ところで、所沢聖書教会の設立40周年記念誌(2019年)に柳先生の次のような文章がありました。「次の10年を思うと、複雑な気持ちになる方がおられるかもしれません。超高齢化社会になって、90歳、100歳と聞いても不思議ではなくなりました。でも、いつまでも元気とは限らず、思うようにはいかないことが自分の身に迫るに違いありません。だからこそと思います。天の故郷を信じてやまない信仰を、今こそしっかり持たせて頂きたいと願います。」「天の故郷を信じてやまない信仰」。私たちはみな、最後はそこに集められます。今日の個所は「永遠のいのち」のことですから、「天の故郷」とも重なる内容となります。
前の9-14節は、パリサイ人と取税人が登場して、ただあわれみを乞うばかりの取税人の方が、義と認められました。15—17節は、やはりただ神から注がれている御愛を受けるだけの幼子こそが、神の国に入っていると言われました。共通するのは、神に対して、何ら誇るべき功績を持たずに、ただ神のあわれみ、神の一方的なご愛を受ける者が、神に義と認められ、神の国に入れて頂けるということ。その主題が今日の前半でも続いています。
ところで、その際に彼はイエス様を「良い先生」と呼びました。それに対するイエス様の答えが、ちょっと意外でした。19節。これはもちろん、イエス様がご自分の神性を否定したわけではなくて、彼の言葉の軽さを指摘したものと思われます。神だけが「良い」と言われるに値するお方。「良い」の基準は、神ご自身が「良い方」であるような「良さ」。人間の基準ではなくて神が基準。その基準の高さを意識させたかったのかなと思います。永遠のいのちに値する「良さ」と言ったら、その基準をクリアしないといけない。で、イエス様は当然、神の御子ですから、その基準をクリアしているわけですが、人間も、元々、神に似せて、神のかたちに造られていましたから、その神の基準にあう者だったわけです。だから、罪が入る前は死なない存在、永遠に生きる存在だったわけです。しかし、罪が入ってから、人はその神の基準に遠く及ばないものになってしまった。そして、その事に気づくことが、永遠のいのちに至る第一歩だったのです。
それでイエス様は、神の戒めを示されます。20-21節。ここにあげられているのは、モーセの十戒の後半で、人と人との関係についての戒めです。こう言われて、彼は言下にそのようなことはみな、小さい頃から守っておりますと答えました。実際、人からは決して後ろ指指されることがなかったのでしょう。人と比べている限りは立派なもの。しかし、先に言ったように、永遠のいのちに値するだけの、神の基準からみたら、どうか。彼は自分では、姦淫なんてとんでもない、と思ったでしょう。しかしイエス様は他の所で仰いました。実際に姦淫をしていなくても、心の中で情欲を抱いて異性を見るならば、すでに心の中で姦淫の罪を犯したのだ、と。人の目には無罪かもしれませんが、それは神の似姿とは似ても似つかない、かけ離れたもの。そんな汚れた心で永遠のいのちにあずかれるわけがない。「殺してはならない」当然、自分は一度も破ったことがないと、彼は思っていたでしょう。しかし聖書は、心の中で兄弟を憎む者は、人殺しだと言っています。人殺しと憎しみは、同じ根っ子です。実際に殺人罪を犯していなくても、神の法廷では、殺人罪で有罪なのです。そんな罪深い心で永遠のいのちにあずかることはできません。ほかの戒めも同様。行いに出なくても、心の中に罪の思いがわいて来たなら、それは神の前には罪とされる。永遠のいのちに値する完全な良さを求めているのなら、その基準を満たさなければいけなかったのです。
しかし、彼は、そこまで思い至りませんでした。それでイエス様は、彼の心の中にある罪をあきらかにされました。22-23節。永遠のいのちに値する「良さ」とは、この基準をクリアしないといけない。それをしたなら、天に宝を積むことになると言われました。しかし、しかし、彼はそれができませんでした。彼にとっては、富が偶像になっていたのです。第一戒違反。富という偶像が彼の心に根を張り、ガッチリと彼の心をつかんで放さない。
あるところに、とても欲張りな猿がいました。細い首のついた大きな壺の中に、その猿の大好物の木の実がドッサリ入っていました。猿は喜んで壺の中に手を入れ、木の実を思い切り一掴みしました。ところが、木の実を握りしめた拳は大きくなりすぎて、壺の細い首からどうしても抜けなくなってしまいました。猿は怒り、焦りました。手を引っぱっても抜けない。でも、握りしめた木の実をどうしても離したくない。そうして壺に手を突っ込んだまま、もがいているうちに、ついに猟師に見つかって捕まってしまいました。猿は、握りしめている木の実を手放して、手を空っぽにすれば、簡単に手は抜け、自由になれたのです。この金持ちの青年は、まさにこの猿のようでした。「永遠のいのち」求めながら、手で握りしめている「富」という木の実を、どうしても手放すことができなかったのです。
誤解のないように。永遠の命を受けるには、みな、全財産を売って、施しをしなければならない、と言っているのではありません。仮に誰かが、すべての財産を施しに用いたら、それで永遠のいのちを受けられるかというとそうではない。たとえ全財産を施しに用いることが出来たとしても、心の中ででも姦淫の罪を犯したら、その人は永遠のいのちに値するほどの良き人ではない。むしろ、永遠に御怒りに値する滅ぶべき罪人です。全財産を施しに用いて、かつ姦淫の罪も犯していない、という人がいても、なお、誰かを憎む思いがあったら、その人は人殺しの罪を犯している、恐ろしい罪人なのです。ですから、イエス様の意図は、彼に、自分が罪の奴隷であることに気づかせることにありました。そしてそれゆえに、あの取税人のように、「神様。この罪人の私をあわれんでください」という祈りに導くことでした。神のあわれみに目を向けさせることでした。律法が与えられている第一の目的は、それです。人々に神の基準を示して、それができない自分の罪を悟らせること。そして、それゆえ、ただ神のあわれみにのみ、望みを置くという道、―罪人である私たちが永遠のいのちを受け継ぐことができる、福音という道―へと導くことだったのです。彼は「主よ。富を神よりも慕っている私の罪をお赦し下さい。私を富の偶像から解放してください。」とイエス様に願うべきだったのだと思います。
悲しんで、去っていった彼の後ろ姿をご覧になって、イエス様は、当時の人々には意外な言葉を仰いました。24—26節。永遠のいのちを受け継ぐことが、ここでは神の国に入るという表現に言い換えられています。当時、裕福な人は、神に祝福されている人と思われていました。また、金持ちはたくさん、施しをし、献金もしていたので、それこそ天に宝をドッサリと積んでいると思われていました。ところが、イエス様は、その彼らが神の国に入るのが難しいという。彼らが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいとさえ仰る。不可能ということ。天にいっぱい宝を積んでいるはずの彼らでさえ、そうなのなら、いったい誰が救われるのか…?人々は言いました。それに対するイエス様の答えが27節。人が自力で神の国に入ることは不可能です。しかし、神にはできます。神の恵みが、頑なな人間の心を溶かし、握りしめていた偶像を手放させるのです。救いとは、最初から最後まで、神の一方的なみわざ、恵みの賜物です。神には、私たちをお救い下さることができるのです。
そして神は、私たちの救い主として、御子キリストをお遣わし下さいました。キリストは、私たちの罪のために身代わりに十字架にかかって、死んでくださいました。それによって信じるすべてのものに、罪のまったき赦しが与えられました。また、キリストは、私たちの代わりに、神の基準にかなう完全な良い生涯を送られました。私たちはその一点の欠けもないキリストの完全な良さを、ただ受け取るだけです。それによって、私たちは神に受け入れられ、永遠のいのちを受け継ぐ者とされました。実際この時、イエス様は、そのために、神の子羊として、エルサレムに向かっていくところでした。財産どころではない、何もかも、栄光も、ご自身のいのちさえも、お捨てになるために。
そんな主の御心などつゆほども知らずに、またまたペテロがやってくれました。28節。この、そのままなところがペテロファンにはたまらない魅力でしょう。自分は一応、自分のものを捨ててイエス様についてきました。あの金持ちができなかったことを、自分はしました。つきましては、神の国では、いったいどんなごほうびが頂けるのでしょうか?と身を乗り出してきました(マタイ19:27)。イエス様はそんなペテロを慈しんで優しいお言葉をかけてくださいました。29-30節。金持ちの財産とは比べ物にならないけれども、慣れ親しんだ舟や家族、あとにしてきたものがありました。しかし、彼らも、自分のものを捨ててイエス様についてきたから、その功績で永遠のいのちを受け継ぐわけではありません。彼らはのちに、イエス様を裏切るという、取り返しのつかない大失態を演じます。彼らも、ただ神のあわれみのゆえに、イエス様のゆえに、救われるのです。
ただ、彼らは、確かにイエス様に召されて、すべてを捨ててついてきました。それも、「人にはできないこと」でしたが、「神がさせてくださった」のだと思います。それでも、神の国のために、すべてを捨ててついてきている彼らには、イエス様は大いに報いてあげたいという親心でしょう。ちなみに、ここに「妻」とありますが、ペテロはのちに妻を連れて伝道旅行していたようですから(第一コリント9:5)、このときは一時的に家から離れたということでしょう。また、初代教会のクリスチャンたちは、信仰ゆえに迫害を受け、財産を没収されることもあったそうですから、このみことばはそういう人たちへの慰め、励ましでもあったでしょう。「この世で何倍も受け」数が何倍にもなるという意味ではなく、霊的な恵み、祝福が、失ったものの何倍にもなって注がれるということでしょう。キリストに従う歩みは、決して損失で終わることはないと神の真実な愛を保証してくださいました。
取税人や幼子が神の国に入れられたのに、この立派な青年はダメだったとは、不思議なのは、神の救いのみわざです。私たちも、私たちをお救い下さった神のあわれみを覚えて感謝し、キリストの驚くべき恵みをほめたたえましょう。