ウェルカム礼拝説教要旨 2026年5月31日

人とはいったい何ものなのでしょう

ヨハネ1:12-13

<はじめに:アイデンティティの大切さ>

今日のテーマは「人とはいったい何ものなのでしょう」です。普段、そんなことを考える暇がないかと思いますが、改めて考えてみると、これはとても大切なことなのではないか、と思いました。自分を何者だと思っているか、ということをアイデンティティと言ったりします。アイデンティティという言葉もいろいろな使われ方をしていて、なかなか日本語にしづらいのですが、辞書的には「自己同一性」と訳されるようです。たとえば、会社勤めの人が、自分の存在価値を会社に置いて、「自分=この会社の人間であること」と同一視していたとすると、会社を退職したときに、自分自身を失ったかのように感じる場合があります。その場合、自分の(会社の人間という)アイデンティティを失ったことになります。また、「アイデンティティの確立」というと、「私はこういう人間で、これが大切で、この道を歩んでいく」「これが私だ」というブレない軸(信念や確信)が心の中に定まることです。その「自分はこれだ」というアイデンティティに立って、生きていくことになります。

しかし、みんながみんな、そういう明確なものをもっているわけではなくて、知らず知らずのうちに周りから、あるいは状況によって、自分のアイデンティティを形作られて、自分はこういう者だと思い込んでいることもあります。人はアイデンティティによって、人格や品性が形成されます。自分を、どんな存在と思っているか。自分が誰からも愛されず、必要とされない、価値のない人間と思えば、そのような振る舞いをし、そのような人生を歩むでしょう。本当はそうでないのに。逆に、自分は愛されているし、尊い存在だと(良い意味での自尊心)を持っている人は、そのように振る舞い、そのように生きるでしょう。神は私たちすべてにそのように生きてほしいと望んでおられます。困難や試練にあったときにも、そのアイデンティティの違いによって、それに向き合う姿勢がだいぶ違ってくるでしょう。

ティム・ケラーというアメリカの牧師は、現代社会の多くの人々(宗教的な人やそうでない人を含め)が、自分の業績、富、あるいは人からの評価によって、自分はこんなに立派な人間なのだ、というアイデンティティを獲得しようとして苦しんでいると指摘しつつ、聖書が与えるアイデンティティはそれとは全く異なると言います。それは、人が神の子どもとして造られた、神に愛されている存在であり、しかも、これは自分の頑張りで獲得するものではなく、ただ受け取るものだと言います。そして、このような神の子どもとしてのアイデンティティは、私たちに、魂の深い安息を与えるとも言っています。それに加えて、平安、喜び、また将来に対する希望と困難の中で支える力をも与えるものだと思います。

<神はどんな方?>

そのように、人は本来、神の子どもというアイデンティティを与えられているのですが、では、その「神」とはどんな方なのでしょうか。聖書の神は、全世界・全宇宙を造った方です。海も山も大地も空も、太陽も月も無数の星々もお造りになった方。この世界を人間の住処として素晴らしく整えて下さいました。気が遠くなるような広大な宇宙もそうです。神の力は計り知れません。その知恵、知識も計り知れません。人体の神秘みたいな番組がときどき、ありますが、人間の体の仕組みを知ると、感動しない人はいないでしょう。実に精妙に、驚くべき知恵をもって造られています。ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥氏は、人間のからだを研究していると、神が造ったとした思えないとさえ、言っています。人間だけでなく、動物も昆虫も、植物もそうです。「ファーブル昆虫記」を書いたファーブルは、昆虫のからだを観察して、私は神を見ているのだ、と言ったそうです。そこにあらわれている驚くべき知恵、また命を慈しむ神の慈しみを見ているという意味でしょう。

また神は慈しみ深く、あわれみ深い方です。動物の親子にさえみられる親の愛情、子を慈しんで育てる様子もまた、神が慈しみを喜ばれる方であることを証ししています。世界は造り主である神を映し出す鏡です。それと同時にまた、神は正しい方です。悪を憎み、正義をよしとされます。人間の良心がそのことを証ししています。また神は聖い方。聖なるお方です。神は光であって、暗いところが少しもありません。そして神は愛なる方。人間の間に愛があるのは、神が愛なる方だからです。神は愛の源です。

そして人間は、この神の子どもとして、本来、造られていたのです。

<神の子どもとして造られた>

まず「造られた」ということに注意。人間は偶然の産物でも、自然発生でもなく、神によって造られたということ。造るということは、意図があるということ。イスならイスを、座るために造ります。家なら家を住むために造るなど、目的をもって造ります。だから、私たち人間には、造った方の目的があるのです。造った方から離れて、本来の目的はわかりません。また、神の子どもとして造るからには、心を込めて造ったということ。決していい加減に、やっつけ仕事ではない。神の最高傑作、神の至宝として造られたのです。

聖書の最初の創世記というところの1章には、神が人間を造られたとき、ご自身に似せて、ご自身のかたちに造られたとあります。神の子どもですから、神に似た者として造られたわけです。神はこの世界を造った方です。その方に似せて造られたということは、この上ない栄誉、この上なく尊い存在として造られたということです。人間の尊厳は、ここに根拠を持ちます。これは、人間が神の至宝であり、これより尊い存在はないということです。ここに、人間が何者であるかの究極の答えがあります。

神のかたちと言っても、神は肉体を持ちませんから、見た目のことではありません。目に見えない性質のことです。神が愛なる方であるように、人間も愛する者として造られました。神が聖く、正しい方であるので、人もきよい心と正しい良心を刻まれた者です。神は計り知れない知識を持って世界を治めていますから、人は有限な知識ですが、知識をもって世界を治める者として造られました。そのように神に似た性質を持つ神の子どもとして、神に愛され、私たちも神を愛し、神の御心を地上で行う者として造られました。もちろん、他の被造物も、神は喜んで造られました。しかしそれらは、本能にしたがって行動するだけで、自らの意思によって善を選び、悪を退け、神の御心を選び取ると言ったことはできません。人間と動物は肉体の構造においては共通した部分が多くあるとしても、神のかたちに、神ご自身の似姿に造られたという点において、動物とは全く異質の、特別な存在。人間の本質は決して動物の延長線上にあるのではありません。ですから、動物と同じように本能や欲望の赴くままの生き方をしていてはいけないのです。それは獣のあり方であって、人間は違うのです。現代は、自由、自由と言いながら、その実、欲望に身を任せて、獣のように成り下がる道を突き進んではいないか、と感じることがあります。人は神に似せて、高価で尊いものとして造られたのです。自分を安売りしてはいけません。せっかく神の似姿に、尊い存在として造ったのに、人が獣と同じありさまになった姿を見たら、神は悲しまれます。

神は私たちをご自身の愛する子として造られました。「自分は大切な存在であり、愛されている」という確信は、アイデンティティの最も深い核になります。心理学者のエリクソンという人は、「『愛されている』という確信から来る、自分自身の存在への深い信頼がある人は-『私は大丈夫だ』という深い信頼がある人は-他者からの批判や状況の変化といった外的な嵐に直面しても、『私の価値は変わらない』という軸を保ち続けることができる」と言っています。聖書は、私たちが、神から無条件の愛で愛されていると教えています。王の家に生まれた子どもが、その家に生まれただけで、その家の一員であり、王の子であり、守られ、養われ、尊ばれ、愛され、王の子にふさわしく育てられ、訓練されるのであって、何か王の子として受け入れられるに値するようなことをしたからではないように、神の子どもとして造られた人間は、何かを成し遂げたからでなく、最初から、人間であるだけで、神の子どもとしてのすべての恵み、祝福を受ける者だったのです。自分が成し遂げた功績、業績や世の評価に根ざしたアイデンティティは、常にそれを失う恐怖を伴います。しかし、神の子どもであるアイデンティティは、そうではありません。また世の評価は、ガラリと変わります。昨日まで善とされていたことが、今日は悪とされることがあります。作家の三浦綾子さんは、戦時中、愛する子どもたちに心から正しいと信じて教えていたことが、戦後、教科書に炭を塗らされて、正反対のことを教えなければならなくなり、やがて教師を辞めました。そしてどんな時代になっても変らないものを求めて、やがてキリスト教に導かれました。私たちが神の子どもであるというアイデンティティは、いつの時代にも、どんな世の中になっても、変わりません。

私たちが「神の子ども」であるというアイデンティティは、私たちの成功や失敗によって揺らぐことのない「すでに与えられた(受け取った)最高の身分」です。人の価値は、見た目や、学歴や、収入や、仕事の成果によって1ミリも変わりません。私たちが人として造られているという事実があるだけで、神の前にこれ以上ない価値があり、愛されている存在です。

<アイデンティティの回復>

以上、述べてきたことは、本来、人間がどのようなものとして造られたか、ということでした。しかし、「神のかたちとしてそんなに素晴らしく造られたのなら、なぜ現実の人の世は悲惨なのか。」と疑問に思うでしょう。聖書は、その理由をこう教えます。人間は神から離れて、背を向けて、神の子どもの身分を失ってしまったから。そして、自分がどんなに神に尊い存在として造られたか、どれほど愛されているか、見失い、自分が造られた(生まれてきた)目的もわからなくなり、神に似せて造られたはずの神のかたちも、大いに損なわれてしまったからです。人はアイデンティティを失って、世は混乱の中に投げ込まれました。

しかし、神は、私たちを再び、ご自身の子としてくださるために、ご自身のひとり子イエス・キリストをこの世界に送ってくださいました。そして、キリストは、私たちが神を無視して生きてきたすべての罪を代わりに背負って、十字架の上で命を捨ててくださいました。私たちがまだ罪の闇の中にいたその時に、イエス様は私たちを愛して、ご自分から進んで十字架にかかってくださいました。このキリストを信じる者は誰でも、罪が完全に赦され、神の子どもとされる特権を与えられました。12節に「神の子どもとなる特権」とあります。「特権」とは法的な権利のことです。私たちがどう感じるか、でなく、法的に効力のあるものです。この特権は、キリストが私たちの罪を身代わりに背負い、十字架上で処分してくださったことによってもたらされました。
「神の子どもとなる特権」を与えられた人の人生には、世が与えることのできない、全く新しいアイデンティティが確立します。神は信じた人を家族として認め、これからの人生をともに歩んでくださいます。
< 神は愛なり > 新聖歌220番
私たち人間は、本来、神によって、どれほど尊い存在として、また愛されている存在として造られたか、多くの人たちに、自分の価値に気づいてほしいと願わずにいられません。世には人間の尊厳を貶める声や振る舞いがあふれています。惑わされないようにしましょう。神は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と呼び掛けています。本来、神が意図しておられたように、神に似せた尊い者として、神の愛する子どもであることを生きる人生を、一人でも多くの方に歩んで頂けますようにと願います。