礼拝説教要旨 2026年6月7日

失われた者を捜して救うために

ルカの福音書19:1-10

教会学校育ちの人にはおなじみのザアカイさん、紙芝居にもしやすい箇所です。文脈をおさえておくと、今お開きの右側のページ、上の段に、裕福な青年が富への執着のゆえに、イエス様の前を悲しみながら去って行った記事がありました(23節)。それでイエス様は「金持ちが神の国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言われ、弟子たちが「それでは誰が救われることができるのでしょう」と驚くと、イエス様は「人にはできないことが、神にはできるのです。」と言われました(27節)。金持ちの青年は「人にはできないこと」の例とすると、今日の個所は「神にはできるのです。」の例証となります。つまり、ここは、金持ちが救われるという不可能をなさった神の救いのみわざの記録です。

1-2節。イエス様一行は、いよいよエルサレムの目と鼻の先エリコに入りました。棕櫚の木の葉っぱがバンザイしているような、亜熱帯地方特有の光景の美しい町です。ここはエリコ街道のターミナル都市で交通・貿易の要衝で、経済的にも栄えていました。当然、そこには人々から税を集める取税所もありました。そこに取税人のかしらザアカイがいました。取税人は、お金のためににっくきローマ帝国に魂を売り渡した者、信仰を捨て、神の民たることを捨てた罪人と人々から見なされていました。また、彼らは決められた額よりも多く人々からお金を搾り取り、私腹を肥やしていた守銭奴でした。当時の文献には「強盗と人殺しと取税人」と同列に置かれていたそうです。お金はありましたが、人々から軽蔑され、共同体から排除されていました。その取税人の「かしら」は、取税人たちを雇って徴税した人で、あたり一帯を取り仕切っていたのですから、相当裕福だったでしょう。そんな彼が、このとき、どうしてもイエス様を自分の目で見たいという願いに突き動かされていました。
3-4節。「イエスがどんな人か見ようとした」というと、ただの野次馬みたいに聞こえますが、この後の展開を見ると、彼の心の中には飢え渇きがあったと思われます。社会からつまはじきにされ、お金はあっても、心は何とも言えないむなしさがあった。あるいは、当時、神が遣わす救い主が来て、神の国が到来した時には、義人は神の国に入り、罪人は外に放り出されて裁かれる、と言われていましたから、もしその時が来たら、自分は間違いなくはじき出されるに違いないと恐れてもいたでしょう。でも、今さら、やり直しなどできるはずもない。そう、あきらめてかけていたところに、この方こそ、救い主ではないかと噂されるイエス様のことを耳にした。イエス様は取税人にも、悔い改めるなら、神は喜んであなたがたを迎えてくださると宣べ伝えているという。実際、十二弟子の中には元取税人の者までいるというではないか…。そんな噂を耳にして、心に小さな希望の灯が灯っていたのかもしれません。しかし、人のうわさだけで信じるわけにはいかない。自分の目で、イエスという方がどんな方か、見てみたいと考えたのでしょう。

ところが彼は、背が低かったので、群衆のために見ることができませんでした。群衆の間を縫って、あっちいったり、こっちいったり、見ようとしましたが、人々からははじかれるばかり。誰も入れてくれない。しかし彼はあきらめません。少し、動いてダメだったからと言ってあきらめない。そして、彼はかしらをするだけあって、機転が利くと言いますか、少し先の方に走って行って、いちじく桑の木に登りました。あきらめずに求め続ければ、道はあるものです。ちょうどおあつらえ向きにいちじく桑の木がそこにあったのも、神のお計らい。いちじく桑は、枝が低く横に広がるため、登りやすい木だそうです。神は先回りして必要なものを備えてくださる方です。

カルヴァンは、ザアカイがイエス様を一目見ようと木に登った行為を、単なる好奇心ではなく、聖霊の隠れた働きによる信仰の準備であったと見ています。裕福な取税人のかしらの地位にありながら、プライドを捨てて木に登った行為は、彼の内に強い霊的な渇望があったことを示しています。主は、ご自身を明らかにされる前に、まず人の中に主を知りたいという密かな願いを起こさせ、適切な時期に御自身を現されるのでしょう。

5-6節。木の上のザアカイを見つけて、先に声をかけたのはイエス様でした。ザアカイと名前を呼んでいるのは、ザアカイは取税人のかしらでしたから、元取税人マタイも彼のことを知っていて、「イエス様、彼はこのあたりの取税人のかしらザアカイです」とイエス様に告げたのかもしれません。イエス様は彼を見るや、「急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。「急いで」主の招きには、速やかに応答すべきです。主が招いているのに引き延ばすのは不誠実。「急いで降りて来なさい」とイエス様に言われてザアカイは「急いで降りて来て、喜んで」イエス様を迎えました。「今日はあなたの家に泊まることにしている」と見ず知らずの人の家に、いきなり、こういうことは普通、言いません。イエス様が厚かましいわけではなく、原語を調べると、これは神的必然と言って、神が定めておられたことで、そうでなければならない、という意味だそうです。ザアカイの家に泊まらなければならない。神がそう定めておられる。神のご計画。他方、ザアカイはと言えば、社会から疎外されてきた彼の家に、今まで、取税人仲間以外、誰も来ようとしなかったでしょう。それがイエス様の方から、あなたのところに泊まることにしていると言ってくださった。それはザアカイにとって、うれしいことだったでしょう。彼は「喜んで」イエス様を迎えました。カルヴァンは、これは主の驚くべき慈愛の証しだと言っています。当時、最も忌み嫌われていた取税人に対して、主は人からどう思われようと、近づいてくださったからです。案の定、人々はぶつくさとつぶやいたと言います。
7-8節。イエス様も、やっぱり、金持ちの家に行くんだ、あんな罪人の親玉のところでも。すごい御馳走でもてなされて、ガッポリお金ももらうんだろう、などと言ったのでしょうか。ゲスの勘繰りです。しかしイエス様の行動に間違いはありません。ザアカイは、立派な悔い改めの実を結びます。「ザアカイは立ち上がり」決然とした様子を表します。そして、財産の半分を貧しい人たちに、残りの半分のうちから、これまでだまし取ったものを四倍にしてその人たちに返しますと表明しました。律法が定める詐取の償いは「元本+5分の1」ですが(レビ6:5)、ザアカイはより重い罪(羊を盗んで売却した場合)と同等の「4倍」を適用します(出エジプト22:1)。これは、彼の救いが「口先だけ」でなく、富への執着からの完全な解放を伴う、真の悔い改めを伴うものだったことの証です。そして、それは「人にはできないこと」なのですから、神のみわざ以外の何物でもありません。彼は、イエス様に言われて、言ったのではなく、自発的に言いました。心そのものが新しくされた、内面の生まれ変わりが起こったことの証です。聖霊のわざです。ザアカイは自分が狼から羊へと変えられたことを証明しました。単に心の中で「ごめんなさい」と言うだけでなく、自分が他者に与えた損害を実際に回復させようとすること。それが真の悔い改めの実です。

かつて彼にとって、富は自分のアイデンティティであり、命綱であり、神(偶像)でした。しかし今は、地上の富をはるかに凌駕する「イエス・キリストという至上の宝」を手に入れました。罪を悔いる罪人に向けられるキリストの愛と赦し、受容。そして神の国に入れて頂く希望を手にしたとき、彼にとって富という偶像は、もはや何の魅力もなくなりました。飴玉を握りしめていた子供が、目の前にもっと大好きなイチゴのショートケーキをどうぞ、と置かれたときに、自分から飴玉を手放してケーキを食べるフォークを手に取るように、彼の心が、キリストという彼の魂を真に満たすことのできるお方にとらえられたときに、言われなくても自然と、富という偶像を手放したのでした。彼にキリストをそのようなお方としてあらわしたのは、聖霊のみわざです。

9-10節。彼は施しや償いをしたから、救われたのではありません。それらは、救いの条件や根拠ではありません。彼はイエス様を信じたので、その信仰によって救われました。その救われたことのあかしとして、施しや償いという実を結んだので、「今日、確かに、救いがこの家に来ました。」と言われたのです。そして、主は「この人もアブラハムの子だ」と宣言されました。血統的にはユダヤ人でありながら、それまでの生き方ゆえに神の民から除外されていたザアカイが、キリストへの信仰のゆえに、正当な「アブラハムの子(神の約束の相続人)」としての霊的アイデンティティを完全に回復されたのです。彼にとってアブラハムの子と呼ばれたことは、どれほどうれしい、喜びにあふれた瞬間だったでしょう。
そして最後の10節。ルカの福音書全体の中心聖句と言われます。「人の子(キリスト)は、失われた者を捜して救うために来たのです。」実は3節「見ようとした」は、原語では「見ることを捜し求めた」で、その「捜し求める」とここの「捜す」は同じ語です。ザアカイも「捜し求めた」。イエス様も失われた者を「捜し求めて」この世に来ていた。両者の求めが出会うとき、そこに神の救いのみわざが起こるのでしょう。両者を出合わせるのは神です。

「失われた者」という表現は、元々神のものであったということです。人はもともと神の愛する子どもとして造られましたが、神に背き、罪を犯し、神とともに住むことができなくなりました。人の心は神から遠く離れてしまいました。それを神は、失ったと感じてくださったのです。神が私たちを愛しておられるからです。喪失感を感じておられるのです。それで神から離れ、自力では戻れない、滅びに向かっている人々を捜し出して、救うために、神は御子を救い主キリストとしてお遣わし下さった。ただ捜し出すだけではなくて、罪ある者を救うためには-神のもとに帰らせるには-キリストが私たちの罪を背負って、身代わりに十字架で苦しみを受けなければならないのに、その身代わりの死をさえ、自ら進んで引き受けて下さる覚悟をもって来てくださいました。その死によって、私たちは神のもとに帰り、神の力によって新しくされ、きよめられ、神の似姿に変えられる驚くべき恵みにさえ、あずかる者となりました。

「 捜し求めて 救い給いし 主の御恵みは 」新聖歌 33 番

あるアンティークショップの片隅に、古びて傷だらけになり、完全に動かなくなった一台の置き時計がありました。文字盤は汚れ、ネジは錆びつき、通りかかる客たちは誰も見向きもしません。ある客は「こんな壊れたゴミ、何の役にも立たない」と言って通り過ぎました。しかしある日、一人の老人がその店にやってきて、その時計を見るなり、目をごしごしと擦り、愛おしそうにその時計を両手で抱え上げました。店主は「そんな壊れたものはタダ同然ですよ」と言いましたが、老人は「いや、これは私が何十年も前に、特別な思いを込めて作った世界に一つだけの時計なのだ。長年、行方が分からなくなって捜していたのだよ」と言って、高価な金額を支払って買い取りました。

老人は家にその時計を持ち帰り、一つ一つの部品をきれいにし、錆を落とし、油を注ぎ、欠けた歯車を新しく交換しました。すると、長い間沈黙していたその時計は、再びチクタクと美しい音を立てて、正確に時を刻み始めたのです。

世の人々は、ザアカイを蔑み、見捨てていました。しかし、神とともに彼を造られた方であるキリストは、彼がどれほど傷つき、動かなくなっているかをご存じでした。そしてザアカイも、主にとってかけがえのない民でした。それで、主は彼を捜して、買い戻してくださったのです。私たちも同じです。私たちが主を捜し求めるよりも遥かに前に、主の方が私たちを捜し求めて、人となって世に来て下さっていました。十字架にまで、かかって下さいました。その主は今も、呼んでおられます。「〇〇さん、急いで降りて来なさい。今日、あなたの心に、あなたの家に泊まることにしている」と。喜んでお迎えしましょう。