礼拝説教要旨 2026年5月24日

目が見えるように

ルカの福音書18:31-43

ルカの福音書18章の最後まで。ルカの福音書は全24章ですから、そのうちの18章というと、ちょうど全体の3/4を終えることになります。レースで言うと、第四コーナーを回って、いよいよ最終ゴール目指して直線コースに入るところでしょうか。福音書はこのあとクライマックスへと向かいます。イエス様一行は、エルサレムのすぐ近くまで来ました。今度エルサレムに行く時は、旧約聖書で預言されていたことが成就する時です。いよいよその時が近づいたので、イエス様は、あらかじめ弟子たちにそのことを予告されました。これで三度目の受難告知です(9:22,43-44)。

31節。「人の子」はイエス様ご自身のこと。私たちが自分のことを「人の子」と言っても、当たり前のことです。人間から生まれた人間です。しかしイエス様の場合は違います。イエス様は本来、人の子ではなく、神の子です。永遠に生きておられ、御父とともにこの世界を、全宇宙を造られた方です。このお方が「人の子」となられたこと自体が驚くべき出来事です。私たちを救うために、「神の御子」が「人の子」となってくださった。見る目さえあれば、この事実一つで、感動させられることです。さらに「人の子」という呼称には、人の弱さ、はかなさのニュアンスがあります(詩8:4)。「人の子」は、権威や力によってではなく、弱さを通して私たちの救い主となることが暗示されています。と同時に、それは、永遠の御国を治める栄光の王のことも表わします(ダニエル7:13-14)。つまり、この弱さを通られた人の子が、その後に永遠に続く栄光の神の国の王となるということだと思います。それが「預言者たちを通して書き記されているすべてのこと」なのでしょう。
それをまとめたのが32-33節。たとえばイザヤ書53:5-6「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。…【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」キリストは私たちの身代わりに罪を背負って刺し通されることが預言されていました。それにしても、「神の御子」である方が、ろくでもない兵士どもからあざけられ、唾までかけられるとは、もう言葉を失います。神の御子は、私たちのために、こんなことまで耐え忍んで下さっていたのです。カルヴァンは、「十字架の恥辱と苦しみの中にこそ、預言者が指し示した救い主の印があることを理解しなければならない」と言っています。

しかし、救い主はいつまでも無力でみじめな姿のままでいるのではありません。その三日目に、神はこの「人の子」を栄光のうちに復活させました。その栄光は代々限りなく、永遠に続きます。その傷跡は永遠に輝きます。私たちへの神の愛のあかしである傷跡です。

イエス様は、このようにこれからエルサレムでご自分が受けなければならないことを知り、そのためにエルサレムに向かって進んでいました。そのイエス様のご心中は、察するに余りあります。ところが、弟子たちは、まったくこのことを理解できませんでした。34節。「何一つ分からなかった」「隠されていた」「理解できなかった」同じような言葉を三度も重ねて、弟子たちの無理解が強調されています。「隠されて」彼らの肉の思いが、心の目を覆って隠していたのかもしれません。キリストがやがて王になる、ということは、すなわちイエス様に従っている自分たちが日の目を見る。そのことしか、頭にない弟子たちの心には、何度言われても、イエス様が苦しみを受け、死ななければならないという言葉は入ってこない。「何を弱気なことを。イエス様なら大丈夫、神様がついているから、もっと信仰をもってくださいよ」とでも思っていたのでしょうか。

これはこの福音書を読んでいる読者にも、注意を促しているのだと思います。弟子たちが特別なのではない。この福音書を読む者もみな、神の助けなしには、これから記される、福音書のクライマックスーキリストの十字架と復活―がどういうことか、理解することはできない。そのことを他人事ではなく、自分のこととして、わきまえなさいと。それで、次の、目を開けて頂いた盲人の記事に続きます。

35-36節。「エリコ」は、エルサレムから一日の距離にある町です。あちこちに泉がわきあがるこの町は、亜熱帯気候と相まって緑豊かな土地で、旧約聖書では、「なつめやしの町」とも呼ばれています。なつめやしの木は、しゅろの一種で背が高く、まっすぐな幹の頂からは、巨大な葉っぱがバンザイするような格好で広がって、亜熱帯地方独特の光景を作っています。そのエリコの町の道端に目の見えない人が座っていました。時は、年に一度の、イスラエル最大の祭り「過ぎ越しの祭り」を控えて、ローマ各地からの巡礼客で賑わう、ある春の日でした。物乞いの人たちにとっては絶好のかきいれ時。チャリン、チャリン。いい音が響きます。その度に、神のご加護があらんことを!とお返しに祝福を祈ったでしょうか。そうこうしているうちに、遠くの方から、ひときわ大勢の人の気配がしました。彼は、自分から近くの人を捕まえて、これはいったい何事ですか、と聞きました。彼は、目が見えないからと言って、消極的になっていませんでした。あの騒ぎは何だろう?と思ったら、近くの人を捕まえて聞きました。すると、あの、救い主キリストと噂されるナザレのイエス様だと言うではありませんか。これは千載一遇のチャンス。彼は、黙ってなどいませんでした。
37-38節。彼も噂は聞いていたのでしょう。ナザレのイエスというお方は、盲人の目を開け、耳しいの耳を開き、悪霊につかれている人たちを次々と悪霊から解放し、病を癒しておられる。この方こそ、長年、旧約聖書で待ち望まれていた神から遣わされた救い主キリストではないかと。彼が叫んだ「ダビデの子」は救い主の称号。当時、神が遣わされる救い主は、古のダビデ王の子孫からお生まれになり、永遠に続く王国の王となると、旧約聖書で預言されていたので、人々は救い主のことを「ダビデの子」と呼んでいました。ですから、彼がイエス様をこう呼んだということは、彼は、イエス様を救い主と認めていたということです。いわば、これはイエス様に対する信仰告白です。

あの救い主キリストが、今、自分の手の届くところに来ておられる!一気に心拍数は上がり、心躍ったでしょう。彼は無我夢中で「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫びました。周りがビックリするくらい、あるいは異様に感じるくらい、大声で叫び立てたのでしょう。それで人々は黙らせようとしましたが、彼はそんなことで黙りはしません。39節。ウィリアム・バークレーという神学者は、この箇所に「黙ろうとしない男」と題を付けているそうです。彼は、目が見えないというハンディがあるからと言って、全然弱気になっていません。負けてない。一歩も引かずに押しの一点張り。それどころか、周りが押さえつけにかかればかかるほど、それに負けじと、なおさら大きな声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」とボルテージを上げました。イエス様にあわれみを乞い願うことに関しては、厚かましいくらいでも、むしろ、喜ばれます。福音書にはそういう記事がたくさんあります。

彼は「私をあわれんでください」と叫びました。自分の義を主張せず、イエス様のあわれみだけにすがりました。これまで見てきたあのパリサイ人や裕福な青年と違って、あのあわれみを乞い求めるばかりだった取税人のように、ただ神のあわれみのみに望みを置く。その人こそ、神に義と認められる、神の国に入れられる、永遠のいのちを受け継ぐ、救われる。その原理がここにも見られます。

40-42節。ナザレのイエスという方が救い主だという信仰、そしてただあわれみを乞う信仰。そして周りの妨害に負けずに求め続ける信仰。そんな信仰でイエス様に迫った彼は、ついに目をあけていただきました。そしてその後が、またすばらしい。43節。彼は目が開かれただけでなく、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたように、魂の救いを得ました。それで、彼は、神をあがめながら、イエス様に従っていきました。苦しいときだけの神頼みでは、終りませんでした。彼はその後も、クリスチャンとして積極的に教会に仕えたと思われます。というのは、他の福音書はこの盲人を「ティマイの子、バルティマイ」と名前を記しています(マルコ10:46)。と言うことは、こうして名前をあげれば、ああ、あのバルティマイか、とわかるような、名の知られたクリスチャンになっていたと推測されます。

以上、今日の個所を見てきましたが、最初に言ったように、ルカの福音書は、このあとクライマックスを迎えます。その前に、ここに、盲人がイエス様に目を開けてもらった記事が置かれたことは、意味深長です。これは、他のマタイ、マルコでも同じで、このあたりに、この記事が入っています。あたかも、霊の目を開かれることを求めて、霊の目が開かれて、これからのクライマックスを読むように、と促されているようです。

福音書のクライマックスは、神の御子である「人の子」、救い主キリストが、罪人の手によって十字架につけられ、そして三日目に復活されることです。これが、福音、良い知らせを記した「福音書」のクライマックスです。おそらく「福音書」「よい知らせの書」という名前からは、誰も想像できない内容ではないかと思います。この世界を造られた聖なる大いなる神から、私たち人類への最大のよい知らせが、なんと、神の御子が、罪人たちの手によって苦しみを受け、十字架につけられて、死なれ、そして三日目に復活された、ということだというのです。新約聖書に四つも「福音書」という形で、そのことが記録されています。それが最も大切なこととして、クライマックスとして記されているのです。これのどこが福音、良い知らせなのか…?ある人たちは、イエスという男が、イスラエルに革命を起こそうとしたけれども、弟子の一人に裏切られて十字架刑になってしまった、ただのあわれな宗教家の一人に過ぎない、と出来事の上っ面しか見えません。明智光秀に裏切られて果てた織田信長や、「ブルータス、お前もか」と歯ぎしりしたシーザーと同じようにしか、見ません。霊的な目が閉じられたままです。しかしその同じ事実を、神の恵みによって、もっと深いところで理解させて頂いた人たちもいます。生ける神の御子が、なぜ、罪なくして、死んでくださったのか。それは、私たち罪人の罪を身代わりに背負って、罰を受けてくださるため。それによって信じるすべての人に、まったき罪の赦しを与えてくださるため。そして神に受け入れられる神の子どもとし、永遠のいのちに与らせてくださるためでした。永遠に神とともに生きる者としてくださるためでした。それによって、人々を一人の例外もなく、有無を言わさず支配してきた死の支配から、人々を事実、救ってくださいました。だから福音なのです。良い知らせなのです。

「 わが目を開きて 」新聖歌 38 番
最後に、目が開かれ、救われたバルティマイの姿を心に留めておきたいと思います。「神をあがめながら、イエスについて行った。」これは、私たちクリスチャンの理想的な姿です。義務感から従うのでなく、「神をあがめながら」。心から溢れ出る感動、感謝、喜び、賛美。自分が受けた救いの恵みのゆえに、神のご真実のゆえに、そして神を、イエス様を知る喜びのゆえに、そのご愛にあずかったがゆえに、絶えず、神をあがめる思いにあふれてお従いする。やがて受け継ぐ御国の栄光のゆえに、喜びに踊り、神をあがめる心が絶えず沸き起こり、そしてその心をもって、イエス様にお従いする。
そのことを可能にする鍵は真理の御霊、聖霊です。この時は、何も理解できなかった弟子たちも、やがてペンテコステの日に聖霊を受けて、すべてのことを悟ります。私たちの心を開いて、十字架につけられたキリストをハッキリと示してくださるのは、聖霊です。やがて受け継ぐ御国の栄光を霊の目を開いてハッキリと見させてくださるのも御霊です(エペソ1:17-18)。私たちも、バルティマイのように「神をあがめながら、イエスについて行く」歩みを恵まれるように、聖霊によって目が開かれることを求めたいと思います。