今日は「十字架の意味」という題でお話しさせていただきます。こんにち、十字架はアクセサリーとして身につける人もいて、すてきな、愛のシンボルのような印象があるかもしれません。それは確かにその通り、十字架は神から私たちへの尊いご愛があらわされているものです。しかし、十字架が本来、何だったかを知ると、驚かれる方も多いでしょう。イエス・キリストの時代、十字架は愛のシンボルなどではなく、死刑囚に対する処刑道具でした。それも、できるだけ苦痛を与えて死に至らせる、最も残酷な方法でした。ではなぜ、そんなものが、今では世界中で愛のシンボルとされているのでしょうか。そこには深い理由がありました。クラッシックだと、バッハの「マタイ受難曲」も、キリストが十字架にかかられたことをテーマにしていますが、3時間にも及ぶ大曲で、そこに秘められている神の深い愛を歌い上げているそうです。元々、むごたらしい処刑道具だった十字架が、なぜ、愛のシンボルになったのか。今日は、その理由をお話させて頂きたいと思います。
聖書の神は、全世界を造られた方です。そして神は慈しみ深く、あわれみ深い方です。と同時に、神は正しい方です。正しい方ですから、悪を罰し、正しい行いをほめます。いわゆる「因果応報の原則」によって世界を治めます。仏教でも、善因善果、悪因悪果(善い原因があって善い結果があるし、悪い原因があって悪い結果があるという教え)と言うそうです。聖書では、「人は種をまけば、その実も刈り取ることになる」と教えられています。この世界を造られた神は、正しい方ですから、この原理をもって世界を治めておられます。これが大原則です。当たり前の話ですね。みなさん、悪を裁かずに放置している王の国に、住みたいと思いますか?悪行非道の限りを尽くしている者たちが、いつまでも我が物顔に幅を利かせているようなところに。これは国として成り立たないでしょう。正義の原理、罪を犯したら罰を受けなければならないという原理は、世界を支えている根本原理です。これは永遠に変わりません。どこまでも、神はご自分が定めたこの因果応報の原理、正義と公平の原理を、厳正に執行する責任を負っています。今は、そうなっていない現実があっても、世の終わりの裁きの時に、キッチリ清算されます。それは神が保証しておられます。
で、これを他人事のように思っている限りでは、そうだ、そうだ、と喝采を送っていられるのですが、翻って、果たして自分はどうなのか、と省みるとどうでしょうか。一度も、良心に反した行いをしたことがない方は、この世にいるのでしょうか。聖書には、「罪の支払う報酬は死です」とあります。死は自然現象ではなく、罪の結果、世に入って来たものだと聖書は教えています。罪という原因があって、死という結果がある。そして一人の例外もなく、すべての人が死ぬという事実は、すべての人が罪ある者であることを証ししていることになります。ということは、すべての人が、神の裁きの時には、御怒りを受ける立場にあるということです。罪とは、いわゆる法律に違反する犯罪のことだけではなく、良心に反することも含まれます。人によって良心の度合いも違うので厳密には言えませんが、とりあえずそう考えていいと思います。罪があったら、罰を受けなければなりません。この世でか、そうでなかったら、最後の裁きの時にか。神は冷静に事務的に判決を下すのではありません。悪に対しては怒る方です。激しい怒りを注ぎ出してお裁きになります。
しかし、他方で、神は人を愛しておられます。罪を憎んで人を憎まず。神は人をかけがえのない存在と思って下さって、そのまま滅びいくのを見るに忍びない。しかし神は、正義に則って裁かなければいけない。ここに神のジレンマがありました。正義を貫けば、愛する人が滅ぶ。しかし愛しているからと言って、なかったことにしよう、とすると、正義がなくなる。どうやって、正義を犠牲にせずに、罪ある人を滅ぼさずに救うことができるか。その不可能と思える難問に対する答えとして、神がお遣わしになったのがイエス・キリストです。
神は罪ある人間の救い主としてイエス・キリストを世にお遣わし下さいました。イエス・キリストが地上におられた間、どんなことを話されたか、どんなことをなさったかは、「福音書」というところに記録されています。福音書は、救い主キリストをどういうふうに記しているか。まずお生まれが、聖霊によって処女マリヤの胎に宿った、超自然的に神の力で宿った方と紹介されます。これは神が人となられて、お生まれになったということを表します。そして大人になると、当時、病や悪霊につかれて苦しんでいる大勢の人たちを癒したり、ある時には一人息子を失って悲しみに沈む婦人をあわれんで、その息子を生き返らせたこともありました。小舟の上から湖に荒れ狂う波風を、一言で静めたこともありました。人々には、神の教えを解き明かし、特に罪人と自他ともに認めていた人たちに、悔い改める心があるなら、今からでも決して遅くはない、神はあなたを喜んで迎えて下さると言って、励ましました。かと思えば、自らを宗教的エリートと自認し、人々を見下していた宗教家たち、また当時の権威筋、権力者でもあった彼らには、厳しくその偽善を指摘しました。そのため、彼らから憎まれるようになりました。キリストは、どこを切っても、罪も汚れもない、ただ神にのみ信頼し、神のみこころにまっすぐに従った方、また愛と力と知恵とに満ちている方として記されています。
そのお方が、十字架にかけられてしまうのです。これが、福音書がそろって最も大切なこととして記していることです。逆恨みした宗教家たちが、罠を仕掛け、人々を扇動して、まんまとキリストの死刑判決を手にしたのです。キリストは、人々からあざけられ、鞭打たれ、ついには手足を十字架の木に釘づけにされます。言葉の上ではサラッと言えますが、実際に、現実にそうされたことを思うと、いたたまれません。しかし十字架につけられて、激痛の真っただ中にあっても、罪を犯すことは口にしません。人は苦しいと、誰かを毒づいたり、神に向かって毒づいたりするものですが、そんな言葉はいっさいイエス様の口から出てきませんでした。むしろ、イエス様の口から出てきたのは、ご自分を十字架につけた人々のために、「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」と祈る言葉でした。最後の最後まで、イエス様はチリほども罪を犯しませんでした。
なぜ、キリストは十字架にかけられて死んだのでしょう。宗教家たちに、はめられたからでしょうか。彼らの罠から逃れる力がなかったからでしょうか。常に神により頼み、神に信頼して、神のみこころを行ってきたイエス様が、こんなふうに最期を迎えるなんて、結局のところ、神がいないからでしょうか。いいえ、そうではありません。それは、ただ私たちの罪を身代わりに背負って、罰を受けるためなのです。ただそのために、キリストは十字架にかけられたのです。また、ただそのために、神はキリストを十字架に引き渡されるままにされたのです。すべては私たちの罪をキリストが一身に引き受けて、私たちが受けるべき刑罰を代わりに受けて下さるためです。罪のもたらす報酬は死です。罪なきお方が死なれたのは、私たちの罪のもたらす報酬である死を引き受けて下さったからです。これがイエス・キリストの十字架の意味です。キリストは、そのために世に来られたと、ご自分で言っておられました。神がキリストを十字架らから救い出さなかった理由は、この一点に尽きます。
このとき、キリストが信じる者たちの身代わりに、神の御怒りを受けて下さったので、信じる者たちは、神の激しい御怒りから免れました。雷がすぐ近くに落ちたら、誰でも怖いのではないでしょうか。ましてや、神の御怒りはどれほど恐ろしいものでしょう。しかし、キリストを信じる者のためには、キリストが、その激しい神の御怒りを、代わりに受けて下さったのです。神の正義は満たされました。10節に、キリストが「宥めのささげ物」とあるのは、このことです。神の怒りは、気まぐれや感情的な怒りではありません。正義から発する聖なる怒りです。その正義から発する聖なる御怒りを、キリストは十字架において、私たちの代わりに引き受けて下さったので、それは宥められた。それで、キリストを信じる者は、裁きにおける神の御怒りを免れているのです。助かったのです。
もちろん、神の御子なるキリストは、本当はイヤだったのに、無理やり私たちの罪を背負わされたのではありません。キリストご自身も、私たちを愛し、私たちのために自ら進んで、この役目を引き受けて下さったのです。父なる神と御子なる神であるキリストの動機は一つです。一つ心でこのことをなして下さいました。父なる神にとって、御子キリストは、全宇宙をすべて合わせたよりも、はるかに尊い、最愛の存在です。神の御子という表現は、この上なく、最高に愛されている者ということを表すものです。神は、その御子を、私たちの罪のための宥めのささげ物として与えて下さった。ここに、神がどれほど私たちを愛して下さったかが、示されているのです。
イエス様は、私たちを愛して、ご自分から進んで私たちの代わりに、罰を受けて下さいました。みなさん、誰かのためになら、自分が代わりに罰を受けてもいいと思えるでしょうか。ゲンコツくらいなら代われると思いますが。でも、そのままでは、死ななければならない人の代理に、自分が死ぬということを自分から進んで引き受けることができるという、それくらい愛する人、大切な人はいるでしょうか。「できるか」というより、そう「したい」と思わずにいられない人はいるでしょうか。なかなか難しいのではないでしょうか。でも、もしかしたら、クリスチャンの中には、死んだら天国に行けるのだから、いい、という人もいるかもしれません。でも、もし、それが十字架にかけられるという死に方だったら、どうでしょう。あまり苦しまずに死ねるなら、身代わりになってもいいけど、苦しいのはちょっと…とほとんどの人が引いてしまうのではないでしょうか。
十字架刑は、最初、横に寝かしてある木に、手と足を太い釘で打ち付けるそうです。その時点で想像を絶する激痛なのは言うまでもありませんが、さらに極まるのは、十字架の木を立てたときです。体重がかかって、釘を打ち付けた所の肉が引き裂けます。これが激痛の極みだったと思います。まったく比べ物になりませんが、昔、釣り針が私の指の先を貫通したことがあります。釣り針の先は、抜けないように返しがついているので、抜けません。じっとしていてもジリジリ痛みますが、糸が引っ張られて貫通した針が肉を持ち上げる形になったときが痛いのなんの…。肉が少し裂けかかっただけで激痛でした。その時に思いました。指先の肉が裂かれそうになっただけでこんなに痛いのだから、釘で打ち付けられた手足の肉が引き裂かれるのは、どれほどだっただろうと。イエス様は私たちを愛して、私たちのために自ら進んで、身代わりになって、十字架にかかって下さったのです。
キリストを信じる者にとっては、自分の罪に対する罰は、すでにキリストが受けてくださったので、私たちに対する罰は残っていません。完全に赦されました。いつ死んでも天国に行けます。裁きの時にも、私たちの罪に対する罰はすでにキリストにおいて執行してしまったので、私たちは罪赦されている者として、天国に迎えられます。神とともに永遠のいのちを生きる者とされています。それだけでなく、今、この地上にあっても、神と私たちとの間を隔てていた罪という壁は処分されて、御怒りから解放されて、今や、神に受け入れられ、神に愛されている子とされています。目に見える現実は試練を通らされているときも、神の確かな愛を確信して、希望をもって生きることができる者とされています。