ルカの福音書18章の最後まで。ルカの福音書は全24章ですから、そのうちの18章というと、ちょうど全体の3/4を終えることになります。レースで言うと、第四コーナーを回って、いよいよ最終ゴール目指して直線コースに入るところでしょうか。福音書はこのあとクライマックスへと向かいます。イエス様一行は、エルサレムのすぐ近くまで来ました。今度エルサレムに行く時は、旧約聖書で預言されていたことが成就する時です。いよいよその時が近づいたので、イエス様は、あらかじめ弟子たちにそのことを予告されました。これで三度目の受難告知です(9:22,43-44)。
しかし、救い主はいつまでも無力でみじめな姿のままでいるのではありません。その三日目に、神はこの「人の子」を栄光のうちに復活させました。その栄光は代々限りなく、永遠に続きます。その傷跡は永遠に輝きます。私たちへの神の愛のあかしである傷跡です。
イエス様は、このようにこれからエルサレムでご自分が受けなければならないことを知り、そのためにエルサレムに向かって進んでいました。そのイエス様のご心中は、察するに余りあります。ところが、弟子たちは、まったくこのことを理解できませんでした。34節。「何一つ分からなかった」「隠されていた」「理解できなかった」同じような言葉を三度も重ねて、弟子たちの無理解が強調されています。「隠されて」彼らの肉の思いが、心の目を覆って隠していたのかもしれません。キリストがやがて王になる、ということは、すなわちイエス様に従っている自分たちが日の目を見る。そのことしか、頭にない弟子たちの心には、何度言われても、イエス様が苦しみを受け、死ななければならないという言葉は入ってこない。「何を弱気なことを。イエス様なら大丈夫、神様がついているから、もっと信仰をもってくださいよ」とでも思っていたのでしょうか。
これはこの福音書を読んでいる読者にも、注意を促しているのだと思います。弟子たちが特別なのではない。この福音書を読む者もみな、神の助けなしには、これから記される、福音書のクライマックスーキリストの十字架と復活―がどういうことか、理解することはできない。そのことを他人事ではなく、自分のこととして、わきまえなさいと。それで、次の、目を開けて頂いた盲人の記事に続きます。
あの救い主キリストが、今、自分の手の届くところに来ておられる!一気に心拍数は上がり、心躍ったでしょう。彼は無我夢中で「ダビデの子のイエス様。私をあわれんでください。」と叫びました。周りがビックリするくらい、あるいは異様に感じるくらい、大声で叫び立てたのでしょう。それで人々は黙らせようとしましたが、彼はそんなことで黙りはしません。39節。ウィリアム・バークレーという神学者は、この箇所に「黙ろうとしない男」と題を付けているそうです。彼は、目が見えないというハンディがあるからと言って、全然弱気になっていません。負けてない。一歩も引かずに押しの一点張り。それどころか、周りが押さえつけにかかればかかるほど、それに負けじと、なおさら大きな声で「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」とボルテージを上げました。イエス様にあわれみを乞い願うことに関しては、厚かましいくらいでも、むしろ、喜ばれます。福音書にはそういう記事がたくさんあります。
彼は「私をあわれんでください」と叫びました。自分の義を主張せず、イエス様のあわれみだけにすがりました。これまで見てきたあのパリサイ人や裕福な青年と違って、あのあわれみを乞い求めるばかりだった取税人のように、ただ神のあわれみのみに望みを置く。その人こそ、神に義と認められる、神の国に入れられる、永遠のいのちを受け継ぐ、救われる。その原理がここにも見られます。
以上、今日の個所を見てきましたが、最初に言ったように、ルカの福音書は、このあとクライマックスを迎えます。その前に、ここに、盲人がイエス様に目を開けてもらった記事が置かれたことは、意味深長です。これは、他のマタイ、マルコでも同じで、このあたりに、この記事が入っています。あたかも、霊の目を開かれることを求めて、霊の目が開かれて、これからのクライマックスを読むように、と促されているようです。
福音書のクライマックスは、神の御子である「人の子」、救い主キリストが、罪人の手によって十字架につけられ、そして三日目に復活されることです。これが、福音、良い知らせを記した「福音書」のクライマックスです。おそらく「福音書」「よい知らせの書」という名前からは、誰も想像できない内容ではないかと思います。この世界を造られた聖なる大いなる神から、私たち人類への最大のよい知らせが、なんと、神の御子が、罪人たちの手によって苦しみを受け、十字架につけられて、死なれ、そして三日目に復活された、ということだというのです。新約聖書に四つも「福音書」という形で、そのことが記録されています。それが最も大切なこととして、クライマックスとして記されているのです。これのどこが福音、良い知らせなのか…?ある人たちは、イエスという男が、イスラエルに革命を起こそうとしたけれども、弟子の一人に裏切られて十字架刑になってしまった、ただのあわれな宗教家の一人に過ぎない、と出来事の上っ面しか見えません。明智光秀に裏切られて果てた織田信長や、「ブルータス、お前もか」と歯ぎしりしたシーザーと同じようにしか、見ません。霊的な目が閉じられたままです。しかしその同じ事実を、神の恵みによって、もっと深いところで理解させて頂いた人たちもいます。生ける神の御子が、なぜ、罪なくして、死んでくださったのか。それは、私たち罪人の罪を身代わりに背負って、罰を受けてくださるため。それによって信じるすべての人に、まったき罪の赦しを与えてくださるため。そして神に受け入れられる神の子どもとし、永遠のいのちに与らせてくださるためでした。永遠に神とともに生きる者としてくださるためでした。それによって、人々を一人の例外もなく、有無を言わさず支配してきた死の支配から、人々を事実、救ってくださいました。だから福音なのです。良い知らせなのです。