二か月に一度の奉仕の機会、以前に学んだローマ人への手紙を要点を絞りながら大事な教えに耳を傾け始めたが、3章以降、今回も前回の聖書箇所の続きとなる。パウロは、キリストを信じて罪を赦され義と認められる幸いを心を込めて語っている。この確かな恵みの福音に生きることがどんなに素晴らしいことか、ローマにある教会に連なる人びとに伝えようした。信仰によって義と認められることは、旧約聖書の時代から一貫した神のご計画で、全て信じる者に分け隔てなくもたらされる恵みであると。この奥義こそ、私たちもしっかりと心に刻むべきで、5章から、信仰によって義と認められた者は、どのような幸いの中にあるのかを丁寧に語ろうとしている。「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(1節)罪の赦しを得た人びとにとって、「神との平和を持っています」ということが、どれほどの幸いであるかについてである。
<1、神との平和を持つ幸い>
天地の創造者である神を忘れ、この神を無視して生きているという全人類の姿、これが人間の罪の現実である。罪の結果、あらゆる悪や不義が地に満ち、神の裁きを免れる人はいない悲惨の中に、全人類が閉じ込められている。この事実を私たちは直視しなければならない。けれども、神は限りない愛をもって救いの手を差し伸べ、神を求める者、神に聞き従う者の近くにおられ、神を信じる者を救おうとされた。その救いを、神はキリストの十字架の身代わりの死によって確かなものとされた。キリストを信じる者を、その信仰によって義と認めることによってである。神に背を向けていた者が神の御顔を拝する者と生まれ変わり、神と共に歩むことを喜ぶ者となる。壊れていた神との関係が回復され、本来の親しい交わりの中で生きることになるのである。
パウロは、この神との親しい交わりの回復を、「キリストによって、神との平和を持っています」と語る。敵対関係にあったのが、今や和解を得て、いや和解を与えられて、親しく交わることができるようになった、と。恐れなく神に近づける幸いな交わりである。「平和を持っています」とは「平安の中にいます」ということで、その「平安」ゆえに、「このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」(2節)と言う。恵みによって生かされる日々は、目の前の現実に打ちのめされる日々ではなく、神の栄光を望んで大いに喜ぶ日々である。全人類が神からの栄光を受けられなくなっていたにも拘わらず、今や、キリストにあるなら、神の栄光と誉れを望むことを許され、平安とともに希望を抱いて生きることを許されるからである。
<2、平安と望みの確かさ>
罪の恐ろしさは、罪を罪と思わないこと、罪を自覚できず、そこから逃れられなくなっていることにある。神と敵対関係にあることさえ気づかない。そのような状態にあって、果たして心に平安があるのか、将来に本当の希望を見出せるのか。平安も望みも定かでないのが、神から離れた人間の現実である。神に造られた人間には、キリストによって神に立ち返ることが唯一の救いの道である。キリストによってのみ、神の目の前で罪を赦され、平安を与えられる。そして救いが完成する時を待ち望むことができる。神との親しい交わりの中で生かされ、揺らぐことのない神の愛に包まれることによって、天の御国の栄光に入れられるという、確かな希望をもって生きることができるのである。
パウロは自分に与えられた救いを心から喜び、また感謝しつつ、平安と望みの確かさを思い、今、私には喜びがある!と叫んでいる。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。」(3節)彼の人生は波乱万丈、艱難辛苦の連続であった。死の危険は常に付きまとい、苦難は次々と迫って来た。けれどもキリストにあるゆえのものならば、「苦難さえも喜んでいます」と言い得た。心には平安があり、将来の望みは揺るがず、何時いかなる時もキリストが共におられることを見失わなかった。それで人々に、「いつも主にあって喜びなさい」と勧め得た。(ピリピ4:4、13))キリストにある者にとっては、失望落胆しそうな時も、主にあって喜びを見出せる。ヨハネもまた、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか」と。(ヨハネ第一5:5)
<3、苦難の中で生まれる希望>
パウロの確信は、「それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです」と続く。(3~4節)信仰をもって「苦難」に耐える時、ただ我慢するのではなく、望みのゆえに困難や苦難に耐える力が養われ、「忍耐」が「練られた品性」を、すなわち人格が鍛錬され、磨かれ、強さ(単なる強さではなく、剛さやたくましさを備えたもの)と柔和さを兼ね備えた品性を生み出す。更に、その「練られた品性」が「希望」を生み出すと。それはただ願望でなく、空想でもなく、神の愛が心に注がれているゆえに、「この希望は失望に終わることはありません」と、自身の経験を通して言い得た。(5節)
的外れな信仰は空しく、単なる望みは人を失望させる。かつてのパウロは、神に対して熱心であろうとして、かえって神に敵対し、空しく自分の力に頼っていた。けれども神がイエス・キリストの十字架によって愛を示して下さり、背く者をも愛して下さることを知って、すなわち、死からよみがえったキリストが現れて下さったことによって、神の愛をはっきりと受け止めることができた。もはや迷いはなかった。また聖霊の働きを通して、神の愛が豊かに注がれているのを知って、パウロの心は平安と望みに包まれたのである。
<結び>
私たちもキリストを信じて義と認められ、信仰に生きているなら、「キリストによって、神との平和を持っています」と言うことができる。また日々恵みに導かれ、「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」と、パウロと共に叫ぶことができる。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(5節)と、心から言うことができる筈である。いざとなると、「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます」とは、なかなか言えない。それほどの苦難さえ経験していないからか・・・。
聖書は、「苦難さえも喜びなさい」とは言っていない。この世にあって、キリストに従おうとするなら、苦しみや悩みを免れないとしても、その苦難の中でキリストが、必ず共にいて下さると約束されている。キリストによって、神の前に平安があり、望みに生きることができるので、「苦難さえも喜んでいます」と言うことが可能となる。パウロにおいて実現したことが、私たちにおいても実現すると約束されている。「神との平和を持っています」、「神の栄光にあずかる望みを喜んでいます」、「苦難さえも喜んでいます」、「忍耐」、「練られた品性」、「希望」、「希望は失望に終わることがありません」等など、どれも私には手が届かないと諦めるのでなく、神が私たちの人生においても叶えて下さるという約束である。たとえ次々と苦難や困難が押し寄せたとしても。神の愛が十字架のキリストを通して私たちに注がれていることを忘れず、神の前に平安を得、望みを抱いて、日々を歩ませていただきたい!!