前回は、ツァラアトが癒された十人の内、大声で神をほめたたえながら、イエス様のところに来て、ひれ伏して感謝したサマリヤ人の記事でした。それと今日の個所と何か、関係があるかな、と考えてみて、あの、イエス様への感謝にあふれた彼の姿こそが、今日の個所でイエス様が言っている神の国の姿だと、言いたいのではないかと思いました。イエス様に、長年の苦しみから救い出して頂いた喜び、感謝、神への賛美。これらが、この思いをもって、神に従うのが、神の国の本来のあり方です。それは、単に戒律を守るというのでなく、その従順が血の通ったものとなり、それがまた喜びとなるのでしょう。
20節。「神の国はいつ来るのか」とは、パリサイ人が純粋に教えを乞うたのではなく、ケチをつけて言った言葉です。嫌味です。おい、イエスとやら。お前は、神の国が近づいた、と言っているが、全然来ないじゃないか、いったい、いつになったら来るんだ!と。神の国とは、神の支配のこと。領土のことでなく、神の支配が神の国です。で、当時、彼らがイメージしていた神の国とは、神が特別な救い主なる王を遣わし、その王が圧倒的な力をもって、にっくきローマ帝国の支配から自分たちを解放し、さらには自分たちが神に特別に選ばれた国として高められ、世界を治めるようになることでした。そのときには、全世界から悪人は取り除かれて火の海へ投げ込まれ、悪を取り除かれた世界は正義が行われるようになり、従って平和が実現し、こうして神の祝福が全世界を覆うようになる。その中でも、自分たちは神から特別に誉を受けると思っていました。ところが、イエス様は、ローマ相手に反旗を翻す気配がない。で、さっきの難癖になったわけです。
それに対してイエス様は「神の国は、目に見える形で来るものではありません。」と答えました。世の終わりには目に見える形で神の国が実現しますが、今は目に見える形で来るのではない。彼らが期待しているような、ローマ帝国から解放するとか、自分たちが世界を治めるだとか、そういう目に見える王国として来るのではない。イエス様は他の所でも「わたしの国はこの世のものではありません」と言われました(ヨハネ18:36)。
私も、かつてはここのパリサイ人と同じような思い違いをしていました。学生時代の友人で熱心なクリスチャンがいて、彼が私に伝道するのですが、こっちは、神なんて、どこにいるっていうんだ?いるなら見せてみろ、そしたら信じてやるから、と言ってやったものでした。天にいる?どんどん上に行ったら、大気圏に突中にして、そこを過ぎたら宇宙に出るだけだと、ここのパリサイ人たちと同じような思い違いをしていました。目に見えないものを、肉眼で見えるかのように思っているところが、大きな勘違いでした。イエス様は仰いました。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。」普通に眺めていたら、見えない。でも少し視点を変えてみると、見えてくる。見方をちょっと変えてみると、それまで見えていなかったことが見えてくるということは、あるのではないでしょうか。たとえば、17:1-10で見たことですが、誰かを赦すということ。それも、心にガッシリ根を張ってしまっているような、とうてい人間の力では引き抜くことができないような、赦せない思いがあったとして、その思いを取り除いて赦すことが、神の力によって可能になったとしましょう。そういう事を見た時に、それをただそのまま、誰かが誰かを赦したという表面的なところしか見ない人は、それで終るでしょう。しかし、それが自分の力ではなく、神の力によって引き抜いて頂いたことは、自分自身が一番、よくわかっているはずです。その人はそこに神の国の力の一端を体験するでしょう。また、見る人が見れば、それがわかるでしょう。前回の11-19節との関連で言うなら、いつも心にイエス様への感謝が溢れている人を見て、ただ、おめでたいやつだ、としか見ない人はそれで終わり。でも、どうしてそんなふうに感謝していられるんだろう?と疑問に思い、キリストがその人のためにして下さったことのゆえに、感謝に溢れているんだとわかったら、その人は、そこに神の国の一端を見るでしょう。ましてや、とうてい感謝などしていられる状況でない時になお、イエス様への感謝を絶やさないとしたら、そこにも、見る人が見れば、神の国を見ることができるでしょう。
それで、イエス様はパリサイ人たちには見えていないけれども、神の国はすでにあなたがたのただ中にある、来ている、と言われました。
21節。「見よ、ここだ」「あそこだ」当時、我こそは、神から遣わされた解放者なり、と自称して、人々を集めてローマに反旗を翻した人が何人かいたそうですから、そういう人たちが集めた集団のことでしょうか。しかし、神の国はそういうものではない。「あなたがたのただ中にある」。それはこういうことです。生ける真の神から離れたこの世界は、サタンの支配下にあると聖書は教えています(第一ヨハネ5:19)。最初の人アダムが神に背いて以来、アダムの子孫たるすべての人は神から離れ、悪い者の支配下に置かれました。だから世界から悲惨がなくならないのです。しかし、そのサタンの支配するサタンの国に、神の御子キリストが来て下さった。神に愛されている者たちを、サタンの支配から神の支配へと救い出すために来られました。キリストは次々と、悪霊を追い出し、人々をその支配から解放しました。あるとき、キリストは、「わたしが神の御霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国があなたがたのところに来ているのです」と言われました(マタイ12:28)。これは、それまで世を支配していたサタンとその手下である悪霊を、キリストが圧倒的な力で、次々と追い出し、そのサタンの支配を崩しているということです。神の国がサタンの国に侵入し始めたのです。ですから、神の国をもたらしているキリストを目の前にして、「神の国はいつ来るのか」と言っていた彼らのただ中に、神の国はもうすでに来ていたのです。
ところで、キリストは、このあと、やがて十字架にかかって、死なれます。それは、私たち人間の罪に対する神の御怒りを、キリストが身代わりに受けてくださるためでした。それで、悔い改めて(神に立ち返って)、キリストを信じ、これからはキリストに従って生きます、と決心した者は、完全な罪の赦しをいただき、神の愛する子として受け入れられ、そして聖霊を与えられます。三位一体の神の聖霊なる神。このお方をキリストは私たちに遣わして、私たちの内に住まわせてくださいます。この聖霊が、聖書のみことばと共に働いて、私たちの心と生活を神の支配するところとして下さいます。つまり、神の国としてくださいます。コロサイ1:13「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」私たちはすでに、サタンの支配から御子キリストの支配の中に移されています。
ただし、私たちの内に、また私たちの間に、神の国が完全に完成するのは、世の終わりの時を待たなければいけません。私たちが地上にいる間は、神の支配は未完成です。しかしキリストを主と仰ぐ者の内には、確かに聖霊が住まわれ、神の国が始まっています。ですから、今の私たちは、「すでに」始まった神の国の中に生き、「いまだ」来ていない完成した神の国に向かっている途中にあるということです。「すでに」と「いまだ」の間にあります。以前とは(キリストを信じる前とは)違いますが、まだ完成はしていない。そういう所に私たちはいるのだということを知っておくと良いと思います。
さて、ここからは、もう少し具体的に、すでに私たちに与えられている神の国のことを見ていきます。神の国は、まず私たちの心から始まります。それが行いになって、外に現れます。恵みの手段である祈りとみことばを聖霊が用いて、神の力をもって、私たちの心に働き、少しずつ、造り変えてくれます。それはまず身近な人との関係にあらわれるでしょう。パウロは「神の国は…聖霊による義と平和と喜びだからです。」と言いました(ローマ14:17)。ここの「義」は、神のみこころにかなった正しい行いのことです。「平和」はその義によって生み出され、保たれる兄弟姉妹との平和。そして「喜び」はその平和な関係から生まれるものでしょう。これらすべては、私たちの内に住まれる聖霊によって実現するものです。讃美歌433番は、誰しもがあこがれる一つの理想的な神の国の姿でしょう。
イエス様は「神の国とその義を第一に求めよ」と言われました。神の支配を第一に求めるということは、自分の生活における神の主権を認めることです。自己中心から神中心へと心と生活の判断基準を変えることです。神の国の住人ですから、神の法に従うのが道理です。ただし、神の国の王はキリストです。キリストが王であるということは、私たちは王の保護のもとにあるということです。天においても地においてもいっさいの権威を与えられているキリストが、私たちを守る王でもあるということは、なんと心強いことでしょうか。
この王なるキリストにお仕えするとは、教会の中だけのことではありません。カルヴァンがよく使うモットーに「コーラム デオ」=「神の御前に」というものがありました。どこにいても、何をしているときも、神の御前にいることを意識するように、口ずさんでいたのでしょうか。パウロは当時の奴隷たちに向かって言いました。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23-24)世の仕事も、主がそこに自分を置いているという、神の御手があることを信じて、それゆえ、委ねられた仕事に従事することは神に仕えることであるとして、誠実に行う。仕事に限らず、家族の関係、あるいは家事、育児にもその原理が適用されます。またイエス様は言われました。世の終わりの裁判の場面です。「すると、王は彼らに答えます。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。』」(マタイ25:40)。あるいはまた、試練の中で主に望みを置いて耐えること、病床での忍耐といったことまで、日常のあらゆる営みが、王なるキリストへの礼拝的奉仕となります。
地上における神の国の生活は、完全な状態ではありませんから、ある意味、苦しみを伴います。しかし、それは正しい道を歩んでいることのあかしです。罪と戦っているということは、聖霊を頂いていることのあかしでもありますから。そうでなかったら、罪と戦うこともないでしょう。罪を犯した際には素直にキリストの御前に行き、キリストが自分のために十字架にかかってくださったので、赦されていることを改めて感謝しましょう。そして、神の力できよめて頂くことを願いましょう。その「悔い改めと信仰の反復」こそが、神の国が現在進行形で働いている証拠です。神はそのように真摯に歩む姿を喜んで下さいます。
霊的な神の国の実態は、目に見える繁栄ではなく、キリストを王として仰ぎ、普段の生活の中でみこころに従うこと、仕えることです。地味で忍耐を要するものです。しかし最後には完成させて下さるという確かな希望をもって、そこに向かって歩むのです。
「主イエスの建てし 愛の国は」 新聖歌146番
神の国の王はキリストです。この王は暴君ではなく、むしろご自分が私たちのために仕えてくださる王です。イエス様は弟子たちの足を洗われました。そして私たちを滅びから救うために、ご自分から進んで十字架にかかってくださる王です。その故に、私たちは神の御怒りから救い出され、神の愛する子とされました。永遠のいのちと永遠の御国を受け継ぐ者として頂きました。そのことを思うと、あのツァラアトが癒されたサマリヤ人のように、キリストへの感謝にあふれてしかるべきだと思います。永遠に、いくら感謝してもしきれません。その心こそが、キリストへの従順の原動力となるべきなのでしょう。
この神の国は、王であるキリストのご性質とともに、伝えられ、広がっていくものです。神の国は愛と犠牲によって広がっていきます。それは、時代と国境を越えて広がっていき、世の終わりに至ります。私たちも、その、現在進行形で広がりつつある神の国の一員です。