前回は、この世の富を隣人愛のために用いなさい、それが来たるべき世に向けてのあなた自身のための備えとなるのですから、と教えられました。それは、施しなり寄付なりがその人の功績になるという意味ではなく、その人が富の奴隷にならずに、神の心をわが心として、神のみこころに従って富を用いることができるという、その神への忠実な心が価値のあるものなのだろうと思います。神の国とは、神のみこころが支配するところですから。それで、前回のまとめは最後13節「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」と結ばれました。神の心をわが心とする、良き神のしもべであれ、と奮起を促されました。
そんなイエス様のお話をちょっと離れたところで、「金銭を好むパリサイ人」(14節)が聞いたと言います。パリサイ人の中には、まじめに神を求め、永遠のいのちを求めて励んでいた人もいれば、パリサイ人は社会的地位があり、実入りも良かったのでしょうか、それがよくてパリサイ人になった人もいたようです。そのお金の好きなパリサイ人たちが、このお話を聞いて、イエス様をあざ笑ったと言うのです。あざ笑うという反応、不思議です。心を刺されたというのならわかりますが。人は本能的に自分にとって好ましくないことと感じると、怒るか、それをあざ笑うという反応をするそうです。あざ笑うことによって、それは相手にする価値がないとして、自分を守ろうとするのでしょうか。カルヴァンは、「富に執着する者は、天の知恵を『価値のないつまらないもの』として退けるようになる」と警告しています。彼らも悔い改める代わりに、あざ笑って、退けたのでした。私たちも、神から真理を示されたときに、あざ笑うのでなく、素直に、謙虚に悔い改める者でありましょう。
イエス様は、そんなあざ笑う彼らに言われました。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。」彼らは、行いにおいては、普通の人がまねができないくらい熱心に律法や戒めを守っていました。普通の人が覚えることすらできないほど、たくさんあった細かい戒め、儀式も落ち度なく行っていました。週に二度の断食もしました。施しだってしていました。お金の好きな彼らも。ただし、すべて人に見せるため、です(マタイ6章)。パリサイ人としての評判のため、人からすごいと言われ、気分良くなるためです。パフォーマンスです。しかし、神は人の心を、裏から表まですっかりお見通しです。ちょっと、考えてみてください。今、この瞬間も、神は私たちの心を手に取るようにすっかりご存じです。ちょっと恐れを感じるのではないでしょうか。それが正しいことです。しかし彼らはこの現実に気づいていない。ふたをしている。神がどう思われるか、ということには無頓着なのです。そんなことは頭にないのです。ハッキリ言って、どうでもいいことなのです。私たちはどうでしょうか。そんなことになっていないでしょうか。彼らにとっては、人からどう思われるか、人の目にどう見られるかがすべて。だから、彼らが神のためにと言って神妙な顔をしてやっていることも、お芝居でしかないのですから、人はほめても、心をご覧になる神には、それは偽善として忌み嫌われます(15節)。カルヴァンは、彼らは「神の法廷」ではなく「人の法廷」で勝つことばかりを考えていたと指摘します。
しかし、それを見て、パリサイ人たちはイエス様のことを、律法を打ち壊す不届き者だと非難していました。あんな連中が、律法を守れないどころか、知りもしない奴らが、神の国に入れるなどと、律法を何だと思っているのか!と。しかし、それはとんでもない誤解でした。イエス様は17節で、律法が書かれている文字の一画が落ちるよりも、天地が滅びる方が易しいといいました。律法は細部に至るまで1ミリの欠けもなく、妥協もなく、完全に満たされなければならないということです。律法の基準を低くして、あるいは律法をとっぱらって、誰でもが神の国に入れるようにしたのではない。神の国に入る基準は変わらない。律法を完全にチリほどの欠けもなく守った者だけが、神に受け入れられる。心の中を手に取るようにご存じの神の前に、完璧にきよく、正しい心でいる者だけが。これを100mハードル競争に例えた人がいました。走る距離が100mでなく、ハードルの高さが100mの競争です。これは神の義の高さをあらわすハードルです。これは完全にお手上げです。律法を完全に守るというのは、私たち罪びとにとってはそれくらい不可能なことです。パリサイ人たちは、せいぜい1mくらいの、自作のハードルを飛んで、自分たちはできている、と言っているに過ぎません。それは神には通用しません。神の義という、この100mハードルをクリアして完走した者だけが、神の国に入ることができるのです。今の私たちにとっては、神の国に入るとは、霊的な意味で、神のご支配の中に受け入れられることですが、もっと簡単に神に受け入れられることとしておいてもいいでしょう。ともかく、神に受け入れられるためには、100mの神の義のハードルを越えなければいけません。どうしたらいいのでしょう。神はそんな私たちのために、御子キリストを世にお遣わし下さいました。キリストが私たちのために、その走路を走り切ってくださいました。そして、その完走証明書・合格証を、信じる者には誰にでも、ただで、与えてくださいました。キリストの完全な義を、信じる私たちにただで、まったくの恵みとして、与えてくださいました。それで、キリストのもとに来た者は、誰でも神に受け入れて頂けました。
主がここで「律法の一画が落ちることもない」と強調されたのは、私たちの救いがいい加減な妥協の上に成り立っているのではないことを示すためでもあったでしょうか。神は律法を曲げて私たちを救われたのではありません。キリストが、この一画も落ちることのない厳格な律法の要求を、一歩も引かずに私たちの身代わりとして完璧に果たしてくださった。だからこそ、このキリストを信じる者に与えられる義もまた、確かなものなのです。
そして続く18節は、むしろ、当時パリサイ人たちが、いかに人間の都合にあわせて、妥協して律法を解釈していたかを示す例として挙げられたものです。旧約聖書の申命記24:1-4(旧約pp.356-357)に、夫が妻を離縁する場合、離縁状を渡して去らせなさいと書かれています。イエス様の当時、女性の立場はとても低かったので、パリサイ派のある人々は、夫が妻に対して何か気に入らないことがあった場合(たとえば、料理を焦がしてしまったとか)、離縁状を渡せばそれで認められるとしていました。つまり、夫が他に好きな女性ができたら、適当に難癖をつけていくらでも去らせることができたのです。そのような場合、ただ口頭で追い出すだけだと、あとから気が変わってまた勝手なことを言い出しかねない。しかし、正式な離縁状があれば、突っぱねることもできるし、他の人と再婚することもできました。それで、そんなトラブルを防ぐために、正式な文書を渡す義務が課せられたのです。ですから、この申命記の規定は、人の罪ゆえに起きてしまった事態において、弱い立場の人を守るために、混乱を最低限に抑えるために、定められたものです。ところがパリサイ人たちは、それを、いかに合法的に妻を捨てるか、という免罪符に変えてしまっていたのです。それは、神のみこころに反して、自分たちの欲望に仕える姿にほかなりません。
イエス様は、外見上の手続きがどうあれ、神の本来の基準-一画も落ちない律法-に照らせば、それは姦淫の罪だと喝破されました。本来、神が定めた結婚は、神が結び合わせたもので、二人は一心同体となるというものでした。もちろん、真にやむを得ない理由も認められています。が、そうでない限りは、片方が地上を去るまで、互いに生涯かけて、誠実にそのきずなを育むべきものでした。病めるときも健やかなるときも、と。それを、飽きたから、もっといいのが見つかったから、などといった理由で、とっかえひっかえするのは、姦淫の罪にほかならないと、イエス様は断罪されたのです。大切なのは、神が喜ばれるのは、心の真実さ、誠実さです。
こうして、神の律法が求めている本来の「高さ」を示して、彼らの方こそがいかにいい加減に、律法の要求を低く引き下げていたか示されました。その彼らの基準では、とうてい神に受け入れられないと教えられました。それは、彼らから、何の役にも立たない、むなしい誇りを取り除き、ただ恵みによって救われるためにキリストのもとへと導くためでした。
神は心をご存じです。そのことを思うとき、パリサイ人だけでなく、私たちもまた、罪深さ、汚れを、不真実さを認めなければいけないのかもしれません。身近な人を愛そうと思っても、反対のことをやってしまったり、自分の心の内から汚れた思い、むさぼりという偶像を慕う思いが出てきてしまうこともあるかもしれません。神は、私たちの心をご覧になり、私たちの隠れた罪も、すべてご存じです。しかし、神はそれを見て私たちを突き放すのではなく、「だからこそ、キリストのもとに来なさい」と招いておられます。
キリストにあって、神の赦しは、七の七十倍以上に用意されています。自分の力では変えることのできない心の深いところも、神の御霊によって、新しくして頂けます。私たちの望みは、ただ主にかかっています。ですから、心をご覧になる神の御前に、何度でも悔い改めて、聖霊が私たちの心を造り変えて下さるように願い、信じましょう。心を神のご愛で占領していただけますように祈りましょう。そして、心をご覧になる神に喜ばれる霊の実を、小さな小さな実であっても、一つでも二つでも結ばせて頂けますように願いたいと思います。律法は一画も落ちません。しかし、その律法の要求をすべて満たされたキリストの恵みもまた、一画の漏れもなく私たちを覆っています。