失望してはいけない ルカ18:1-8
今日の箇所は、前の章から続く「人の子の日」すなわち再臨の話の続きです(8節)。世の終わりの時、イエス様が再び、来られる時には、栄光と力を帯びて、世を裁くために来られると聖書は告げています。しかし、その時まで、クリスチャンはその信仰を持ち続けることができるだろうか、失ってしまうのではないか、と案じて、そうならないように、私たちを励ますために語られたのが今日のところです。なぜ、それがそんなに難しいことなのか、と言うと、世の終わりには不法がはびこり、暴虐が行われ、正義が、正しい裁きが行われない時代になるからです。悪人たちが横行して、弱い立場の者が虐げられているのに、正しい裁きが行われない。さらには自分たちが信仰のゆえに迫害されているときに、神はなぜ、何もしないのか。黙っているのか。そんなふうに信仰が揺さぶられる時代になるからです。
で、どうするか、です。相手にされなかったからと言って、ここであきらめるわけにはいかない。ここからが本番です。彼女が身を守るには、裁判官に訴え続けるしかない。無視されても、無視されても、無視されても、彼女は訴えに通い続けました。そしてついに、あのトンデモ裁判官を動かしたのです。何が、彼を動かしたのか。まず彼は自分で「神を恐れず、人と人とも思わない」と言っています。この表現は2節と4節とで二回繰り返されています。そして5節では彼が裁判をすることにした理由が「うるさくて仕方がない」からと言っています。このやもめは、このまま放っておいてもあきらめそうになくて、いつまでも訴えに来て「うるさくて仕方がない」から、そしてこのままだと自分が「疲れ果ててしまう」から、ということでした。これは、この裁判官が動いたのは、正義のためとか、やもめをかわいそうに思って心動かされたとか、という理由ではいっさいなく、ただあきらめずに訴え続けたから動いたという、その理由を際立たせるためでしょうか。あきらめずに求め続けることは、こんな身勝手な最悪の裁判官でさえも、動かす力を秘めている。ここに着目しなさい、というのでしょう。あきらめないことの力。失望しないで、訴え続けることの力というものを教えているのでしょう。そしてイエス様は大胆にも、このやもめのとった作戦が神にも有効だと教えられました。
「速やかにさばきを行う」とありますが、ここは注意が必要です。ペテロの時代、すぐにでもイエス様が再び来られて、世がさばかれると言われていたのに、いつまで経っても来ないじゃないか、神の裁きはどこに行ったんだ、と言う人たちが現れました。それに対してペテロは、主の前では千年は一日のよう、一日は千年のようです、と言い、そして主は、来るのが遅れているのではなく、定められた人がすべて悔い改めて救われるように、忍耐して待っておられるのだと答えました(第二ペテロ3:8-9)。定められた人の最後の一人が悔い改めて救われたとき、それは誰にもわかりませんが、そのときに、主が来られるのでしょうか。私たちの側としては、それがいつか、わからないのですから、主が「わたしはすぐに来る」と言われた通り(黙示録22:7, 12, 20)、またここで「速やかに」裁きをつけると言われた通り、主のことばをそのまま受け止めて、主がすぐにでも来られるという意識でいるべきなのでしょう。
ただ、結果として、人間の感覚では長く待たされることになっているわけですが、このことについてアメリカ長老教会のティム・ケラーという人は、「神がすぐに応えないのは、待つプロセスを通じて、信仰者の品性が養われ、神への信仰が深まる必要があるから」と言っています。そして彼の、祈りについての、有名な言葉があります。「神は、もし私たちが、神の知っていることすべてを知っていたとしたら、まさに願ったであろうものを与えてくださる」。私たちが知っていることはごく一部ですが、神は永遠の視点から、すべてのことを勘案されて、タイミングも含めて、最善をなして下さいます。だから、私たちも天の御国に行ったあかつきには、そのことを知って、すべてを了解し、神をほめたたえるのでしょう。神は私たちの願いを「はい」「いいえ」「まだ」のいずれかで答えますが、どの場合もそれは私たちを愛してやまない父としての最善の選択であることを確信しましょう。
そして、8節の「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるでしょうか」という問いに対して、ケラーは、「神の沈黙や遅延の中でも神の品性を信頼し続け、祈り続けることこそが、イエスが探しておられる『信仰』である」と言っています。
ところで、「さばく」はこの段落で3回も繰り返されています(3,7,8節)。詩篇には、神の裁きを求める祈りがたくさんあります。それは神の正義があらわされることを求めることであって、それも神の栄光を求める事です。人からひどい目にあわされて、深く傷ついている人にとっては、詩篇や黙示録の中で、神に報復を求める祈りがあるのを読んで、初めて平安を得たという方もおられます。そういう方も決して少なくないと思います。人によっては、あんな報復を求める祈りが聖書にあるなんて、と言う人もいるかもしれないのですが、本当にひどい目にあった人にとっては、むしろそれが、平安を与え、癒しにつながることもあるのだと思います。クリスチャンはみんな、いつでも、ステパノみたいな祈りをしていないといけないと思って、神の正義を求める祈りをしてはいけないみたいに思っている所が、もしかしたらあるかも知れませんが、そうとも言い切れないのだと思います。むしろ、8節の最後の一文では、人の子が来た時、「その」信仰(原文には定冠詞がついている)が見られるだろうか、と言われています。神の裁きを求めて、祈り続ける信仰のことです。
こういう信仰は、いつの時代にも当てはまりますが、特に世の終わりの時代に必要になるでしょう。今は信教の自由の恵みを謳歌して、はばかることなく礼拝を捧げていますが、世が世なら迫害の対象になるのかもしれません。そんなときに、当然、祈ります。守られますように、一日も早く信教の自由を回復しますように等々。しかし、もしかしたら、祈っても祈っても、迫害者の手はゆるまず、ますます厳しさを増すかもしれません。犠牲となる兄弟姉妹たちが後を絶たないかもしれません。そういう時、神は本当に祈りを聞いておられるのだろうか、こんなことをしても無駄ではないか、という思いが頭をもたげるかもしれません。神なんかに祈ったって無駄だ、私たちの事なんか、全然無関心なんだ、と。
と、そんなことを思ったら、ハッと、気づいた事がありました。イエス様は、なんでよりによってこんな「神を恐れず、人を人とも思わない」裁判官なんていう登場人物を出されたのか。これはもしかしたら、私たち祈る側の気持ちに立って、教えて下さっているのではないか。つまり、まるで神が自分に無関心であられるかのように感じられる事があるから、まるで自分のようなちっぽけな者のことなど、無視しておられるかのように感じられる事があるから、そういうふうに感じられる時でも、なお、あきらめずに祈れと励ますために、あえてこういう血も涙もないような、情けも良心もないような裁判官を持ってこられたのではないかな?と思いましたが、どうでしょうか。目の前の現実は、もう神の恵み深さ、憐れみ深さ、正義、そういうものが感じられなくなるほどに、追いつめられた状況で、祈っても、祈っても答はなく、神がまるで自分たちのことに無関心で、無視しておられる。そんなふうに感じられてしまう時、それでもなお、このやもめのように、失望せずに求め続けなさいと。それは無駄ではない。必ず神が応えてくださるからと。
ところで、旧約聖書にハバクク書という書があります(旧約p.1597以下)。その冒頭は、不条理な現実に直面した預言者の叫びで始まります。「 いつまでですか、【主】よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。『暴虐だ』とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。 なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。」(1:2-3)。暴虐に対して神が沈黙し、放置しているように見える状況下で、彼は神に訴えます。そして神が何を語られるか、答えを待ちます。そして主は彼に語られました。「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」(2:3)つまり神の裁きが必ず来るということ。たとえそれが遅いと感じられたとしても、それを待て。それは必ず来ると。そして「正しい人はその信仰によって生きる」(2:4)と語られたのでした。神の約束が遅れているように見える中でも、神の真実にしがみつき、信頼し続ける姿勢。神が沈黙しておられるように見える時に、いくら祈ってもなしのつぶてで、何も手ごたえのない時に、まさにその状況の中で、神に信頼し続け、祈り続ける。それが、ここで言う「信仰によって生きる」ということなのだと思います。この「信仰によって生きる」とは、単なる一度きりの回心ではなく、正義を行われる主がおられるという信仰によって、そう見えない現実の中でも、神が何もしていないように見える現実の中でも、その信仰によって生きるということです。