イースター礼拝説教要旨 2026年4月5日

復活の意味

第一コリント15:12-28

<はじめに>

先週は受難週の礼拝で「十字架の意味」という題でメッセージをしました。今日はその続きと言いますか、それとセットとして「復活の意味」という題でお話させて頂きたいと思います。また、先ほど読みましたところ、全部でなく、17-18節と20節だけ、取り上げてお話ししたいと思います。

約二千年もの長きにわたって、キリスト教会に連綿と受け継がれてきた中心的なメッセージ。それは「人となられた、生ける神の御子イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかってくださった。そして三日目に復活された。」という事実です。これは人が考え出した教えや思想の類いではなく、実際に起きた出来事、現実と私たちは受け止めています。ですから、私たちは、教祖が考えた思想を伝えるのでなく、実際にこの歴史の中で起こった出来事を伝える者です。ここで、こういうことがありました、とか、どこそこで、これこれこう言うことが起きましたと、ニュースを伝える者です。キリスト教のあれやこれや、ギリギリまでそぎ落として行って、最後の最後、残るのはこのキリストの十字架と復活という事実です。キリスト教は、根本的には、思想ではなく、ある出来事が起こったというニュースを伝えているのだ、ということが大きな特徴の一つです。この、歴史上、一回きり起こった出来事、決して埋もれさせてはいけない出来事をキリスト教会は大切に受け継ぎ、次の世代へと伝えてきました。狭い日本の中に閉じこもっていると、キリストが復活しただなんて、バカげたことと思われるでしょうが、世界に目を向けると、この21世紀の現代にも、キリストの復活を信じている人たちはたくさんいます。それで、世界中のクリスチャンが、毎年、キリストの復活を祝って、イースターの礼拝をささげています。

<① 罪の完済証明:私たちの罪がなくなった!>

ところで、キリストが死者の中からよみがえったことは、確かに前代未聞の大奇跡なわけで、それだけでも、ニュースとして大きな価値があるでしょうが、実はそれだけでなく、キリストがよみがえられたことには、重大な意味がありました。それは、ただどこかの人が、事故か何かで死んだけれども、よみがえったということとは、まったく別なことです。キリストが、死者の中から復活したということ。、つまり、十字架にかけられて死なれたキリストが、復活したということ、ここに重大な上にも重大な意味があります。それは、他ならぬ私たち自身の運命に直結しています。

先週の「十字架の意味」のちょっと復習ですが、イエス・キリストが十字架にかかられて、激しい苦しみを受けられ、死なれたことには、どんな意味があったでしょうか。それは、私たちの罪を背負って、私たちの身代わりに、私たちの罪に対する刑罰を受けて、死んでくださったということでした。「罪から来る報酬は死」という原理。ここの「死」は、文字通りの死だけでなく、罪の結果、もたらされるあらゆる呪いを象徴しています。その最たるものは永遠の滅び、地獄です。「罪から来る報酬は死です」の原理、因果応報、正義の原理が、世界を支える土台です。これは永遠に変わることがありません。神が正義であることをやめない限り、罪に対する裁きが行われないことは、決してありません。今の世でか、来るべき最後の裁きの時にか、どちらかで必ず罰を受けます。そして聖書によると、私たち人間はみな、生まれながらに罪人です。いわゆる犯罪は犯してはいないかもしれませんが、良心が痛むこと、ないでしょうか。罪を犯した人が罪人なのではなくて、罪人が罪を犯すのです。このままでは、人は自分の罪に対する刑罰を受けなければならない。それは肉体の死だけではなく、最後の審判で下される永遠の滅び、地獄です。しかし神は、私たちを愛し、私たちを滅びから救い出したいと切に願われた。私たちを失いたくないと思われた。ここに神のジレンマがありました。正義を貫けば、一人も救われるものはいない。みな、滅ぶ。かと言って、愛する人を救うために、正義の原則を曲げてしまうことは、できない。それは世界を支えている屋台骨を折ることになる。また、それは、神ご自身の性質に反することであり、神が神でなくなるに等しい。この神のジレンマの解決策が、罪なき神の御子キリストが、人々の罪を身代わりに背負って、刑罰を受けるということでした。キリストご自身は、神の御子ですから、罪のないお方でしたが、ただ私たちの罪を背負われて、身代わりに死んで下さいました。「罪から来る報酬は死」の原理は貫かれました。神は正義であることをやめません。神は永遠に正しいお方です。と同時に、罪人である私たちを救われたのです。

以上を踏まえて、です。そのキリストが復活されたということが、何を意味するかと言えば、もうキリストのうちには罪が残っていないということです。罪から来る報酬は死。罪があるなら必ず死がある。ならば、キリストが死者の中からよみがえったということは、もはや死の原因となる罪がないということ。そしてキリストが負っておられた罪は、信じる私たちの罪でしたから、私たちの罪がなくなったということです!私たちの罪に対する裁きを、キリストがすべて受けきって、一つも残っていないから、神はキリストをよみがえらせることができたのです。一つでも残っていたら、神は正しい方ですから、キリストをよみがえらせることはできません。チリほども、もう私たちの罪がキリストのうちに残っていないから、神はキリストをよみがえらせたのです。ですから、キリストが復活したという事実は、私たちの罪に対する裁きは、少しも残らず、執行されて、もう一つも残っていませんよ、ということの証明なのです。信じる者たちの罪が消え去ったことを、公に宣言するものだったのです。聖書では、罪は負債にたとえられますが、それでいくと、私たちの負債(罪)は、キリストが十字架ですべて完済してくださったという、完済証明書なのです。

ですから、キリストを信じる者は、もう死の呪いのもとにはいないのです。死の呪いから私たちはすでに、解放されているのです。逆に、17-18節に「そして、もしキリストがよみがえられなかったとしたら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。」とあるように、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、まだキリストが払いきっていない負債(罪)が残っていることになります。私たちの罪がまだ残っていて、だから神はキリストをよみがえらせることができない、死につながれていなければならないのだ、ということになります。だとしたら、私たちの信仰はむなしく、今もなお、罪が処分されきっていないので、罪の中にいることになる。そうしたら、罪から来る報酬は死。私たちは滅びることになってしまいます。しかし、キリストは、事実、復活されたので、私たちはもはや、罪の中にいないのです。死の呪いから解放されているのです。

人はなぜ死ぬんだろう、死なんてなければいいのに、と思ったことのある人は、いるでしょうか。どんな立派な人も、良い人も、聖人君子も、死なない人はいません。すべての人は、死と隣り合わせです。ある哲学者は「人はオギャーと生まれた瞬間から、死と隣り合わせなのさ」と言ったそうです。生きている以上、いつ死んでもおかしくない。人という人はみな、生まれた瞬間から、死を背負って、死に向って生きています。死に定められた者として生きています。しかし、キリストを信じる者は、もう死と隣り合わせではない。死を背負っていない。死に向って生きているのでなく、永遠のいのちに生きる永遠の御国に向かって生きています。死に定められた者ではなく、いのちに、永遠のいのちに定められた者として生きています。世界が一変したのです。

しかし、クリスチャンも死ぬではないか、という人もいるかもしれません。確かに、私たちの魂の住みかであるこの肉体の機能は停止します。外から見た限りでは、クリスチャンも、そうでない人も、同じように死ぬように見えます。しかし、本人にとっては、全然違う光景が見えている、全然違う死を通っているのです。キリストを信じる者にとっては、死は、罪の結果としての死ではもはやないので、まったく別なものになっています。それは、天国への凱旋の門です。死が元々、罪の呪いとして持っていた裁き、神の御怒り、刑罰という意味が消えてなくなったので、肉体の、いわゆる「死」は、恐怖や絶望といった恐ろしい毒が抜かれて、肉体を離れた魂が、愛するイエス様の元に迎えられる旅立ちのときとなっています。それは平安であり、喜びの瞬間です。そのことを、イエス様はこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに言います。だれでもわたしのことばを守るなら(=キリストを信じるなら)、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8:51)また、「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。…」(ヨハネ11:25-26)キリストを信じる者にとっては、死の持つ意味、死の性質がガラリと変わったのです。クリスチャンにとって死はもはや神の裁きや罪のもたらす呪いや滅びといった毒が完全に消えています。そして、死は永遠のいのちへと、慈しみ深い神の懐に迎えられるための通過点に過ぎなくなります。よく、死ぬ間際の方が、「あ、イエス様!」と言ってその時を迎えることがあると言います。あるいは、意識が遠のいて、眠るように地上では息を引き取って、目が覚めたら天国だった、神の懐だった、ということもあるのかもしれません。夜寝て、朝起きるように。

私たちは誰でも一人の例外もなく、いつか、その時を迎えます。しかし、キリストを信じているか、いないかで、死の意味が180度違います。文字通り、天国と地獄ほど、違います。キリストを信じる者たちは、その時が来たとしても、死の向こう側にある栄光を見ているため、死を「死」として経験することはない。死を見ることはないのです。

<② 初穂としてのキリストの復活>

そしてキリスト教は、論より証拠の宗教です。どんなに頭のいい科学者が、すばらしい理論を作ったとしても、実験でダメだったら、それはどこかが間違っているということです。逆に、どんなに信じられないことでも、想像もできなかったことでも、実験の結果がそれを指し示すなら、それが真理です。キリストは、事実、死者の中からよみがえったことによって、人は死んで終わりではないこと、神は栄光の復活を用意しておられることを実証して見せてくれました。デモンストレーションして見せて下さいました。20節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」「初穂」ということは、あとに同じ種類のものの収穫が続くということです。キリストが栄光のうちに復活したように、信じる者も同じように栄光の体で復活するということです。私たちの魂は、死を迎えた時に、肉体を離れて天にあげられますが、世の終わりには、再び、肉体と結びついて、復活すると言います。その時は、完全な体、病気にもならず、ギックリ腰にもならず、もちろん死なない、永遠に生きても疲れない体で復活します。その時に私たちが住む神の国は、物理的な場所です。物理的な天国という言い方をする人もいます。復活した肉体をもって、自分の二本の足で大地を踏みしめることになります。復活したイエス様は、弟子たちといっしょにパンと焼いた魚を召しあがりましたから、私たちも、食べることができます。顔と顔を合わせて、話をすることもできます。ですから、光の玉みたいなフワフワした、なんだかわからないようなものになるのではなくて、物理的な天国で、祝福に満ちた場所で、栄光の肉体をもって永遠に神とともに生きることになります。そのとき、私たちの涙がぬぐわれ、魂のすべての傷は癒されて、心身ともに完全な安息を得ます。あらゆる呪いの源である罪が、すべてきれいに取り去られた世界で、神の愛を喜びながら、生きることになります。