礼拝説教要旨 2026年5月3日

神は愛です

第一ヨハネ4:13-16

今日、洗礼をお受けになる姉妹は、子どもの頃からこの世界は、絶対、偶然ではない、誰かが造ったんだ、と思っていたそうです。それがあるとき、聖書に出会って、創世記の一番最初に「初めに神が天と地を創造した」と書いてあるのを見て、聖書の神がこの世界をお造りになったんだ、とわかったそうです。そしてこの第一ヨハネ4章で「神は愛なり」というみことばによって、この世界をお造りになった神は、愛なる方なんだ、とわかって、大きな喜びに満ちあふれたそうです。

「神は愛なり」決して、人気取りのための、安っぽい甘言ではありません。人集めのための宣伝文句ではありません。老使徒ヨハネが、神の本質は愛であると確信を得て、言った言葉です。ある人は言いました。「神は愛であるが、愛を神にするとき、それは悪魔になる」つまり、人間が勝手に自分に都合よく思い描く愛を神にしてしまうと、それはとんでもない化け物になって、人を不幸にする。愛を偶像にすることの危険を警告しているわけです。しかし、本当の意味で、神は愛であるということを知ったとき、人は究極の安息を得るのだと思います。それは、神が、キリストにあって、ご自分の子どもとした者たちに対する愛は無限であり、無制限であり、無条件であるということを意味するからです。今日、一同で、改めて、ここに記されている神のご愛を覚えたいと思います。

まず、今日の個所を一読して、気が付くのは「私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまる」という表現、あるいは神と人の順序が逆になったり、「私たち」が「その人」になったり微妙な違いはありますが、要は神と私たちが、お互いに相手のうちにとどまるということが、3回もくりかえされていることです。「神が私たちも神のうちにとどまる」とは、神の御霊が私たちのうちにとどまるということ。「とどまる」は「定住する」とも訳される語。内住の御霊と言ったりします。御霊が私たちのうちにとどまってくださると、私たちも、目には見えませんが、神のうちにとどまることになります。これは、カルヴァンをはじめ、多くの注解書によると、キリストを通して私たちが神と結びつくこと、神との神秘的結合のことを言っているそうです。目には見えないですが、神と結びついて、一体になっているというんですね。これだけだとよくわからないですが、似たような表現がヨハネの福音書15章にも出てきて、そこで弟子たちに向かってイエス様が「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」と言ってます。そして、そこではイエス様と弟子の関係をぶどうの木と枝の関係に例えています。イエス様が木で、弟子たちが枝。枝が木にとどまっていて(=つながっていて)、木から養分や水分が流れて込んできて、実を結ぶように、あなたがたもわたしにとどまってこそ、実を結びますと言われています。なので、「とどまる」とは、ぶどうの木と枝のように一体となっているということのようです。注目すべきは、その「とどまる」ということが、一方通行ではないということ。双方向と言いますか。私たちがイエス様にとどまるなら、イエス様も私たちにとどまって下さるという関係。イエス様は、私たちの意思を尊重される。愛とは、そういうものでしょう。だから、私たちがイエス様を否定して、イエス様のうちにとどまらないで、飛び出してしまうなら、イエス様も私たちの内にとどまらない。そこでイエス様との関係、神との関係は切れてしまう。しかし、私たちがイエス様のうちにとどまるなら、イエス様はあらゆるよきものを私たちに惜しみなく注いで下さり、神に喜ばれる霊の実を結ばせて下さるのでしょう。

この第一ヨハネでも、もしかしたら老ヨハネは、かつてイエス様から直接聞いた、このぶどうの木と枝の話を思い浮かべながら、書いたのかもしれません。ちなみに、洗礼とは、私たちがキリストと接ぎ木されることを表わすということが一つ、あります。そのようにキリストと結びつくこと、一体となることを表わします。

で、13節。「神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。」皆さんは、自分が御霊を頂いていると確信しているでしょうか。イエス様を信じている人は、みな、御霊を頂いています。右側のページに戻って、2節。「神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。」イエス・キリストが、人となって来られた正真正銘の神の御子だと信じ、告白しているなら、神の御霊がその人の内におられます。また、先日の祈り会でも話しましたが、第一コリント12:3「…聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」イエス様が主であると信じ、告白している人は、だれでも、みな、神の御霊を頂いているのです。

ですからこの13節は、私たちが御霊を頂いているという事実によって、神が(御霊なる神が)私たちのうちにとどまり、また私たちも御霊なる神のうちにとどまっていることがわかると言っているのだと思います。

続いて14-15節。「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。」ヨハネはここで「私たちは見て、証しをしている」と言っています。十二弟子の一人、それもイエス様の最側近の三羽烏の一人として、イエス様の身近で三年半も寝起きをともにしてきたヨハネ。そして十二弟子の中で唯一、イエス様の十字架の下にまでついていったヨハネは、まさしく神の御子が私たちの救い主として十字架にかかって、死んで下さったことの生き証人でした(ヨハネ19:26)。もちろん、イエス様が復活されたことの生き証人でもあります。キリスト教の信仰は、誰かの頭の中で作られた哲学や思想ではなく、二千年前に実在したナザレのイエスという方が、私たちの罪のために十字架にかかり、三日目によみがえられたという歴史的事実に基づいています。ヨハネは、その、十字架で死んだイエスという方が、神が救い主として世に遣わされた神の御子であると知って、その証しをしていました。誰でも、あの十字架にかかって死なれたイエスという方が、生ける神の御子であると告白するなら、神の御霊はその人の内にとどまり(内住し)、その人もまた神の御霊のうちにとどまる。あるいは、その人はぶどうの木と枝のようにキリストにつながり、神と結びあわされた者だというのです。

ここで、神が、ご自身の愛する御子を救い主として遣わしたと言っていますが、考えてみれば、その救い主とは、いったいどんな救い主なのか。どんなことをしなければならなかったのか。私たちの罪のための身代わりに十字架で苦しみを受けることです。それが私たち罪びとの救い主となるということです。それを事実、現実に、イエスという方において、神はなさった。その事実は何を語っているか。神が私たちを無限に愛しておられるということです。全宇宙を合わせたよりも、この全宇宙を何百個集めたよりも、はるかにはるかに尊い御子をさえ、現実に、事実、私たちのために犠牲とされたということは、そういうことです。無限に尊い犠牲を私たちのために払われたということは、神の私たちに対する愛は無限だということです。そして、あのナザレのイエスという方、十字架にかけられたそのお方が、神の御子だと信じるということは、その神の愛を認めるということです。神の御愛を受け取るということです。その神の愛を、頭の中の知識でなく、実際に信じて、味わい、体験するということです。

16節前半。「私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。」聖書の「知る」は体験して知るというニュアンスです。十字架にあらわされた神の愛を、自分のためのこととして、体験して、知ったということです。そしてそれに続くここの「信じています」も、教理として信じるのでなく、全存在を神に預けるように、神の愛を「信頼する」という意味あいでしょうか。そして、老ヨハネも、年とともにますます、キリストが十字架にかかってくださったその御愛のほどを深く知るようになり、「神は愛です」との確信が深められていったのでしょう。己の罪の深さを知ることは、神の愛の深さを知ることに直結します。川の水が澄むほど、川底のゴミが見えてくるように、きよめられてくるほど、それまで気づかなかった自分の罪に気付いてくるものなのでしょう。そしてそれは、キリストによる罪の赦しをますます深く知るということです。

「神は愛です」という言葉が、単なるスローガンで終わらないのは、そこに「御子を世の救い主として遣わした」という具体的な歴史的事実があるからです。私たちは、自分の状況が良いときには「神の愛」を感じやすく、苦難の中にあるときは「神に愛されていない」と感じがちかもしれません。私たちの感情は、天候や体調、人間関係によって、朝と晩でさえ変わります。しかし、キリストが私のために死なれたという事実は変わりません。感情が揺らぐときこそ、私たちは自分の内側を見つめるのをやめ、外側にあるキリストの十字架という歴史的事実に目を向けるべきです。嵐の夜、船乗りは自分の感覚を信じれば方向を見失います。しかし、岸壁にある灯台の光は、海が荒れていようが静かであろうが、同じ場所で光り続けています。十字架にあらわされた神の愛は灯台のようなものです。私たちの感情がどれほど荒れ狂っても、十字架という光は動かぬ事実として、神の愛を指し示し続けています。

最後に16節の後半。「愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」こういう個所を読むと、自分のうちには愛がない、愛せないと落ち込むかもしれません。愛のうちにとどまる人は、神とつながっているというのなら、自分は神とつながっていないのか、と。そうではありません。そのように悩むこと自体が、すでに神の御霊がその人の内で働いている証拠です。神の御霊がうちにおられなければ、それを罪として悩むこともありません。そのことを悲しむということは、御霊がその人の内でキリストの似姿へと造り変えるわざを始めておられるということです。

また、カルヴァンはここから以下の三段論法を導き出します。

(大前提)神が私たちのうちにとどまっておられる。

(小前提)神は愛そのものである。

(結論)ゆえに、神がとどまるところには、必ず愛がある。

ここで教えられるのは、愛の源泉は神にあるということです。私たちは自分自身のうちに愛がないと言って悩みがちですが、愛の源泉がどこにあるか、もう一度、確かめましょう。愛の源泉は、私たちのうちに内住しておられる御霊なる神にあります。

「 ほむべきかな わが主の愛 ああほむべきかな わが主の愛 」新聖歌45番

クリスチャンは単に「神は愛だ」という概念を知っているだけでなく、その愛に依り頼む者です。その愛を体験する者です。願わくは、年とともに、老ヨハネのように「神は愛です」と断言できるように年齢を重ねたいとあこがれさせられます。またティム・ケラーは、「この神の愛の確信が深まるとき、私たちは自分の成功や他人の評価に依存する「偽りの救い主(偶像)」から解放される。」と言っています。

今週、私たちが歩む場所がどこであっても、職場でも、家庭でも、あるいは病床であっても、それぞれの場で、この「愛そのものである神」とともに歩む幸いを、一歩一歩、かみしめることができますように。