今日の個所の主題は「神の前に立つとき、何が人を義とするのか。自分のわざか、それとも神のあわれみか。」ということです。「義」は正しいということ。私たちが神の国に入れてもらうためには、この義と認めてもらうことが、どうしても必要です。その義がないと、入れない。入国許可証です。あるいは、神の国という言い方がピンと来なければ、神との良好な、平和な関係のうちに生きたいと願うなら、義と認めてもらうことが必要ということです。神に敵対して生きたいですか?それとも神と良好な、平和な関係の中に生きたいですか?神に義と認めてもらうことなしに、神との平和な関係に入ることはできません。それも、自分勝手な義でなく、神の義に見合った義でなければいけません。本来は。みなさん、世の終わりのさばきのとき、神の御前に立たされたときのことを想像してみてください。そのときに、「あなたを義と認めます」と宣言して頂く自信はあるでしょうか?今日の個所で、イエス様は、神に義と認めて頂く道を教えて下さいました。14節に、たとえに出て来る取税人が義と認められて家に帰ったとありますが、今日、みなさんも、この会堂を後にするときには、義と認められて家に帰って頂きたいと願ってお話させて頂きます。
9節。まずここは「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たち」に対して語られたたとえです。罪と無縁だと思っている。当然、神に義と認められると信じて疑わない。そして、自分が罪びとではないと思うだけでなく、他の人を見下しているというところが特徴的です。人と比べて優越感に浸る人。彼らの優越感の源泉は、人との比較で自分がすぐれていること。ティム・ケラーは、彼らのアイデンティティは、神の恵みではなく、他者よりもすぐれているという比較に基づいていると指摘しています。人と比べて自分の価値を保とうとするというあり方は、恵み深い神から離れてしまった人間の罪の結果です。多くの悲惨の元凶ともなっているものです。人は罪によって、神から切り離された状態になってしまいました。しかしもし、神の無条件の愛、恵み深さを知って、神にこの上なく愛されている子であり、尊い存在なのだと確信できたら、人と比べて、かろうじて自分の価値を保つと言うようなことをしなくてよいのです。人は、造り主によって最初から価値あるものとして、この上なく尊い存在として造られたのです。そのことをわからなくさせてしまっているのが、人の心の深くに染みついている罪、神への不信、反抗です。その罪を取り除いて、神の子どもとして受け入れられるようにしてくださったのが、イエス様です。
たとえに入ります。自分を正しいと確信し、人を見下している人の典型として、パリサイ人、そしてその対極にある人として取税人が登場します。10節。もう何度も出てきましたパリサイ人。普通の人がまねできないほど、お務めを立派にやっている宗教エリートです。彼らが、どんな事をやっていたかは、私が説明するまでもなく、あとの11節で自分でしゃべっているので、そちらで見る事にしましょう。ともかく、当時のユダヤ人が見たら、一番、神に受け入れられる人と認められ、また自分でもそう思っていた人です。 他方、取税人は、まるっきり正反対。人々から、神に拒絶され、さばかれる罪人と思われ、また自分でもそう思っていた人です。もっとも地獄にふさわしい者との烙印を押されていた人です。
この対極にある両者をイエス様は登場させました。かたや、パリサイ人は、意気揚々と、堂々と歩いて宮に入りました。人びとは彼のために道をあけたかもしれません、パリサイ人様のお通りだ、と。そして、立って、心の中で祈ったと言います。人々の賞賛を集めていた宗教的エリートの祈りときたら、いったいどんな立派な祈りかと思いきや、あれ、あれ、のあれ?でした。11—12節。まず、彼の祈りは神に向いておらず、「自分自身に向いて」います。実は、「心の中で」と訳されたところは「自分自身に向かって」というのが直訳です。9節「~人たちに」の「に」(第三版「~に対して」)と訳されたのと同じ語。「神よ」と言葉の上では神に呼びかけていますが、心は生ける神に向いていない。自分自身に向かって言っていただけ。こういうこと、私たちもないでしょうか?私たちの祈りは、本当に神に向かって捧げられているでしょうか?言葉の上では神に祈っていることになっているけれども、生ける神に向かって祈っているのでなく、独り言になっていないでしょうか?ちゃんと生ける神に向かって祈りましょう。
そして、このパリサイ人は、自分が「ほかの人たちのように」奪い取る者、不正な者、姦淫する者ではなく、また「この取税人のようではないこと」を感謝しますと言いました。人と比較して、自分の正しさをアピールしています。神がおさばきになる基準は、人と比べてどうではなく、神の基準に照らしてどうか、なのに。神の基準に照らしたら、誰一人、罪のない人はいないのです。全人類のなかでもっともきよく正しい人も、全然届かない。ジャンプして月に届こうとするようなものです。それから、彼は続けて、自分はこれもしている、あれもしていると、ご自慢の行いを数え上げました。週に二度の断食やあらゆるものの十分の一を捧げているというのは、律法に定められていた以上のことをやっているという意味です。決められた事以上の功徳を積んでいるというのです。
このパリサイ人の祈りは、どこにも神のあわれみを必要としていません。自分に都合の悪い罪には目をつぶって見ないことにし、できていることだけを数え上げているだけ。その功徳と思っていることも形の上だけで、心の中をご覧になる神の目には、罪まみれのものでしかないのですが。
対して、取税人の祈りです。13節。罪人の代名詞とされていた取税人ですが、何かをきっかけに、心を入れ替えたいと思ったのでしょう。もう一度、神の民として、神を礼拝し、救いの約束を待ち望みたい。それで、思い切って、宮に来たのでしょう。人びとから何と言われるか、わからない。白い目で見られるかもしれません。それでも彼は、神の宮に来たいと思った。それだけで、彼の神に対する思いの切実さがうかがわれるところです。しかし、やっとの思いで宮まで来たものの、入り口のあたりにいるのが精一杯だったのでしょう。「遠く離れて立ち」そして「目を天に向けようともせず」堂々と顔をあげることができない。そして「胸を打ちたたいて」これは悔い、嘆きを表わすのでしょう。自分のこれまでしてきた事を本当に悔いている。嘆いているのです。
そしてやっとの思いで口にした言葉は「神様、罪人の私をあわれんでください。」でした。こんな自分は、ただ神のあわれみにしか、望みがないということをよーくわかっていた。100%神のあわれみのみ。ここで使われている「あわれんでください」という語は、単なる同情を求める言葉ではなくて、ヘブル書2:17では、「罪の宥(なだ)めがなされる」の「宥めがなされる」と訳されている語です。他のところでは、別の形でですが、「宥めの供え物」(ローマ3:25)や、「世全体の罪のための宥めのささげ物」の「宥めのささげ物」(第一ヨハネ2:2)と訳されている語です。ですから、彼は、自分の内には神の怒りを宥める手段が一切ないことを認め、神ご自身が備えてくださる「宥めの供え物」のみに望みを置いているのです。そして、イエス様は、この取税人こそ、神に義と認められたと仰ったのです。
14節。「この人が義とされて家に帰った」とは、彼が完全にきよい完全な人になったという意味でなく、罪が拭い去られ、神の御前で正しい者として認められて帰ったという意味です。カルヴァンは、どんなに聖なる生活を送っている者であっても、神の前では取税人と同じく「罪の告白」から始めなければならないと強調しています。なぜなら、神との和解は自分の功績ではなく、神が私たちの罪を問わないという、完全な赦しのみに依っているからです。パウロも言っていました。ローマ4:6-8。
これはまさしく、パリサイ人ではなく、取税人が祈り求めていたことでした。
私たちに神のあわれみが必要なのは、私たちが何か罪を犯してしまった時だけではありません。私たちは、調子の良い時も、悪い時も、最高の時も最悪の時も、同じく、100%神のあわれみのみによって、またキリストが十字架にかかって、私たちの罪のための宥めの供え物となってくださったことによって、救われているのです。この救いの構造は永遠に変わりません。だから、自分の調子の良い悪いによって、神に受け入れいられている度合いが変わることはないのです。常に、永遠に、キリストの尊い血潮によって、完全に赦されているので、完全に義と認められ、これ以上ないほどに、完全に受け入れられているのです。これ以上、もっと神に受け入れられるために、私たちが何か付け足す必要はありませんし、付け足すことはできません。キリストが成し遂げてくださった救いのわざに、なにも付け加えることはできません。これのみが、平安と自由、それに喜びをもたらすのです。
そして、ここの救いの道が本当にわかったら、いつまでもこの取税人のように暗い顔をして一年365日、悲しんでばかりいないといけないということではありません。聖書のほかのところでは、「いつも喜んでいなさい。」と言われています。本当にあわれみ以外にないんだということがわかったら、そのあとは、その100%あわれみを頂いて救われている事を喜んでいればいい。救われたあとは、あわれみがいらないのではなくて、救われたあとも、ただあわれみのみによって救われ続けているので、魂は安息できるのです。パリサイ人のように、自分の頑張りで神に認められよう、あるいはそのために価値のある者となろうという「自己義認」の道は、常に「もっとやらなければ」という焦燥感か、あるいは「自分はできている」という偽善と傲慢の間を揺れ動き、真の平安がありません。しかし、義と認められる根拠を自分から切り離し、ただキリストが成し遂げられた完全な罪の赦しにのみ置くとき、私たちは初めてそこから解放され、自由と喜びと平安が与えられます。失敗や弱さに落ち込むことはあっても、絶望しなくなります。失敗したときも、成功したときも、私たちの義は変わることのないキリストの十字架による罪の赦しに基づいているのですから。
そして、自分がただあわれみによって救われたのですから、人を見下すことはできません。かえって自分があわれみを受けたように人に対しても、同じ心が生まれるでしょう。何よりも、あわれんで下さり、宥めの供え物となってくださった御子イエス・キリストの御愛を知り、御子を下さった父なる神への感謝と賛美と愛をもってお従いする心が生まれて来るでしょう。ティム・ケラーは、このようにして義と認められることは、「取税人のような謙虚さと、王の子のような大胆さを同時に持つようになる」と言っています。
私たちが神に受け入れられる根拠は、私たちの内には一切ありません。神のあわれみと、キリストによる完全な宥めの供え物のみに依り頼む信仰だけが、救いへの唯一の道です。私たちはどうでしょうか。信仰生活が長くなって、いつの間にかパリサイ人のように人と比べて自分が正しいと安心することはないでしょうか。私たちが神の前に立つことができる根拠は、私たちの断食でも、献金でも、奉仕でも、道徳的なきよさでもありません。ただ、神の豊かな尽きないあわれみを受けて、私たちのために宥めの供え物となって下さった主イエス・キリストのゆえに義と認められ、受け入れられている幸いを新たにして、神とともに新しい週に歩み出しましょう。