ルカの福音書18章15節から17節まで。段落は改まりましたが、内容は前回を受けての記事となります。パリサイ人という、神の律法をガチガチに守っているつもりになって、天狗になっていた、当時の宗教的エリートと、当時、自他ともに罪人と認めていた取税人。パリサイ人は神相手に、自分がいかに立派であるかを並べ立てるばかりで、神のあわれみなどこれっぽちも必要を感じていなかった。他方、取税人は、顔を天に向けることもできずに「神様。罪びとの私をあわれんで下さい」と言うのが精一杯だった。その結果、神に義と認められたのは、なんと取税人の方だった。パリサイ人ではなかった、と言って、14節の最後のところで、イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と結ばれました。その自分を低くすることについて、別な例をもって教えているのが今日のところです。結論を先に言えば、神の国の本質は、神の無条件の愛を受け取ることだということです。
ところが、そんな主のお心に反して、弟子たちは、それを見て叱ったと言います。なぜでしょう。幼子になど、何がわかると見下していたのでしょうか。しかし、純粋にイエス様を信じるという点では、むしろ、幼子の方がすぐれている面があります。むしろ、こういう神さまの愛、福音をそのまま受け取るという能力においては、大人よりも子どものほうが優れていると思われます。聖書注解者として知られている英国の長老派教会牧師マシュー・ヘンリー(1662ー1714)という人、創世記から黙示録まで書いて、それが今も世界中で使われていますが、その彼は11歳の時に救われました。同じく英国の讃美歌作家として多くの讃美歌を後世に残したアイザック・ウォツ(1674ー1748)は9歳の時に回心しています。米国の神学者で、こんにちにも大きな影響を与えているジョナサン・エドワーズ(1745ー1801)という人は6歳の時、救われました。アメリカ長老教会から宣教師として来てくださっていたアイバーソン宣教師は、7歳の時に信仰告白されたそうです。見くびってもらっては困るのです。しかし、このときの弟子たちは、彼らの前に立ちはだかった。気軽にイエス様に触って頂こうなどと、なれなれしくされては困るというのでしょうか。人間的な思いで、またイエス様に媚びるつもりでそんなことをしたのでしょうか。そんなことを喜ぶイエス様ではないのに。それで今度は、そんな思い違いをしていた弟子たちが、イエス様からお叱りを受けることになりました。
それは例えるなら、愛情深い王の家庭に生まれた子どものようなものです。そこに生まれたというだけで、無条件に愛情を注がれ、養われ、保護されます。何か立派な行いをして功績を積んだから、そのようにしてもらえるのではありません。その家に生まれたのも、その子どもが何か功績を積んだからではありません。まったく一方的に与えられた恵みです。そのように、人が神に受け入れられるのも、パリサイ人のように何かをしたからというのではなく、ただただ、キリストにあって、神から降り注がれている無条件の愛のゆえです。これが人を自由にし、平安を与え、喜びを与えるものです。試練の時、失敗して落ち込むときにも、支えとなります。レジリエンスというのでしょうか。回復力となります。何かができたら愛してもらえるという条件付きの愛は、愛の関係ではなく支配の関係です。奴隷と主人の関係。奴隷はお金で買われて、言いつけられたことをすることで存在意義がある。できなかったら、役に立たなくなったら、捨てられる。条件付きの愛は、失う不安が常に付きまとい、平安がありません。神が私たちに注いでおられるのは、無条件の愛です。もっと言えば、ただ無条件なだけではなくて、私たちの罪のために、御子キリストご自身が身代わりに十字架にかかり、犠牲を払われてでも、私たちを救ってくださった愛です。それは、神は私たちの存在を全力で肯定しておられるということです。
しかし、人はプライドが高く、他力より自力を好みます。自分の力で、神の国に入る資格、権利を得ようとします。あわれみとか、恵みとか、無条件の愛とかを、そのまま受け入れることができないものです。ペテロたちや他の弟子たちも、最初はそうでした。ただ、イエス様が十字架にかかられる前夜、決してイエス様を知らないとは死んでも言いません、と言いながら、その舌の根も乾かないうちに、イエス様を裏切ってしまったときに、彼らは砕かれました。低くされました。そこで、ただただ100%一方的に降り注がれている神の憐れみ、神の無条件のご愛に気付かされたのでした。
またそれは、あの、放蕩息子のたとえの父の愛とも重なります。放蕩の限りを尽くした息子は、最後に困り果てて、食うにも困って、最後はお父さんの憐れみだけに一縷の希望を置いて、思い切って帰ってきた。ところが父親のほうは、今日は帰ってきてくれるか、今日は帰ってきてくれるか、と毎日、外に出ては息子の帰る姿を待ちわびていた。あの無条件の愛のうちに、ただ立ち返らせて頂くことです。
この神の無条件の愛は、私たちに何をもたらすでしょうか。先のパリサイ人と取税人のたとえでは、パリサイ人は他者と比較することで自分の価値を確認しようとしましたが、子どもは自分の存在そのものが父に愛されていることを知っています。福音を信じて「愛されている子ども」というアイデンティティを受け取るとき、私たちは他人と自分を比べる必要から解放されます。成功しても高ぶらず、失敗しても絶望しない。なぜなら、私たちの価値は「何をしたか」ではなく、「神の子であること」に置かれているからです。
また、王の部屋に、夜中の4時であっても勝手に入って「水が欲しい」と言えるのは、側近でも部下でもなく、その人の「幼い子ども」だけです。神の国を子どものように受けるとは、この神との特別な親密さと無条件のアクセス権をキリストによって受け取ることを意味します。私たちはいつでもどこでも、神を天の父として覚えて、祈ることができます。
小説家で児童文学者の北畠八穂(キタバタケヤホ 1903-82)という方は、クリスチャンの母に育てられましたが、その方のあかし。母は日頃、ことば数は少なかったが、いつもほほえみを絶やさない人でした。母は子を叱るにも、声も様も静かでした。あきれた悪さをすると、自分と顔を向き合わせに抱きあげ、「ヤホは、エスさまのいい子か、悪い子か」と微笑の顔で問いました。 これが幼いころの私には、ひどく厳しくこたえました。悪いことをしてしまったという後ろめたさで、じくじくと恥ずかしさがにじみで、それでもおずおずと、なお、「いい子」とこたえました。「いい子な。そのいい子が今なにをした」私はまったく窮地にたたされ、「んんと、んんと、んんと、お、ま、ち、が、い」と悪さをはきだし、あやまらずにはいられませんでした。すると母は深くうなずき、「わかったな。ほんに、ヤホはいい子」とみつめました。幼い私は涙があふれて、心底悔いねばなりませんでした。