礼拝説教要旨 2026年2月8日

望み得ない時に・・・

ローマ人への手紙4:9-25

<はじめに>

要点を絞ってローマ人への手紙を学び直そうとしたが、先回は、クリスマスということでお休みした。今回は10月に開いた聖書箇所の続きとなる。今更のように、ローマ書の中心主題である、イエス・キリストを信じて罪を赦され、義と認められる救いの恵みは、聖書が一貫して解き明かしている大切な事柄と気づかされる。信仰によって義とされる救いの恵みは、旧約聖書の時代から、変わることなく神の民に注がれていた。アブラハムにもダビデにも、そしてユダヤ人と異邦人の区別もなく、神を信じる全ての人に分け隔てなくもたらされる恵みである。「信仰の父アブラハム」と多くのユダヤ人たちに慕われ、その信仰に倣いたいと人々から尊ばれたアブラハムは、決して行いにはよらず、キリストを通して神を信じる全ての人にとっての「信仰の父」なのだ、とパウロは気づいた。そして、そのアブラハムの信仰について、それがどのようなものかを解き明かす。アブラハムはどのように神を信じていたのか・・・と。

<1、アブラハムの信仰>

9節以下、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言うことについて、それは割礼を受ける前のことであったと明言し、忘れてならないのは、「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」ことにあると確認している。その上で16節となる。「そのようなわけで、すべては信仰によるのです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父なのです。」パウロは、アブラハムの信仰を理解するカギとして、彼がどのような状況の中で神を信じたかを解き明かす。アブラハムは、神を「死者を生かし、無いものを有るものとして召される方」と信じた、と。(17節)死者を生かす神、無いものを有るものとして召される神、どちらの視点も、神は、真に途方もないことを実現させる方であるとの断言である。その途方もないことは、死者をよみがえらせることであり、アブラハムも確かに死者の復活を信じていたと明言する。(※口語訳「無から有を呼び出される神」:創造者である神のことと理解できるが、まだ存在しない子孫が既に存在するものと約束された神のこと、全能の神、そして死者を生かす神を強調していると理解できる。)
神の約束は、「あなたを大いなる国民とし、・・・あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」であった(創世記12:2、7)。更に「あなたの子孫はこのようになる」(15:5)、「あなたは多くの国民の父となる」であったが(17:4)、アブラハムに子どもはなく、妻サラは不妊のまま時が過ぎ、二人とも老人となっていた。もはや常識では神の約束を期待できず、信じることさえ困難であった。けれども彼は神を信じた。「彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ」と言われている通り、「およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。」彼は確かに死者を生かす神を信じていた。すなわち復活信仰に行きていたということになる、とパウロは説いている。(18~19節)

<2、望み得ない時に望みを抱いて>

パウロは言葉を続けた。「不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。だからこそ、『彼には、それが義と認められた』のです。」(20~21節)アブラハムの信仰は、真に模範的で申し分ないかのようであるが、実際は、激しく揺れ動いていたに違いなかった。約束を「信じた」けれども、神の約束の実現には、自分の考えや行動、決断が大いに関わる余地があると思ったようである。妻の不妊という現実が常に目の前にあり、このままでは神に任せ切れず、何とかせざるを得ない、と追い詰めていた。それは信仰の戦いと言うべきものである。
アブラハムとサラは、養子を迎えることや、つかえめのハガルによって子を得ることなど、あれこれ手だてを講じた事実がある。信仰に加えて理性や常識を働かせたわけである。これこそ良い解決策とばかりに。決して「かえって信仰が強められて」いたのではなかった。彼の信仰は激しく動揺していたと思われる。動揺しなかったのは神ご自身であった。あくまでも約束を貫かれ、アブラハムには神を信じる信仰だけを要求され、神のみ力を信じるよう迫られた。それで彼は自分たちでは決して「望み得ない時に望みを抱いて信じ」たのである。絶望しかない時に、その絶望のどん底で光を見る信仰を神に対して抱いた。信仰と常識の調和を図るのではなく、信仰によって立つことをアブラハムは求められ、彼はその信仰に立ったのである。(22節)

<3、キリストの復活を信じる信仰>

信仰そのものは、決して強いとか弱いとかを問うべきものではない。神を信じる「信仰によって」強くされるか、神を「信じない」ので弱いか、そのどちらかである。自分とサラの身体が死んだも同然である時に、なおも望みを抱いて神を信じたアブラハムの信仰は、死者を生かす神を信じる信仰であり、イエス・キリストのよみがえりを信じる復活の信仰に通じる。やがてイサクを捧げるように命じられた時も同様である。キリストの復活を信じることに、人間の理性や常識は一切介入することはできない。それほどに「復活」は躓きである。しかし信じたなら、その信仰は測り知れない力を発揮する。その信仰によって義とされ、神が信じる者を立たせて下さるのである。(23~25節)

神を信じて義とされ、神の祝福に与る救いの道は、アブラハムにおいてもしかり、そしてイエス・キリストを信じる者においてもしかりである。どちらもただただ神を信じ、神に期待し、神の約束にこそ拠り頼む信仰がカギとなる。自分自身と自分の置かれている状況には全く頼ることはできず、絶望以外に有り得ないところで、神に望みを見出す信仰、そのような信仰がアブラハムの信仰である。また主イエス・キリストの復活を信じる信仰である。生ける神を仰ぐ時に確かな希望が見出され、その望みによって人は真に生きる者となる。

<結び>

アブラハムの信仰に倣うにあたり、それは「望み得ない時に望みを抱いて信じる信仰」と教えられる。究極的には、キリストの復活を信じる信仰そのものに通じる。その信仰に関して、強弱は問題とはならない。この信仰があれば絶望しないのではない。強い信仰によって苦難に立ち向かえるのでもない。反対に信仰が弱いから動揺するのでもない。この信仰は、絶望のどん底で希望の光を見る信仰である。神への信仰だけが人に希望をもたらす。罪からの救い、復活の希望が、絶望からの唯一の確かな救いである。私たちは、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」と告白する、その信仰を堅くさせていただきたい。「望み得ない時に望みを抱いて信じる信仰」である。人生にどんな絶望が襲っても、光を見、望みに生きられる信仰である。神を信じ、キリストの復活を信じて生きる者は絶望しないのではなく。絶望しても、なお望みを神に抱くことができるのである。何と幸いで力強いことであろうか。一人一人の日々の歩み、そして教会の歩みにおいて、確かな証しが導かれるよう祈りたい!