるかが明確にされた。けれども、それ以前に罪がなかったわけではない。罪を認識することが曖昧であった。罪は厳然と存在し、人々は死を免れることはなかった。それほどにアダムの罪はすべての人に及び、個々の人の罪の事実や、また認識の度合いは関係なしに、全人類が死の支配下に閉じ込められたのである。(13~14節)
他方、目をキリストに転じると、そこには驚くほどの恵みが溢れている。一人の違反によって多くの人が死んだ事実を、全く凌駕するかのように、一人の人イエス・キリストによって、多くの人に恵みが満ち溢れる。アダムにおいて罪の支配がすべての人に及んだ事実は、キリストにおいて、いのちの支配が彼を信じるすべての人に及ぶ事実に符合する。この場合、パウロは、「恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです」と語って、一人の義の行為、一人の従順が、キリストを信じるすべての人が義と認められる根拠となり、多くの人をいのちの支配下に導き入れることになると言う。アダムの場合と同様の型を持ちつつも、キリストの場合は「恵み」が溢れるばかりに注がれ、もはや死を恐れることなく、いのちを喜ぶ、神との交わりが回復されるのである。(15~18節)
<3、いのちの支配下に移される幸い>
罪の支配下、また死の支配下から、いのちの支配下に移されること、これがキリストにあって与えられる救いである。一人の人にこのことが起こるのは、大いなる変化で、大逆転が起ったことになる。パウロは、自分の人生にこの大逆転が起こり、11節で「神を喜んでいます」と叫んでいた。この喜びを一層大喜びする秘訣は、この大逆転を心に刻むことと確信した。罪と死の支配の恐ろしさを知ればこそ、恵みといのちの支配の測り知れなさを喜んだのである。「恵み」、「義の賜物」、「いのち」、「永遠のいのち」など、これらはすべて、「信仰による義」に基づく救いを言い表している。もはや死を恐れることのない「いのち」、神との交わりを大喜びする「永遠のいのち」に生きるのである。(19~21節)「永遠のいのち」は、死後のものというより、今、神との交わりの中で、真のいのちを生きること!という視点が大事となる。
律法は確かに罪の自覚を促している。と同時に罪を増し加えるのも事実であった。人は律法によって心に責めを負いつつ、違反から遠ざかるより、かえって違反に近づきこそする。罪を離れ、罪を犯すまいと決心しても、なお罪に打ちのめされる。しかし、救いはただ恵みにより、信仰によるゆえに、罪を自覚することによって、また罪が重く、自らはどうすることもできないと知ることによって、神の恵みは底なしと知るのである。救いは勝ち取るものではなく、与えられるものと知る者は、ただただ感謝と喜びに溢れる。パウロしかり、ペテロしかり、ルターしかり。私たちはどうだろうか・・・。
<結び>
イエス・キリストを信じ、クリスチャンとなり、罪を自覚するようになって、かえって心にずしりと重いものを感じる、ということがある。信仰を持つ以前の方が気が楽だった、と。大事なのは、罪を自覚し、罪を認めることによって、キリストの十字架の必要を知ることにある。罪を知ることによって、神はその罪を赦すためにキリストを遣わして下さったと知るのである。20節の「しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました」とは、罪を知れば知るほど、キリストを仰いで、罪と己とを嘆き悲しむところから解き放たれ、もはや恵みといのちの支配の中に入れられている自分を知らされることを告げている。罪に打ちのめされたり、心を曇らされることなく、神を喜ぶ道がそこにある。恵みにより、信仰による救いの大切な視点である。
地上の生涯で、私たちを一番恐れさせるものは何か。反対に一番喜ばせてくれるものは何なのか。常日頃、健康でいられるかどうかは、私たちの大きな関心事であるが、病は不幸なのかというと、必ずしもそうではない。病の時も、キリストにあって平安と喜びの内にある方の証しを多く知らされる。死が一番の恐怖かと問うと、これも人によって個人差がある。肉体の死だけでなく、霊的な死をも心に留めるなら、やはり「死」こそが、私たち人間にとって最大の恐怖に違いない。全ての人が暗黙の内に神の裁きを悟るからであろう。死後のことが分からないだけに、より恐れを感じるとしても、罪と死に支配されているので、不安は底知れないものとなる。けれども、キリストにある者は、罪の赦しを与えられ、もはや、いのちの支配下に移されている。いのちの支配下にある者は、決して罪に支配されない。死の恐れも、キリストを信じる者を脅かすことはできない。完全な救いの中に入れられている。自分で勝ち得たのではなく、そこに達し得たのでもない救いである。驚くべき救い、溢れる恵みと言うべきものである。地上にある限り、罪の事実に動揺させられても、神の恵みは満ち溢れ、いのちの支配下にあることは決して揺るがない。罪の赦しの恵みを心から喜び、感謝をもって日々を生きる者とならせていただきたい。