兄弟が罪を犯したなら (ルカの福音書 17:1-10)
ルカの福音書17章に入ります。前の16章と、この17章はいづれも「弟子たちに」向けての教えです(16:1, 17:1)。16章はクリスチャンのこの世の富に対する態度について教えられました。この17章はクリスチャンの交わりについて、大切な心得を説いているところです。
ただ、そのように、私たち自身がつまずかない信仰者として成熟を目指す一方で、だからといって、つまずく方が悪いとばかりに、周りの兄弟姉妹方のことを構わず、つまずきをまき散らすことも、あってはならないことと、イエス様は厳しく命じました。そのつまずきを引き起こす者自身は、わざわいだとイエス様は仰いました。そして「これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがまし」とまで言われました。「小さい者」当時だと、貧しい人たち、また、初代教会には奴隷たちも多くいました。そういう人たちに対して、そうではない人たちは、ともすると、見下げてしまう、蔑ろにしてしまうことがありました。これが、金持ちや社会的に身分のある人に対してなら、イエス様がわざわざこんな事を言わなくても、気をつける。むしろ、ご機嫌を損なわないように特別待遇をするかもしれない。ヤコブ書には、金持ちが来た時には、どうぞ前の席へと案内し、貧乏人が来た時にはあんたはその辺に立っていなさい、と差別があったことが戒められています(ヤコブ書2:1-4)。クリスチャンになっても抜けきらない人間というものの罪の深さというものを思わされます。ですから、「小さい者」を守るためには、これくらい厳しいことを言っておかないと、いけなかったのでしょう。彼らを守るための、こんな厳しい言葉だったとは、イエス様らしいことでした。
イエス様は、そのような小さな者のためにも、ご自身の尊い血潮を流されたのです。神の御子が高価な代価を払って、彼らを神のものとして買い取ってくださった。また社会的にはどんな身分であれ、神に立ち返って、キリストのもとに来たからには、誰でも、神のかたちに造られ、これから神のかたちを回復する神の子どもです。今はまだ罪の垢がこびりついて、神のかたちを覆い隠していますが、それらが聖霊とみことばによって洗い落とされていくにつれて、それまで隠れていた神のかたちが輝き出てくるのです。神のかたちに造られた人間の尊厳を社会的身分によって軽んじることなど、あってはならないことでした。
さて、次は3-6節。イエス様についていくことをやめさせてしまう罠の一つとして、誰かが罪を犯した場合を取り上げます。その場合に、なすべきことは2つあります。一つは、その罪について戒めること(3節)。そしてもう一つは、悔い改めたら、赦すことです。
罪を戒めないで放っておくことは、それもまたキリストから引き離すことで、滅びに向かわせることです。キリストは罪人を招いて、悔い改めさせるために来られました(ルカ5:2)。悔い改めを拒むということは、キリストを拒むということです。悔い改めを拒んでいながら、キリストだけ頂戴するということはできません。罪の中にとどまるのは滅びの道です。
しかし、赦しには、痛みが伴います。苦しみが伴います。犠牲が伴います。赦すということは、自分がそれらのものを引き受けるということです。やり返さないことです。キリストが、本当は私たちが受けるべき痛み、苦しみ、犠牲を引き受けて、私たちに赦しを与えてくださったことを思って、兄弟にもそのようにすることが求められるのです。つまるところ、自分を十字架につけるということが問われるのだと思います。
使徒たちは信仰を増して下さいと言いましたが、信仰の量とか大きさの問題ではない。からし種ほどで十分。使徒たちは、自分の信仰深さとか、自分の信仰の強さで、不可能を可能にできるかのように思っていたのでしょうが、信仰とは、そのような自分の何かではなく、神に働いて頂くこと。自分の信じる力ではなく、全能なる神に働いて頂くことです。赦すことは、人の力では不可能な場合があります。それは桑の木のように、しっかりと心の深くまで根を張ってしまっていて、人間の力ではビクともしないかもしれません。それは神の力だけがなし得ることです。自分の力でできないことを認めて、そこに、神に働いて頂くよう求め、委ねるのです。それは一晩、徹夜で祈ったらできるというようなことではなくて、少しずつ、かもしれません。信仰には忍耐が必要です。しかし、滴り続ける水滴が岩をも穿つように、天来の聖霊のしずくが固く凝り固まった心をもついには砕くのでしょう。
誤解のないように。これは、ただ信仰、信仰と言って、赦さない気持ちを無理矢理、抑え込むことではありません。感情を抑え込むのではなくて、心から赦せるように、根っこまで丸ごと引き抜いて頂くことです。赦せない感情があるならそれをそのまま、神の御前に申し上げて、自分の力ではなくすことはできませんから、神様、取り去ってください、と正直に祈り、主にお委ねすることです。
ところで、信仰によって神に働いて頂いて、赦しという至難のわざをしたときに、今度はそのことを誇って、高ぶってしまわないように、ということでしょうか。イエス様はちょっと変わったたとえを話されました。7-10節。畑の耕作にしろ、羊のお世話にしろ、しもべが一日中、労働して帰ったときに、主人がそのしもべに対して、何か特別に立派なことをしたかのように感謝はしない。少なくとも当時の常識では。しもべが言いつけられたことをしたからと言って、それに恩を感じる主人はいない。そのように、あなたがたも、兄弟を赦すという至難のわざができたからと言って、高ぶってはいけない。それは、主人が命じたことを行って当然のしもべが、それを行ったに過ぎない。「取るに足りないしもべです」とは、卑屈になれというのではなく、高ぶらないための安全装置として、このように言いなさいというのでしょう。特別なことはしていません、言われたことをやっただけです、と。
イエス様は、どうしてこういうことを仰ったのでしょう。やはり、赦した側に、どうしてもどこかに「俺が赦してやったんだ」みたいな気持ちがあると、そこに目に見えない力関係みたいなものができてしまうから、そんなことにならないように、このたとえを話されたのでしょうか。確かに、人と人との関係だけで考えれば、赦したほうが立場が上ということになりがちでしょう。しかしイエス様は、そういう横の関係でなく、あえて主人としもべの関係、縦の関係に訴えられました。主人としもべという関係で、主人が命じたことに従っただけなのだから、何もおごることはできない。しもべが主人の命令に従うのは、当たり前のこと。どれほど大変な、どれほど困難なことであっても、従って当たり前。だから、その事でおごってはならない。相手に対して優越感を抱いてはならない。 どこまでも、小さい者の側に立って、と言いますか、罪を犯してしまった側が悔い改めた後も見下されることのないよう、彼らがつまずかないよう、彼らを守るために心を砕かれるイエス様でした。
イエス様は、今なお、世界中の多くの者たちによって罪を犯されている側に違いないのに、日々、それらを赦しておられます。クリスチャンたちからさえ、投げかけられる不信、不敬、不従順、冒涜、無視、忘恩、等々。もし私たちが誰かから受けたら、一日と耐えられないようなひどい言葉、思いを浴びながら、なお赦しに赦して、大きな愛をもって私たちを受け入れて下さっています。イエス様の場合は、私たちが気付かずに犯している罪-従って悔い改めることもできていない罪―もすべて、十字架の血潮によって、覆って下さっています。教会は、そのイエス様の赦しが、豊かに備えられている所です。お互いに赦し、赦されて、その赦しの源泉となっておられるキリストがあがめられる所です。そして一人ひとりに、そのキリストのお姿が宿っている所。そうイエス様は願っておられます。