礼拝説教要旨 2026年2月22日

ひれ伏して感謝した

ルカの福音書17:11-19

場面は変わって、イエス様一行がエルサレムへ向かう途中の一コマです。11節。「イエスはエルサレムに向かう途中、…」こういう言葉を読むたびに、ゴルゴダの丘の十字架に向かって、一歩一歩、自ら近づいていかれるイエス様のお姿を思います。どういうお気持ちで、エルサレムに向かっておられたのだろう、と。イエス様は、エルサレムでご自分が十字架につけられることをご存じでした。というより、むしろ、そのために、そこに向かっておられました。そのためにこそ、人となって、世に来てくださいました。なぜか?私たちにまことのいのち、永遠のいのちを得させるためです。そのためには、ご自分が十字架に掛からなければなりませんでした。それで、愛する私たちにそのいのちを得させるために、今、御自分の足で一歩一歩、十字架に向かっておられたのでした。

そのエルサレムに向かう途中、サマリヤとガリラヤの境を通られました。歴史的な経緯から、当時、ユダヤ人はサマリヤ人をさげすみ、嫌っていました。一つには、サマリヤ人は、元はイスラエル人でしたが、外国人と混血が進んでいたこと。また、礼拝する場所をエルサレムではなく、勝手に自分たちの所にあるゲリジム山だと主張していたこと、そして、紀元前2世紀にシリヤの王、アンティオコス・エピファネスがユダヤ教の根絶をはかった時、サマリヤ人は自分たちはユダヤ人と同族ではないと主張し、さらにこの暴君をなだめるために異教の神の偶像をゲリジム山に安置しました。他方、ユダヤ人たちは、血統的に混じりけのない、純粋なアブラハムの子孫であることを誇りとし、由緒正しいエルサレム神殿を有しています。そしてアンティオコス・エピファネスによる大迫害の時にも、偶像を拝むことを拒否して殉教した人々が大勢いました。そんな事情があって、ユダヤ人たちは、サマリヤ人を見下していました。

そんなサマリヤとガリラヤの接する境のあたりでの出来事です。そこで10人のツァラアトと呼ばれる病を持った人たちがイエス様にあわれみを乞いました。11-12節。ちょうどガリラヤとサマリヤの接するあたりですから、この10人の中には、サマリヤ人とユダヤ人と両方いたのでしょう。同じ病、同じ境遇の者同士、民族的ないがみ合いはなく、いっしょに暮していたのでしょうか。「ツァラアト」聞き慣れない言葉ですが、これはヘブル語をそのままカタカナで表したもので、何の病気を指すのか、厳密にはわからないので、新共同訳は「重い皮膚病」と訳しています。当時、ツァラアトにかかった人は、居住区から離れた所に住まなければなりませんでした。家族とも一緒に住めません。そればかりか、誰か人が近くに来るのが見えたら、「私は汚れている!私は汚れている!」と大きな声で叫ばなければなりませんでした。ですから、ここでも、彼らは「遠く離れたところに立ち、声を張り上げて」叫ばなければならなかったのです。社会から隔離され、疎外された状態です。しかし、そんな嘆きの場所、絶望の場所が、イエス・キリストとの出会いの場となりました。

彼らにも、誰かがイエス様のことを伝えていたのでしょう。とにかくイエス様のことを伝えておくのは、大切なことです。どこでどう、それが用いられるか、わかりません。人を救いに導く神の御霊は、風が吹くように、人の予想を超えて、思いのままに吹きます。彼らも、イエス様のことを聞き、今、まさにイエス様が近くを通られると知って、この千載一遇のチャンスを逃すものかと、遠くから声を張り上げてあわれみを乞いました。「イエス様、先生、私たちをあわれんでください。」ここで人生が変わるのですから、彼らの人生をかけた叫びです。イエス様は、あわれみを求める声に、最も心を動かされるお方です。傷つき、挫折し、落ち込み、絶望し、打ちひしがれている人をこそ、見ていられず、心を動かされるお方です。ここでもイエス様は彼らに恵みのみことばを与えられました。

14節。「自分のからだを祭司に見せる」とは、当時、祭司が、ツァラアトに冒された人がきよめられたかどうかを判断することになっていて、もし大丈夫ということになったら、「きよめの儀式」なるものを行ない、「あなたはきよい」と公式に宣言することになっていました。これによって正式に社会復帰ができるようになります。ですからイエス様は、ここで、あなたがたは願い通り、癒されるから、祭司の所に行ってきよめの儀式をしてもらいなさい、と言われたわけです。これは、癒やしという結果を見る前に、主の言葉に従うという信仰の歩みを求められたことになります。

ところでツァラアトが癒されたときに行なう「きよめの儀式」について、旧約聖書のレビ記14章に詳しく書いてあるのですが、これは規定はあるものの、イエス様が来られるまで一度も実行されたことのない規定だったようです。千数百年もの間、休眠状態だった規定。というのは、当時、ツァラアトは不治の病で、ツァラアトを癒すことは、死人をよみがえらせるようなものだと言われていました。自然治癒は望めない病。しかし、それなのに、ツァラアトが癒されたときの定めを神が与えたということは、神がいつか、ツァラアトが癒される時を用意しているからに違いない。そしてそのツァラアトを癒すお方こそ、神が遣わされるメシア、救い主だと信じられていたのです。とすると、見せられた祭司の方もビックリしたでしょう。これまで知識としては先祖代々、受け継がれてきたものの、今まで一度も行ったことのないきよめの儀式を行うことになったのですから。のちに、大勢の祭司たちがキリストを信じたのは、こういうことも関係していたかもしれません(使徒6:7)。

この十人は、イエス様の言葉を聞いて、すぐに祭司の所に向かいました。すると、その途中でツァラアトがきよめられました。信仰の働きは、みことばに対する具体的な行動の中に現れます。これが、もし、「まず癒されたら、祭司のところに行きます」と言っていたら、彼らは癒しにあずかることができなかったでしょう。見ていなくても、イエス様が言われたことだから、信じて一歩踏み出すのが信仰です。アブラハムも、まだ見ぬ土地へ、行き先を知らずして、主の命に従って、一歩踏み出しました。私たちも、肉の目には見えないことを聖書のみことばによって信じています。神の御前にキリストによって罪赦されていること、それで神に受け入れられ、神の子どもとされていること、永遠のいのちを頂いていること、キリストに似た者と造り変えられること、栄光のからだに復活すること、天の御国では、地上で受けた魂の深い傷は癒され、涙は主ご自身にぬぐって頂けること、そして栄光の神の国を受け継ぐこと等々、まだ見ていないことを信じて、信仰者として歩んでいます。そしてその信じたことをやがて、自分の目で見、体験することになります(へブル書11:1)。

さて、ここまでは良かったのですが、問題はこの後です。15-18節。十人が十人とも癒されたのですが、そのうちの一人だけが、大声で神をほめたたえながら、引き返してきて、イエス様の足もとにひれ伏して感謝したというのです。最初、九人の方が、イエス様の命じたことに従ったのではないか、と思いましたが、彼らはイエス様の命令に従うという意識よりも、一刻も早く祭司のところに行って、きよめの宣言をもらい、社会復帰したいと思って先を急いでいたのでしょう。今までのつらい人生とはオサラバ、これからは社会の中で一市民として生活できる、と。それはもちろん、うれしいことです。しかし、彼らにはイエス様に対する感謝が、どれだけあったのか。癒しさえ、もらえれば、あとは関係ないと思っていなかったか。恵みをむしり取るだけで、あとはさっさと離れて行く。それでは、癒しはもらえても、本当の救いにはあずかれないでしょう。頂いた恵みに応答して、イエス様に感謝をささげる。イエス様を礼拝する。イエス様に従う。継続的にイエス様との関係を大切にすることが大事なのに、イエス様との関係が、この時限りだったとしたら、肉体の癒しよりはるかに大切な魂の救いにあずかることができないのです。だからイエス様は、このようなちょっと厳しく聞こえる言葉を言われたのだと思います。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。」これは、ご自分が感謝されないことを怒っているのではなく、彼らの魂の救いのことを思っての嘆きなのだろうと思います。

この九人にはアダムの息子、弟殺しのカインの姿も重なります。彼は自分が弟を殺したことがバレるや、人々が自分を殺すに違いないと恐れて、主に泣きつきました。それで、主が誰もカインを殺すことがないようにとしるしを与えられると、感謝の一言もなく、さっさと主の前を去って、自分の町を建て始めました(創世記4:9-17)。主の守り、主の癒し、主の恵みだけをむしり取って、感謝もなく、主を利用するだけの人…。

それと対照的なのは、サマリヤ人の彼でした。彼は、「大声で神をほめたたえ」ました。受けた恵みに対するあるべき応答です。神への感謝の賛美のささげ物です。私たちも、このようなささげものを、日々、絶やさず、おささげしたいものです。また、彼は途中で「引き返して」来ました。一日も早く社会復帰したいのは、彼も同じはずです。なのに、彼はそれを後回しにしてでも、どうしても、イエス様に感謝を表わさずにはいられなかった。私たちもできる限り、日曜日はイエス様の所に来て、感謝をあらわす者でありたいものです。また、彼はイエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。ただ感謝したというのでない。ひれ伏して感謝したのです。私たちは、イエス様にひれ伏して感謝したことが、あるでしょうか。本当なら、イエス様が、この自分の罪のために、身代わりに十字架にかかって下さったと知った時に、ひれ伏して感謝して、いくら感謝しても、足りないくらいのはずです。生涯、イエス様にひれ伏して感謝し続ける気持ちで、お仕えし、お従いして当然です。生ける神の御子が、ただ私たちを愛してくださったゆえに、私たちを罪と滅びから救い出してくださるために、自ら進んで十字架にかかってくださったのですから。このサマリヤ人の姿は、賛美と感謝の模範として心に留めておきたいものです。

19節。17節では「きよめられた」と言われましたが、ここでは「救った」と言われました。ツァラアトがきよめられただけでなく、魂の救いにあずかったことを表すのでしょう。
「 感謝なき日はなく 賛美なき夜はなし 」新聖歌266番

恵みは十人に与えられましたが、正しい応答をしたのは、感謝したのはひとりだけでした。痛恨の一事でした。私たちはサマリヤ人にならう者でありましょう。このサマリヤ人の彼は、イエス様のひとことで、ツァラアトが癒されて、これほど神をほめたたえ、イエス様に感謝しました。ならば、私たちも、どれほど神をほめたたえ、イエス様に感謝をおささげするべきでしょうか。イエス様が、私たちをどんなところから救い出してくださったか、どんな犠牲を払ってくださったか、そしてどんなすばらしい恵みをお与え下さったか、改めて思います。神は聖なる方、義なる方です。私たちが思っている以上に聖なる方、義なる方です。さばきのときに、神は冷静沈着に事務的に判決を言い渡すのでなく、悪や罪に対しては、御怒りをもって判決を下し、刑罰を与えます。雷が近くに落ちただけでも、私たちは震え上がるとすれば、ましてや神の御怒りはどれほど恐ろしいものでしょう。誰もそれに耐えることができません。そのときには人々は、岩に向かって、自分の前に倒れ掛かってくれと言います。神の御怒りがあまりにも恐ろしいからです。その激しい御怒りを、イエス・キリストは私たちの身代わりに受けてくださったのです。それで信じる私たちは、御怒りから逃れたのです。助かったのです。そして今や、復活したキリストを信じて、従う者は、神に愛されている神の子どもであり、神に受け入れられ、神が天にあるあらゆる霊的祝福をもって祝福してくださっています。聖霊を与えられて、日々、造り変えられる恵みを与えられています。永遠の苦しみから、永遠の幸い、喜び、祝福へと移してくださいました。

このことのゆえに私たちの心に湧き起こる神への賛美、キリストへの感謝の思い。これが礼拝と奉仕の原動力です。日々、神がキリストによって私たちにして下さったことを思い、神への賛美とキリストへの感謝を絶やさない者でありたいものです。