設立記念礼拝説教要旨 2026年5月10日

神を喜ぶ信仰をもって歩む

ローマ人への手紙5:6-11

※日本長老教会は5月第一週の礼拝を「設立記念礼拝」と定めているが、今年、所沢聖書教会では今朝の礼拝をその記念礼拝としてささげるとのことである。聖書の御言葉に触れる前に、私たちの教会の歩みを振り返って置きたい。「日本長老教会」は、1993年5月3日、「日本基督長老教会」と「日本福音長老教会」が合同して歩み始めた教会である。旧新約聖書を信仰と生活の唯一の拠り所と明示している「ウェストミンスター信仰基準」に基づいて、改革主義信仰を継承することを願い、政治的また経済的に独立自治の精神に立ち、長老政治によって教会を建て上げることを目指して歩み始めた。その志は「狭い門から入りなさい」との主イエスの教えの通り、諸教会の歩みの中でも少数派であることを厭わないもので、まことに険しいものであったと今更のように思わされる。そのような歩みを忘れないように、その始まりを毎年覚えて感謝の礼拝をささげ、また礼拝献金を大会のためにささげるよう導かれている。教会数は71、信徒総数は4千数百人、礼拝者数は2300人余り。

ほぼ時を同じくして礼拝をささげている、長老教会の他の群れを覚えながら、今月も続けてローマ人への手紙の御言葉に心の耳を傾けたい。信仰によって義と認められた者の幸いは、キリストによって神との平和を持っていること、そして神の栄光を望んで大いに喜んでいること、更には苦難さえも喜んでいること、とパウロは語っていた。聖霊が確かに働くことによって、神の愛が心に注がれていることを知り、もはや何事が襲ったとしても、神の守りと導きの確かさに身を委ねることができるからである、と。(1~5節)

<1、キリストの十字架に示された神の愛>

パウロが「神の愛」を思う時、心に思い描いたのは主イエス・キリストの十字架であった。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。」(6節)ナザレのイエスが十字架で死なれたことは事実としても、それが自分と何の関係があるのか? イエスは自分の一生をそのように終えただけではなかったのか? ただそれだけである!と、イエスを神の子キリストと信じることを断じて許してはならない!と、迫害に燃えたのがかつてのパウロであった。何も分からず、神に対して不敬虔にも背いていた時、既にキリストは、自分のために十字架で死んで下さっていた。霊的には病弱で、不敬虔で不遜であった時、そんな不敬虔な者を赦すため、キリストは身代わりに死なれていたのに気づいた。
パウロはこのことがどれほどの愛であるか、言葉を続けた。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。」(7節)「不敬虔な者」のために身代わりに死ぬことは、常識では有り得ない。あの正しい人のために、と死ぬ人もほとんど出てはこない。(「正しい人」:律法にかなった人、行いの正しい人、世間で立派と認められる人)あの善良な人のためには、自分の命を捨ててもよいと言う人が現れるかもしれない。(「善良な人」:善人、人を思いやれる人、情け深い人)そうだとしても、それさえ非常に難しい。まして罪ある者、背く者、敵対する者のために命を捨てるなど、人間には考えも及ばない。神はそのことを成し遂げられたのである。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」(8節)

<2、罪人のために死なれたキリスト>

神の愛は、十字架のキリストにおいて、罪人のために身代わりとなって十字架で死なれたキリストにおいて明らかにされている、というのがパウロの理解であった。しかし自分一人の理解を超えたこと、これこそが真理であるという意味で語られている。「私たちがまだ弱かったころ」と、「私たちがまだ罪人であったとき」とは、同じことを言っている。どちらも人間の側には何の評価すべきことのない時のことである。一点の良きことさえない時に、神は退けられるべき者のために御子イエス・キリストを十字架で死なせられたのである。ここに神の愛が現されている。(ヨハネ第一4:9~10)

敵対する者に進んで愛を示すこと、愛を注ぐことを人は果たしてできるのか。ほとんど不可能である。パウロはその不可能なことを神が成して下さったことに心を打たれた。当然赦されるべき者のためにではなく、背きの罪のために、決して赦されるはずのない者のためにキリストは死なれた。頭で考える理屈や論理としてでなく、イエス・キリストご自身が彼に声を掛けて下さった時、神の愛に触れ、迷いなくキリストを信じたのであった。神の愛とあわれみは限りない、その恵みはとこしえに尽きることはないと。もはや神の怒りに触れることはなく、罪を赦された者の救いは揺らぐことはないと確信できた。心に愛が注がれ、その愛によって平安や喜びが心に満ち溢れた。(9節)

<3、和解させていただいた喜び>

パウロには、繰り返し湧き上がる思いがあった。神に対する罪の事実は、神への敵対であったことである。「敵であった」ことは生易しいことではない。敵対していたことに気づかなかったとしても、神の怒りと裁きを免れない。それは滅びに直結する悲惨を意味していた。そこに本当の平安はなく、目の前の喜びはあっても、心の底からの喜びは有り得ない。「和解」がなければ真の解決はない。そして和解は、背く側から何か働きかけることの不可能なことである。そのように考えれば考えるほど、神が十字架で成して下さったこと、キリストの身代わりの死は、「和解」の道筋として完璧なもの、これに代わるものは何一つない。救いの確かさ、喜びの源である。

信仰によって義と認められた者が、神の愛を確かめながら、神との平和を持ち、裁きに震えることなく、大いに神を喜ぶことができるのは、途方もない幸いである。「それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。」(11節)パウロの言葉には、直接的にキリストの復活を語ってはいない。けれども「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです」との10節の言葉には、「死」と「いのち」との対比がある。十字架の「死」と、死からの復活の「いのち」に指しているのは明らかである。和解を得た者はよみがえりの「いのち」に与って生きることが許される、これが救いである。それゆえ、この救いには大きな喜びがあると明言している。

<結び>

人が生きている現実は、誰にも当たり前で、何の違いもないかのように見えることがある。もちろん目に見える幸不幸の差は、近年ますます明白となり、人々は幸せを掴むために躍起となっている。しかし、人が本当に幸せな一生を送るのに何が一番大切か、人にとって一番の喜びは何か、よくよく思い巡らすことが肝心となる。神に造られ、神によって生かされている人間である。神との交わりの中で生きるように、神の形に似せて造られた人間の幸せは、一体どのようなものなのか、喜びはどこにあるのか。

私たちは、パウロと同じように、「私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます」と心から告白する日々を歩んでいるだろうか。信仰によって義と認められているなら、私たちは救いを与えられ、神の怒りに震えることはない。恐れなく生きることができる。これに勝る幸いはない! キリストの「いのち」を与えられ、救いを喜び、神の愛に感謝をもって応える歩みが約束されている。神の愛は日々豊かに注がれ、神の恵みとあわれみは尽きることがない。より一層、神を大いに喜ぶ日々を歩ませていただきたい! 神との平和を持っている者、神の栄光にあずかる望みを喜んでいる者、十字架のキリストに神の愛を見出している者、神との和解を喜ぶ者、神を心から喜ぶ者・・・、いずれもキリストの「いのち」に生かされているクリスチャンの姿である。私たちは神の愛に促され、地上の日々を、周りにいる人々との関わりにおいても、喜びをもって歩めるように導かれたい。神を喜ぶ信仰をもって歩む日々が、決して独りよがりにならないために!(テサロニケ第一5:16~18)