今日の個所は、ちょっと普段の生活とかけ離れたと言いますか、かなり特殊な状況を扱っています。何しろ、世の終わりの時の事ですから、これは日常生活とはかけ離れたものとなります。まるで映画の特撮か何かを見ているような光景も出てきます。しかし、聖書を神のことばと信じる私たちの立場では、これは現実の事として信じています。
今日の箇所のキーワードは「人の子の日」という言葉です。「人の子」とは、イエス様の事ですから、イエス様の日、キリストの日ということですが、何のことかというとキリストが再び、世に来られる日のことです。この、キリストが再び世に来られることを再臨(さいりん)と言います。イエス様は、一度目は、約二千年前に、ご自身を低くしたお姿で家畜小屋でひっそりとお生まれになり、無力な者のように十字架にかけられました。それは私たちの罪のために身代わりに神の御怒りを受けて下さり、私たちをお救い下さるためでした。神の御子は一度目は、そのために来られたのです。そして十字架にかかられて三日目に復活され、40日後に天に昇られ、父なる神の右に着座されました。そして今度、定めの時が来たら、天からもう一度、世に来られると聖書は告げています。二度目に来られる時には、栄光と力を伴って、世を裁くために来られます。今度来られる時は、雲(主の栄光を表す特別な雲)に乗って、稲妻がひらめくように天の端から天の端まで一瞬にして、誰もが一目で神の御子として認めざるを得ないようなお姿で来られます。その時に、キリストを信じて、キリストに望みを置く者と、そうでない者とは否応なしに運命が分かれます。
しかし、イエス様が、このまま十字架を通らずに、直接、栄光と力に輝く王になると期待していたであろう弟子たちに、そうではない、その前に、まず世から多くの苦しみを受け、十字架につけられなければならないのだ、とイエス様は告げられました。25節。栄光の前に十字架。十字架の後に栄光。これも神の道の大原則の一つです。十字架なくして栄光なし、です。キリストとともに苦しみにあずかることなくして、キリストとともに栄光にあずかる事はできません(ローマ8:17)。しかし、多くの人はこの大原則を忘れて、何とかうまくやって、苦しみは避けて、いい所だけゲットしようとしてしまいがちです。「自分の十字架を負って、わたしについてきなさい」と主は言われました。イエス様とともに十字架の一端でも担わせて頂くことを恵みであり、特権であると認めて、その道を歩ませて頂きたいものです。その先に、イエス様と共にあずからせて頂く栄光が用意されています。
さて、十字架に一言触れたあとで、再び、世の終わりのことに戻ります。まず、その日は、普通に営まれている日常生活の中に、突然、来るから油断しないように、と戒めます。26-30節。ここのノアとロトは創世記に出てきた人。それぞれ神の裁きが下った時に、逃れた人たちです。ノアの時代、世は暴虐に満ちていました。今の時代も、表にあらわれているもの、あらわれていないもの、きっと想像を絶するような暴虐もあるのでしょう。しかし、他方では、人々は、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、人生の楽しみ、喜びを謳歌していた。ところがある日、ノアが箱舟を作り終えて、箱舟に入ったその日、突如として、大洪水が襲いました。神の言葉を信じて箱舟を作っていたノア一家は免れましたが、神の裁きなどバカバカしいと取り合わなかった人々は、みな、大水に飲み込まれました。それまで一生懸命に築き上げてきたものとともに。ロトの時代もそうでした。人びとは食べたり飲んだり、売ったり買ったり商売に精を出し、植えたり建てたり畑仕事に精を出し、家や倉をせっせと建てるのに余念がなかった。神の裁きなど、警告されても聞き流していた。しかし御使いに強引に手を引かれて、ロトがその町を出た日に、突如として、天から火と硫黄が降ってきて、その町のすべてを焼き尽くしました。
人の子の現れる日、再臨の日もその通りだと言います。神の裁きは、普通の日常生活を送っている中に、突如として臨むのです。言うまでもなく、人々が飲んだり食べたり、日常生活を送ることが悪いのではありません。ただ、普通に日常生活を送っている時にでも、イエス様がある日、突然、来られるということを忘れないように。人は裁きの言葉を聞きたくないもの、考えたくないものです。エバもそうでした。だからこそ、イエス様は警告して下さっているのでしょう。
そして、その日に向けての心得も与えます。この世のものに執着せず、一心に主の救いに心を向けなさい、ということです。31-33節。31節「その日」は、イエス様が来られる日。あちらでは、屋上で食事をしたり、祈ったりしていたそうで、屋上は生活の場でした。で、その時、屋上にいる人は、家財を惜しんで持ち出そうと、下に降りてはいけない。畑にいる人も、家に取りに戻ってはいけない。どういうことか、というと、再臨の時には、イエス様が御使いを遣わして、信仰者たちを引き上げて、ご自分の所に迎えて下さるからです。マタイ24:31「 人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」また、第一テサロニケ4:16—17「 すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」ですから、その日には、主は御使いを遣わして、私たちを集めて、ご自身の御側に迎えて下さるのです。
それほどすばらしい時が用意されているのだから、ゆめゆめその救いを逃すことのないようにと、32節では「ロトの妻のことを思い出しなさい」と念を押されます。ロトと妻がソドムの町から逃げる時に、御使いは言いました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこにも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。そうでないと滅ぼされてしまうから。」ところが、ロトの妻は、残してきたものに後ろ髪引かれて、うしろを振り返ってしまった。それで彼女は、なんと塩の柱になってしまったということが記されています(創世記19:26)。おそらくまだ、逃げている途中で、ソドムに火が降る前です。「あの御使いとか言う人はあんなことを言ったけれども、本当にあの町に裁きなんて下るのかしら」などと思ったのでしょうか。長年かけて、苦労して築いた家、財産だったかもしれません。しかし、それもあと数時間もすれば焼かれて灰になってしまう物だったのです。それに気を取られて、自分のほうが先に塩の柱と化してしまったのでしょう。
続いて34、35節。その日に信仰者たちが超自然的に取り上げられ、イエス様のもとに引き上げられる様子がリアルに描写されています。まるで映画のように、二人がいっしょにいるところで、一人が取られ、一人は残される。家族でしょうか、いっしょに寝ていても、いっしょに臼を引いていても、その日には正確に、キリストにある者だけが取り去られる。キリストを信じているか、拒んでいるかによって、―その基準だけによってー取られるか、残されるか、分かれるのです。「取られる」「残される」受身形です。イエス様が、御使いを遣わして、私たちをご自分の御側に迎え入れて下さる。私たちは受け身です。また、この「取られる」と訳された語は、「傍らに受け入れる」のニュアンスの語で、ヨハネ14:3では、イエス様が天に行かれて、弟子たちのために場所を用意したら、また来て、彼らをご自分のもとに「迎える」と言われているところの「迎える」と同じ語です。私たちはイエス様の側に、懐に迎えられるのです。
さて、「一人は取られ、一人は残される」と聞いて、弟子たちは、取り残されたら大変だ、と思ったのでしょうか。どこにいれば、ちゃんと迎えに来てもらえるのか、主に尋ねました。37節。イエス様の答えには、3通りの解釈があるようですが、私はこれは、御使いが弟子たちを目ざとく見つけて、迎えに来てくれることと取りたいと思います。鷹は、何と言っても並外れて優れた視力が特徴で、人間の約8倍の視力で、1.5㎞先の獲物を認識するそうです。そして時速100㎞を超える速度で急降下するそうです。遠くからでも目ざとく見つけて、すばやくあっという間にやってきます。そのように、御使いも、キリストにある者を目ざとく見つけて、サーッと速やかにその人の所に来てくれる。だから、どこにいなきゃいけないとか、そういうことを心配する必要はないと言っておられるのだと思います。