礼拝説教要旨 2026年4月19日

イエスがなさったみわざを

ルカの福音書13:10-21

<はじめに>

2025年度は、年間主題聖句にヨハネ10章10節「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」を掲げて、福音を掘り下げて学び、キリストが下さるいのちを「豊かに」持つことを願いました。私たちの日本長老教会と交流関係にあるアメリカ長老教会 ( PCA ) と深いかかわりのあるキリスト聖書神学校が配布している「福音中心の人生」のテキストを祈祷会で学んだほか、月に一度、主日礼拝後と金曜日午前に学びの機会を持ちました。学んだことがすぐに結果となってあらわれるわけではないかもしれませんが、福音を実生活にどのように適用するかということのヒントにはなったと思います。またその学び会は小グループで行われましたが、普段、聞く機会がなかなかない証を聞くことができ、少人数ならではの交わりが恵まれたのは貴重な恵みでした。学びに出られなかった方のために、学んだ内容は今後、いろんな機会でお分かちしたいと思います。

2026年度の主題聖句はルカ13章17節のみことばに導かれました。先ほど読んだ箇所は以前(25/10/26)、学びましたので全体を詳しくは説明しませんが、ざっと見ておきます。この日、イエス様はある会堂で教えておられました(10節)。イエス様の言葉が語られ、イエス様の言葉が聞かれている所では、イエス様のみわざが起こります。この時も、イエス様の救いを必要とする、ひとりの、病の霊につかれた女性の身の上に、イエス様のみわざがあらわれました。イエス様は彼女の嘆きを賛美に変えました。イエス様は今も、愛する者のために、嘆きを賛美に変えることができる方と、私たちも確信を持っていたいものです。今も、イエス様に出会って、人生を闇から光へ、死からいのちへと、変えられた証は多くあります。

この女性は、年齢はわかりませんが、18年間、腰が曲がったままだったと言います。今日、赤ちゃんが生まれたとして、その子が高校3年生の誕生日が来るまで、ずーっと曲がりっぱなし。「まったく伸ばすことのできない」状態でした。そのつらさたるや、どれほどだったか…。恨み、つらみが口から出ることもあったかもしれません。でも、彼女は礼拝に来ていました。あるいはこの時、神に導かれて、来たのかもしれません。いづれにせよ、彼女はこの日、神を礼拝しに来ていました。そしてその礼拝でキリストに出会い、悪霊によるその病から解放されました。

その後、会堂司が文句を言ってきたところは、今日は詳しくは説明しませんが、イエス様のみわざがあらわれるところには、反対、妨害も起こるということをあらわしています。しかし、そのような反対に対してもイエス様は逆に彼らの偽善を明らかにされたので、今日の17節の後半に飛んで「群衆はみな、イエスがなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。」のでした。イエス様のみわざは、何ものもとどめることのできない喜びをもたらします。そして18-21節のからし種の木、パン種の入った粉のたとえに続いて、このイエス様のみわざが広がっていくことを示しています。人々を悪魔の支配から解放するイエス様のみわざは、喜びとともに、喜びのエネルギーによって広がっていくのでしょう。

今年度は、17節の、人々が、イエス様のみわざを喜んだというところに注目したいと思います。イエス様がなさったみわざ、また今も生きておられるイエス様が、今もなさっておられるみわざに目をとめましょう。自分がしたこと、自分たちがしたことがどうのこうのというのでなく、イエス様がなさったこと、イエス様が今、しておられることに目を向けるということを意識したいと思うのです。以下、イエス様が私たちのためになさったみわざ、なさっておられるみわざを三つの面で考えたいと思います。

<① イエス様が私たちを救うためになさったみわざ>

第一に、イエス様が私たちをお救い下さるためにしてくださったみわざに目をとめましょう。神の御子であるお方が、私たちを愛して、私たちの罪の身代わりとして、自ら進んで十字架にかかってくださいました。そのおかげで、私たちは、まったき罪の赦しを得たので、その結果、永遠のいのち、復活の希望、栄光の永遠の御国を事実、受け継ぐという、計り知れない祝福の約束を手にしました。もし、キリストの救いがなかったら、私たちはみな、自分の罪に対する神の聖なる御怒りを受けなければなりませんでした。永遠の苦しみ、地獄です。しかし憐れみ深い、私たちを愛してやまない神は、尊い御子をお遣わしくださって、私たちを事実、現実にその滅びから救い出してくださいました。ヘブル2:14-15「・・・それは(=キリストが人として来られたのは)、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」今日の個所で、イエス様があの女性を悪霊から解放したように、イエス様はご自身を信じる者、イエス様の呼びかけに応答する者を誰でも、悪魔の支配から救い出し、死そのものと死の恐怖から、事実、解放してくださいます。この霊的現実をハッキリと認識したら、魂の奥底から静かな喜びが湧いてくるはずです。キリストを仰ぎ見る者は、誰でも、罪赦されて、救われます。イザヤ書45:22 「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神だ。ほかにはいない。」

そして、私たちをそのようにお救い下さるために、神はすべてにまさって尊い御子を私たちにくださり、御子もまた、私たちを愛して自ら進んで十字架にかかり、私たちの身代わりに恐ろしい神の御怒りとしての刑罰を受けて下さいました。そこに、私たちの想像も及ばない神の愛があらわれています。私たちは、誰かの代わりに、十字架に釘づけられてもいいと思えるほど、愛する人、大切な人はいるでしょうか?イエス様は、私たちをそれほどに愛されたのです。私たちはそれほどのイエス様の愛の対象なのです。今も現に。私たちは、そのことを信じることによって、その神の愛を味わうことができるようにされました。この事実をよく現実のこととして思い巡らしましょう。そして、いくら感謝してもしきれない父なる神と御子キリストへの感謝と賛美と愛が湧き出ますようにと祈ります。それらの良き霊の実があふれ出るのをふさいでいる、私たちの心の硬い岩盤に、聖霊が穴をあけて下さり、井戸水を掘り当てたように、それらの霊の実が私たちの心の奥から流れ出ますように。それが、私たちの礼拝、奉仕、伝道、証し、あらゆる従順の原動力となりますように。

<② イエス様が私たち一人ひとりの生活になさるみわざ>

第二に、イエス様が私たち一人ひとりの生活になしてくださるみわざに期待しましょう。イエス様に従う歩みを、イエス様は必ず聖霊の祝福をもって祝福されます。みことばと祈りと礼典という恵みの手段を通して、私たちの内に働く聖霊の力をもって、イエス様が私たちを造り変えてくださることを信じましょう。自分でイエス様のようになろう!と決心しても、なかなか難しいと思います。そのように自分でも願うことは必要ですが、実際に私たちを悪や汚れからきよめ、イエス様の似姿へと造り変えるのは、イエス様がなさることです。イエス様のみわざです。陶器師が手の中で土の塊から高価で尊い器を思いのままに作り上げるように、土の器である私たちをご自身の似姿へと造りあげてくださるのは、私たちの陶器師である神であり、イエス様です。ここに望みがあります。日々の生活の中で、自分のこういう所を変えられたい、きよめられたいと願うことはあるでしょうか。それがイエス様の似姿に造り変えられることなら、それは確実にイエス様の御心です。一ミリの疑いもなく、必ずイエス様がそのようにして下さると信じて、従いましょう。

ある方が牧師に、「夫を愛せるように祈ってください」とお願いしたそうです。特に仲が悪いわけではなくて、優しい旦那さんだそうですが、愛することが難しいと感じることがあったのでしょうか。その牧師は次のように答えたそうです。「愛することは、難しいことなんですよ。私たちは罪人だから。だから、そんな私たちのためにイエス様が十字架にかかってくださった。イエス様に感謝しましょう。でも、そんなふうに願うということ自体、神様があなたのうちにすでに働いておられることの証拠です。その願いは神があなたのうちに働いて、起こさせてくださったものです。それを実現に至らせるのも神様です(ピリピ2:13-16)。スンナリとはいきませんが、何度も失敗して落ち込むこともあるでしょうが、大切なのはあきらめないこと。神様が成し遂げてくださることを信じて、神様から力を頂いて、トライ・アンド・エラーでとにかく続けることです。」

イエス様は、天国を用意しただけでなく、今の私たちにももっと働きかけたいと願っておられると思います。イエス様が生きて働かれることを、天国に行ってからでなく、今、この地上の生活においても、知ってほしいと願っていると思います。クリスチャンとしての生活を送る中で、永遠のいのちと御国を受け継ぐ希望を心の中で掲げること、導かれたらその希望を証しすること、また、身近な人に親切にすること、優しい心になること、忍耐強くなること、寛容になること、「瞬間湯沸かし器」の人は、怒る頻度が少なくなること、赦すこと…。また私たちが時に直面する試練に際して、神に信頼し、忍耐を支えられて、神によって乗り越えること、そして乗り越えたら、そのことをも益とされたことを悟って感謝すること、そしてクリスチャンとしての信仰の生涯をまっとうすること…。そのような信仰の歩みをするために、神が私たちに「これを熱心に用いなさい」と与えて下さっている恵みの手段―祈りとみことばと礼典―を用いましょう。失敗してもトライ&エラーの精神で、あくまで続けることが勝利です。そのために、御子キリストは、尽きない赦しを与えてくださったのですから。去年、できなかったことが一つでも、今年できるようになったら、それもすばらしいイエス様のみわざです。100のマイナスだったことが、99のマイナスになったら、それもすばらしいイエス様のみわざです。イエス様をほめたたえましょう。

<③ イエス様がこの教会になさっておられるみわざ>

第三に、今、この教会にイエス様がしておられることに目を向けましょう。雌鳥が雛を翼のもとに集めるように、主はこの時代に、ご自身の愛する者たちをご自身のもとに集めておられるように感じます。私たちの教会もそのためにイエス様が用いておられると思います。振り返ると、23年度は石山剛兄、石山洋子姉(竹内姉のご両親)の受洗、柳音弥兄の幼児洗礼、松原美和姉(田中兄姉の次女)の信仰告白、24年度は竹内朝子姉(竹内兄のご母堂)の受洗、そして昨年度は、内池輝夫兄(内池智二郎兄の弟)の受洗、大野泰行兄の信仰告白と、豊かな霊の収穫のときとなっています。そして5月第一主日には、藤崎久美子姉の受洗が控えています。さらに求道者が次々と与えられています。また転入会して私たちの群れに加わってくださった姉妹も与えられました。すべて今も生きているイエス様がなさったみわざです。喜びましょう。すべてのことに時があります。身近な人に、祈ってきた人に、今年は思い切って声をかけてみてはいかがでしょうか?そのために、今年もウェルカム礼拝を用意します。また伝道委員会の方々が、救霊のための祈りのリストを作って、祈ってくれています。これは地味ですが、救霊において実際的な、大きな力です。ぜひ、救われてほしいと切に願っている人を、祈りのリクエストとして出してください。

また、教会学校、青年交流会にも、イエス様がみわざをなしてくださることを、ぜひ祈ってください。教会としても、これらの若い世代に信仰を受け継ぐための活動を全面的にバックアップしていきたいと考えています。

<結び>

「 永遠に世をしらす イエス君にぞ 冠をささげて 主と崇めよ 」新聖歌140番

2026年度の教会の歩み、また一人びとりの歩みに、イエス様が恵みのみわざをなしてくださいますように。私たちが、生きて働いておられるイエス様が語りかけておられることに耳を傾け、イエス様のみわざに目を向け、信じて祈り、またお仕えすることができますように。そうしてイエス様のみわざをみなで喜び、イエス様をあがめる機会が多く恵まれますように!