神にも富にも (ルカの福音書 16:1-13)
子供のころ、お正月に親や親戚からお年玉をもらうのがうれしいものでした。いとこも割と多かったので、親にとっては大変だったと思いますが、こちらは親戚が多いというのはいいもんだな、などと子供心に思ったものでした。お金が増えることに、いやな気がする人はいないと思いますが、今日のところは、増えた減ったということよりも、どう使ったか、どう用いるかのほうが、実は大切なこと、ため込むことよりも、使うことの方に意を用いるのが、クリスチャンらしいことではなかったか、と教えられるところです。「受けるよりも与えるほうが幸いです」ともイエス様は言われました。
前の15章でイエス様は、取税人や罪人、それにパリサイ人、律法学者たちに対して、天の父は、失われていた魂を取り戻したときに、どれほど喜ばれるか、話されましたが、今日の個所は、弟子たちに対して(1節)、今度は神のもとに立ち返った人は、その神の愛を受けて、どういう心をもって、この地上の日々を歩むべきか、その心得を教えています。
最初に、構成は1-8節の「不正な管理人のたとえ」は導入、9-13節が本論と考えるとわかりやすいかと思います。前半のたとえは、イエス様のたとえの中でも最も難しいものの一つとされます。不正を働いた管理人が、主人に「賢い」とほめられるからです。しかし、結論から先にいうと、イエス様がここで教えているのは、不正の推奨ではなく、「来るべき事態に対して賢く行動しなさい」ということです。そして賢く行動するとは9節以下、世の富を神のため、隣人愛のために惜しまずに用いるということです。
本文を見ていきましょう。1節「ある金持ち」はガリラヤ地方によくいた不在地主。「管理人」は財産管理を委託された人で、主人の代理人としての権限を持っていました。ところがこの管理人は、主人の財産を無駄遣いしているという訴えがなされた。「無駄遣い」と訳された語は、前回の放蕩息子のたとえで「湯水のように使う」と訳されたの同じ語(15:13)。主人は即座に解雇を決め、会計報告を出すよう言い渡しました。クビ確定となった管理人は、ああ困った、どうしよう、と考えます。他の仕事をしようにも、できそうにない。それで知恵を絞って一計を案じました。主人に借りのある債務者を一人ずつ、呼んで、油100バテ(4,000ℓ)の借りのある人には、その証文を渡して、50バテに書き換えなさいと言い、別の人には小麦100コル(40,000ℓ)とあるのを80コルに書き換えなさいと言いました。注解書によると、油50パテと小麦20コルは、ほぼ同額で500デナリ(日雇い労働者の500日分の賃金)と言います。かなりな額です。こうして大金を免除して、恩を売っておいて、あとで自分が管理の職を追われた時に、その相手のところにやっかいになろうという寸法でした。主人から預かったものを乱費した上に、今度は債務証書まで勝手に書き替えさせるとは、言語道断!と普通は思うところです。
ところが、このたとえの主人は底抜けのお人好しというのか、鷹揚(おうよう)というのか。「ほほう、なかなかやるのう、あっぱれ、あっぱれ!」とでも言うかのように、管理人が賢く行動したことをほめたというのです。8節「主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた。この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。」この主人は、ほめるところを探す名人なんでしょうか。あら探しの達人もいれば、逆に良いところを見つけてその人を活かすことにかけての名人もいます。ここの「自分と同じ時代の人々の扱いについては」と訳されたところは、第三版は単に「自分たちの世のことについては」です。この世の子ら、神も天国も無縁のこの世がすべてと思っている、この世に属する人々は、必死で真剣で、この世での生活のことを考え、行動する。この管理人も、このままでは住む所を追われて、路頭に迷うという事態に際して、必死で頭を絞って、生き延びる策を考え出しました。それに比べたら、光の子ら(信仰者たち)は、永遠の運命のことについて、実にのんきではないか、というのです。要するに、ここで言われていることは、この世の人々が自分の将来の不安に対して対処する態度と、光の子らが自分の永遠の運命について備えることとを比べたら、この世の人たちの方がはるかに真剣に考え、行動している。クリスチャンは、永遠の世界を信じているはずなのに、ほとんど意に介さず、のんきすぎるというのです。
現代も、将来の必要のために、○○資金として、定期預金や投資信託など、利回りが0.1%でも有利なものを探して活用するでしょう。元手、期間、利回りの積が最大化するように研究するでしょう。それが悪いというのでなく、それはそれで神から預かっているものを有効に管理し、増やすのはよいことです。ただ、私たちが地上の生活のために真剣に考え、行動するのなら、死後に続く永遠のために、どれほど考え、行動しているでしょうか。
それでイエス様は続けて、私たちに天に宝を積むようにと促します。もちろん、私たちが永遠の御国に行った後のことを考えての親心です。9節「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」ここで「不正の富」あるいは「不義の富」とも訳せますが、これは、悪いことをして儲けて、施しをしなさいというのではありません。注解書によると、この表現は「この世の富」という意味のようです。一説には、富は人に偽りの安全保障を与え、神への依存を忘れさせる性質を持つもので、この「人を欺く力」のゆえに不正の、あるいは不義の富と言われていると言います。富そのものは中立であるにしても、これを偶像にしてしまう人間の弱さに対して、くさびを打つように「不正の」という枕詞をつけてくださったのかもしれません(参考 第一テモテ6:9-10)。
この世の富を用いて自分のために友を作りなさいとは、施し、寄付、義援金、その他、隣人愛のわざに使いなさいということ。そうしておけば、「富がなくなったとき」これは、地上の富、この世のありさまが霧のように消え去るとき、最後のさばきのときのことでしょう。そのときに「彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」もちろん、私たちが救われるのは、イエス・キリストに対する信仰のみによります。悔い改めて、キリストを信じることなしには、いくら施しをしても天国に迎えられることはありません。ここはお金で永遠のいのちが買えるかのような、免罪符のようなことを教えているのではありません。ここと似たような表現は時々、聖書に出てきて(11:31,32等)、彼らの存在が、施しをした人の隣人愛のわざの証人となって、その人が天に迎えられるということです。行いの伴わない信仰は死んだ信仰と言われます(ヤコブ2:17,26)。マタイ25章には、世の終わりの審判のときに、すべての人がキリストの御前に集められ、左右に分けられるとあります。そして右に分けられた人たちは、「世界の基が据えられた時から、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」と言われました。これらの隣人愛のわざが功績として、天の御国に入れられるのでなく、その信仰が行いの伴った、生きた信仰だった、本物の信仰だったことが、その隣人愛のわざによって証しされるということです。ですからここでも、隣人愛のわざを受けた人々の存在によって、その人の信仰が真実であることが証されて、永遠の住まいに迎えられるということです。
19世紀の英国や米国の敬虔な実業家たちのエピソード。彼らは巨額の富を築きましたが、それを贅沢に使わず、宣教団体や神学校、あるいは貧困層の救済に投じました。ある実業家は、自分の死後、天国へ行った時に「あなたが送ってくれた宣教師を通じて私は救われました」と見知らぬ人々から声をかけられることを最大の報酬と考えていました。「不正の富で友を作る」地上の生涯を終え、この世の富が価値を失うその時、人がその富を用いて助けた人々が、天の門でその人を『兄弟よ、姉妹よ、よく来た』と迎えてくれる。それこそが、富を神としてではなく、道具として神のみこころに従って、用いた人の報いです。
続けて10-12節は、忠実さという点から、同じようにこの世の富を正しく用いることの大切さが語られます。10節「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。」11節「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。」10節の「最も小さいこと」は、次の11節で「不正の富」と言い換えられていて、この世の富のこと。それを忠実に扱うとは、この文脈に即して理解すると、ただ無駄遣いしないとか管理をキチンとしているとかいうこと以上に、施しや愛のわざのために積極的に用いることでしょう。神の目に忠実な管理人とは、そのような人のことです。それが、神の心をわが心として、神の御心に従って用いるということですから。そして10節「大きい事」は11節で「まことの富」と言い換えられていて、これは永遠の御国で与えられるもののこと、永遠の嗣業のことと思われます。12節も同じ趣旨。「また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。」「他人のもの」は、この世の富のこと。このかりそめの世で預かっているに過ぎない、この世を去る時には置いていかなければならないもの。いわば、一時的な借りものに過ぎないものということでしょうか。対して「あなたがた自身のもの」とは、いつまでも自分のものとして永遠の御国で与えられるもの、永遠の嗣業のことでしょう。そこでは、永遠の嗣業を神のみこころに従って管理する喜びがあるのでしょう。地上の富は、私たちが将来、神の国で真の富を任せられるにふさわしいかどうかを測る試金石の意味があるのでしょう。
最後、結論部分。13節「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」神と富と両方に仕えてはいけません、ではなく、仕えることはできない、です。人間の心というのは、そういうふうには造られていない。心から忠誠を尽くしてお仕えする相手はひとりだけ。神に愛されているあなたがた、御子をさえ下さったほどに御父に愛されているあなたがた、御子の尊い血によって買い取られたあなたがたは、ただ神にのみお仕えする者のはずではなかったか?と問われます。
ええ、もちろん、ちゃんと神に仕えていますよ、こうしてちゃんと日曜日には礼拝に来ているし、奉仕だってしているし、祈ってるし、と答えたくなります。確かに神に仕える気持ちはある。けれども、富にも仕えたい気持ちもあって、できれば両方に仕えていけたら一番いいな、なんて思っていなかったか。しかし、イエス様は仰るのです。しもべは、二人の主人に仕えることはできません、と。富に限りません。神から委ねられているものを、湯水のように使う、無駄遣いしていたら、神の前に報告するとき、青くなるでしょう。神の御心を行うようにと預けられているすべてのもの、時間、賜物、からだ、富、いのち。神の心をわが心として、神の御心に従って、用いる者でありたいとあこがれさせられます。最後に使徒パウロが弟子のテモテに書いた手紙から。第一テモテ6:17-19。