前回は、お金の好きなパリサイ人たちが、イエス様が教えをあざ笑ったところでした。その、かれらがあざわらったイエス様の教えとは、この世を去ったあとの、永遠の世界での生活のために、備えをしておきなさい、というものでした。それは与えられている富を、自分のためばかりに浪費するのでなく、隣人愛のために用いなさいということでした。それが、死後、来るべき世に対する備えになると。しかし、そんな、死後のことなど、まともに聞こうとせずにあざ笑っていたのがパリサイ人たちでした。そんな彼らのために、イエス様が、死後に人々が行く世界での一場面を教えておられるのが今日の個所です。
この箇所の構成は、ご覧の通り22節を境に、場面が大きく二つに分かれていて、前半は地上の場面、後半は地上を去った後の場面になっています。
まずは19-21節。生前の対照的な二人の姿が描写されます。金持ちは、王族が着るような「紫の衣」や高価な「柔らかい亜麻布」に身を包み、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。きっと彼のテーブルには、世界中の山海の珍味が、金や銀の器に盛られて、並べられていたのでしょう。なかなか手に入らないような高価なお酒も、金や銀の杯に注がれて。歌や踊りの楽団をはべらせ、来る日も来る日も、ただぜいたくに遊び暮らしていました。他方、それとは対照的に、やせこけた、全身できものだらけの貧しい男が、その金持ちの家の門前で寝ていました。衰弱して、起きていることもできなかったのでしょう。名をラザロと言いました。ラザロとは「神、助けたもう」の意。悪意の人は、彼を指さして、神は全然、助けないではないか、と悪態をついたでしょう。彼は、金持ちの家のテーブルからこぼれ落ちる物ででも、お腹を満たしたいほどでした。仲間だとでも思ったか、犬までやってきては、彼のおできをなめていたというのも、ますます憐れを誘います。イスラエルの夜は冷えます。骨と皮だけになった身をまるめて、寒さに凍えながら、ひもじい思いで長い夜を過ごさなければならない。そんな日々が続いたのでしょう。この金持ちが、ラザロをしもべの一人にでも雇ってあげればと思いますが、彼は人の苦しみ、痛みにまったく無関心でした。
そして二人とも、地上では最後までそのままで生涯を閉じました。ラザロは地上では報われることなく、悪意の人は、神は助けなかったな、などと言ったでしょうか。しかし、その直後からです。神の助けが彼に臨んだのは。神は彼のために御使いを遣わして、ラザロの魂は神の御使いにエスコートされて「アブラハムの懐」に連れて行かれました。旧約聖書の偉大な信仰の父祖、義人アブラハムのいるところで、そこは安息を受ける場であり、神から良きものを与えられる場所と思われます。父祖アブラハム、イサク、ヤコブとともに天の御国で食卓に着くことは、イスラエル人の望みでしたが、ラザロは、その、イスラエル人のあこがれの場所に迎えられました。「御使いに連れて行かれた」とあるのは、ちょっと安心します。死んだあと、どこにどういったらいいか、わからなくて、そのへんウロウロ迷ってたらどうしよう、と心配する必要がありません。イエス様を信じている人の所には、ちゃんと御使いがお迎えに来てくれて、イエス様の所に連れていってくれます。
他方、金持ちも死にました。地上では、さぞかし豪勢な葬式をされたことでしょう。キンキンキラキンのピッカピカの金や銀をあつらえた棺に入れられたかもしれません。泣き女と言われる職業的な泣き女たちもいっぱい雇ったでしょうか。しかし死んだあとの、魂の抜け殻をどんな立派な棺に入れても、どれほど大々的に葬式をしても、死んだ人の魂に対しては何の意味もありません。肝心の彼の魂はどこへ行ったか。よみの、熱い熱い炎が燃え盛り、身を焦がす場所でした。
そんな中で、この金持ちは、アブラハムの近くにラザロが見えたのを幸い、ラザロを遣わして、指先を水に浸して、自分の舌を冷やさせてくださいと願い出ます。どこまでも自己中。それこそ、生前、ラザロをしもべの一人にでも雇っていたのなら、まだ理解できますが。ラザロの人格を認めていないかのようです。当然、そんな虫のいい願いは、却下されます。25節、アブラハムは「子よ」と呼び掛けて、諭してくれます。「子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。」生前の不公平は、死後に清算される。これもある意味、大きな慰めになります。世の中で不条理な苦しみを受けて、そのまま世を去っていった兄弟姉妹がた、世界中に大勢おられるでしょう。また悪いことをしたまま、この世でばれずに、おもしろおかしくやり過ごした者もいるでしょう。しかし、それぞれに報いが与えられる。金持ち男の受けている苦しみは、不条理な苦しみなのではなくて、正当な苦しみであって逃れることができないものです。
注意すべきは、この金持ちは、何か特別に大きな犯罪を犯したと言うわけではないということ。人殺しとか、そういうことをしたわけではなくて、与えられている富をもって、毎日ぜいたくに遊び暮らすばかりで、目の前の憐れなラザロに対して憐れみの心を閉ざしたということです。その冷たい心、自己中心のあり方がさばかれるのです。
そして26節。アブラハムは、ラザロを遣わすことのできない理由を告げます。「そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。」よみに行ってから、アブラハムのいるところと、金持ちのいる火の苦しみの場所との間で、行き来はできない。天国に行った知り合いに助けてもらうこともできない。地上にいる間にどう生きたかによって、死後の永遠の状態が決定してしまうのであって、死んでからはいかなる変更もできないということです。キッチリと、その罪に対する刑罰を、少しの妥協もなく、あわれみもなく、受けなければならない。天国に行くためには、生きているうちに、そのために必要なことをしなければなりません。息を引き取った時点で、その後の永遠の運命は確定するのです。彼は生きているうちに、その生き方を悔い改めなければいけませんでした。
それで、くだんの金持ちは、自分に関しては観念したようです。それで今度は、せめて自分の兄弟たちのところにラザロを送って、今、あなたの兄弟は、よみで、これこれこういうことになっていると、伝えさせてくれと言います。そうすれば、彼らは心を入れ替えて、こんな苦しい場所に来なくて済むから、と。またもや、ラザロを自分のしもべか何かのように使いっ走りにしようとして、まったくもって身勝手な男です。しかし、こんな身勝手な男でも、自分の肉親のことは気になったのです。自分はもう仕方がないけれども、せめてまだ生きている家族だけでも、こんな目に遭わないようにと願ったのです。先に亡くなった家族が、クリスチャンでなかった場合も、このように、せめてあとに残っている家族だけでも、自分のような苦しい目にあわせたくない、どうか神を信じ、キリストを信じて欲しい、と願っているのかもしれません。
この金持ち男は、自分はこうなると知っていたら、違った生き方をしていたのに、とでも言わんばかりです。しかしそれは、とんでもないいいがかりです。神は、ちゃんと前もって、聖書の御言葉によって教えていました。アブラハムは「彼らには、モーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい。」(29節)と言いました。「モーセと預言者」とは、当時の聖書のことです。聖書にちゃんと書いてあります。貧しい者を顧みるように、と。貧しい者に施しをするのは、神に貸すことだ、とさえ、言われているのです。詩篇112:9には「 彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠に堅く立ち 彼の角は栄光のうちに高く上げられる。」とあります。箴言14:31には「弱い者を虐げる者は自分の造り主をそしり、貧しい者をあわれむ者は造り主を敬う。」同28:27「 貧しい者に施す者は不足することがなく、目をそらす者は多くののろいを受ける。」ともあります。聖書にすべて書いてある。それを神の言葉として、真理の言葉として受け取るか、それともあざ笑うか。人は、信じたくないものは信じない。意地でも信じない…。
しかしこの金持ち男は、思い込みの強い男と見えて、アブラハムの言葉をさえも、いいえ、違います、と押しのけます。もし誰かが死者の中から生き返って、これこれこうだと言ったら、彼らは悔い改めるに違いないと言います。果たしてそうなのでしょうか。アブラハムの答えは違いました。31節「アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」誰かが生き返って、死後の世界はこれこれこうだったと言っても、彼らは聞き入れない。実際、マルタとマリヤの兄弟ラザロ(このラザロは別人)をイエス様が生き返らせたときに、パリサイ人たちはどうしたか。人々が彼のゆえにますますイエス様に従っていきそうなのを見て、彼を殺そうとしたとヨハネ伝に書いてあります。信じるどころではなかった。キリストが死者の中から復活した時も、パリサイ人たちはどうしたでしょう。むしろ墓の番をしていた番兵たちに金を握らせて、弟子たちがイエス様のからだを持っていったとデマを流させた。死者の中からよみがえっても、人々はその言うことを聞きませんでした。
ラザロがアブラハムの懐に迎えられたのは、ラザロが貧しいという功績(?)のゆえではありません。その名が表わしているように「神、助けたもう」という、神に望みを置く信仰のゆえでしょう。
私たちが天の御国に入れられるのも、信仰によることです。それは神に対する悔い改めと、キリストを信じることによってです。悔い改めとは、神に立ち返り、これからは神の御前に生きようと決心すること。より具体的には、神のみことば(聖書)に従って生きるということです。キリストを信じるとは、キリストが、自分の罪を身代わりに背負ってくださって、神の刑罰を受けて下さったと信じること。それによって、罪が赦され、私たちは神に受け入れられます。神に受け入れられると、聖霊を与えられます。そして聖霊が私たちの頑なな心を造り変えて、自己中心から解放し、キリストに似た者へと徐々に近づけて下さいます。金持ちでもそうでなくても、大切なのは、隣人愛を実践する歩みをすることです。尽きることのない赦しを与えられている中で、トライ・アンド・エラーしながら、あくまでその歩みを続けることです。ガラテヤ5:6
最後に、ガラテヤ6:7-9のみことばを読みます。