神の喜び (ルカの福音書 15:1-10)
「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。」(1節)イエス様のお話は、罪人たちが聞きたいと思うようなお話でした。「取税人」は当時ユダヤを支配していたローマ帝国から委託されて、同胞から税を取り立てる人。もちろんその役割自体は悪いことではありません。ただローマの権力を笠に着て、決められたもの以上を取り立てて、自分の懐にため込んでいたのです(3:12-13)。そういううまみがなければ、誰も同胞から憎まれるこんな役をしませんから、ローマ側は見て見ぬふりです。多くのユダヤ人たちは、異邦人ローマの支配から自分たちを救い出してくれる救い主を待ち望んでいたのに、そのにっくきローマの手先となって同胞から奪い取り、私腹を肥やすのですから、彼らは信仰を捨てた者、神に呪われた者と見なされ、そのように扱われていました。ここで「取税人や罪人」といっしょくたに並べられているように、取税人は罪人と同類と見なされていました。どんな事情で取税人になったのか、最初は自分で選んでその道を行ったのか、わかりませんが、心の奥深くには満たされないもの、心の痛み、苦しみ、そして恐れがあったでしょう。また、ここの「罪人」とは、やむを得ない事情で心ならずも遊女に身を落とした不憫な女性でしょうか。しかし、どんな事情があったとしても、世間は彼らを冷たい目で見、さげすみます。決して温かく受け入れてはくれません。そんな彼ら、彼女らが、イエス様の話を聞きたいと、彼らの方からみもとに寄ってくるのです。なぜでしょう?
イエス様は基本的に、悔い改めを宣べ伝えます。それなしに神の国へは入れませんから。悔い改めとは、第一に、神に立ち返ることです。神に背を向けていたのを、グルリと心の向きを変えて、神の方を向いて、神を仰いで生きる決心をすることです。この悔い改めを、イエス様は、パリサイ人たちのように、自分を義しいと自認する者には厳しく彼らの罪を指摘します。が、ここの人びとのように、言われなくても自分の罪や汚れを嫌というほどわかっている人たちには、やさしく、励ましながら、悔い改めて、神の国に入るように諭されたのだと思います。彼らは、ただ神の恵みのみ、あわれみのみに望みを置くしかないとわかっている人たちです。本当は誰でもそうなのですが。その恵みとあわれみこそ、イエス様が与えようとしておられるものです。自分なんか、今さら…とあきらめていた彼らには、大丈夫、悔い改めるなら、神はあなたを迎え入れてくださり、あなたは神の国に入ることができるのですよ、と希望を与えられたと思います。彼らはその希望にひかれて、イエス様のもとに集まって来ていたのでしょう。今日のイエス様のお話も、まさにそのようなお話です。
ところで、そんな光景を忌々しげに見てつぶやく人々がいました。パリサイ人、律法学者といった自他ともに認めるキンキラキンのエリート宗教家たちでした。自分のきよさということには、やたらと神経質な彼らは、罪人が百メートル離れていてもその風下には立たないと言っていた人たちです。我が輩のきよいきよい体に、あいつらの汚れがうつったら大変と、そういう発想がしみこんでいた人たちでした。そんな彼らからしたら、イエス様が罪人を受け入れて、一緒に食事までしているのは、考えられないこと、汚らわしいことでした。食事を一緒にするとは、親しい交わりを持つことを表します。心から受け入れているのです。パリサイ人の発想からすれば、このような罪人たちは排除一択なのに。イエス様のしていることは、彼らの常識と正反対なのです。それでイエス様は、彼らに、そしてまた一緒にいた取税人や罪人たちに、天の父なる神のみこころを教えられました。この15章でイエス様は三つのたとえを話されましたが、今日は最初の二つを読みます。
まずは3-7節、一匹の迷える羊を探しに行く羊飼いのたとえ。野に残された99匹はどうなるんだ?と気になる人もいるかもしれませんが、そちらは雇い人に任せたのだろうと思われます。羊の持ち主は自分の大切な羊なので、必死で捜します。当時、羊は家族のように大切にされていたと言います。羊の一匹一匹に名前を付けて、名前で呼んでいたと言います。持ち主はそのいなくなった羊の名前を呼んで、あちこちと捜して歩いたのでしょう。数字上は百分の一ですが、単なる数の問題ではありません。絶対に失いたくない一匹なのです。大切な、愛する一匹です。日本でも昔は大家族でしたが、その中の一人、いなくなったとしたら、やはりほかの子どもが大勢いるからいいや、とはならずに血相を変えて捜しに行くでしょう。絶対に失いたくないという強い気持ちで、必死で捜すでしょう。4節に「見つかるまで」捜し歩かないでしょうかとある通りです。
そして、おそらく何日か捜し続けて、ようやく見つかったら、その羊を、自分の疲れも忘れて、嬉々として肩にかついで帰ります。そしてこのたとえの強調点は次の展開です。その羊を無事に持ち帰ると、友だちやご近所さんを集めて、いっしょに喜ぶというのです。自分ひとりでなく。羊がいなくなったことを、近所の人にも言っていたのでしょうか。もしかしたら、祈っていて下さい、とお願いしていたかもしれません。それで、一緒に祈り、願っていた友だち、ご近所さんと一緒に喜び合う。ここは、自分一人では収まりきらない、周りを巻き込むほどの喜びの大きさが強調されています。
そして、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人に勝る喜びが、天にあるのです、と主は言われました。この言葉をそばで聞いていた取税人や罪人たちは、どれほどうれしかったことでしょう。どれほど慰められ、励まされたことでしょう!人々から疎外され、さげすまれていた自分たちが、悔い改めて神のもとに立ち返るなら、天において御使いたちの間でドッと喜びが沸き起こり、歓迎も歓迎、大歓迎されるというのです。これは他人事ではありません。私たちも、キリストを信じて、神に立ち返ったなら、同じように、天では大きな喜びがあったのです。私たちは喜ばれて、神の子どもとして生まれているのです。
ちなみに、悔い改める必要のない99人の正しい人、というのは、自称、悔い改める必要のない正しい人のことと思われます。本当は悔い改める必要のない人は、いないのですから、これはパリサイ人たちのように、そう自称している人たちのことでしょう。
それからもう一つのたとえ。8-10節。一ドラクマ、当時の一日分の労賃に相当します。持ち主の女性は、十個あるドラクマ銀貨のうちの一つをなくしました。これは十枚一組で十枚そろって価値がある装飾品だったと推測されます。ある中近東の文化研究者によると、かの地域では、婚礼の際に夫の家族から贈られた銀貨を紐でつなぎ、頭飾りにする習慣があったそうです。なので、一つでも欠けると、大切な結婚の証である銀の頭飾りが、不良品のようになってしまいます。なので、このなくした一ドラクマ銀貨も、単なる十分の一ではなくて、どうしてもなくてはならない一枚です。なので、彼女は、どうしても見つけるという執念をもって探し始めます。「明かりをつけ」当時の家は窓が小さく、昼でも薄暗かったそうです。それで、貴重な油を使ってでも捜します。「家を掃いて」あちらの家の床は土間のような、踏み固めた地面に藁をしいたものだったり、あるいは石畳だったそうです。藁や砂の中に埋もれいるかもしれない銀貨が、ほうきで掃くことによって、チャリンと音がして、見つかるかもしれない。そしてようやく見つかったとなれば、これまた自分だけで喜びを抑えきれずに、友だちやご近所のご婦人たちを呼んで、一緒に喜んでください、と喜びを分かち合わずにいられない。女性たちの、にぎやかな明るい声が、聞こえてくるようです。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに大きな喜びがわき起こるのです。
以上、この二つのたとえに共通することをいくつか。まず、迷える羊にせよ、失われた銀貨にせよ、彼らは自分で持ち主のもとに帰ることはできません。羊は背負われて帰ります。銀貨に至っては、「助けて」と声を上げることすらできません。ただ持ち主側の、決して失いたくないとの思いのゆえに、見つけてもらえます。そのように、私たちも、ただ失われた魂を失いたくない一心で、捜し求めてくださる神の側の熱心によって、神に見いだされ、神のもとに連れ戻されます。4節、8節に「見つけるまで」と繰り返されていて、ここに、失われた魂に対する神の、ただならぬご熱心が暗示されています。目的を達成するまで決してあきらめない。途中で投げ出すことはない。必ず見つけずにはおかない神の思いです。何が神をそれほどまで突き動かすのか。それは失われた者に対する愛です。何分の一という単なる数字ではない、かけがえのない一人。失われていた者が見い出されたのは、ひとえに、この神の側の捜し求める熱心のゆえです。だから、見つけたとなれば、その喜びは、天をも揺るがすほどの大きな喜びを、神にもたらすのです。神というと、いつも冷静沈着で、能面のような、石造のような無表情なイメージがあったかもしれませんが、全く違いました。こんなにも感情豊かな方だった。まるで神が、うれしくてはしゃいでいるようではないでしょうか?一緒に喜んでくれ、と御使いたちに呼びかけておられるかのようなのですから。
それも、全世界が回心したら、というのでなく、たった一人が、です。「一人の罪人が悔い改めるなら」天の父は、これほどに大喜びされるというのです。たった「一人」と天を揺るがす大きな喜びの対比。そのことを心に刻む必要があります。これはもう、何と言っていいのか。ゼパニヤ書3:17(旧約p.1606)のみことばも添えておきましょう。
これらのたとえの、持ち主にとって失われた大切なものとは、そして見つかったら、これほどまで喜ばれるものとは、取税人や罪人たち、あなたたちのことですよ、と言っておられるのです。今は、罪によって本来の姿からかけ離れてしまっているけれども、本当はあなたは神のかたちに、神に似せて造られた存在。そして良心が目覚めて、悔い改めたい、神のもとに帰りたいという、その思いが起こされているならば、間違いなくあなたは神の宝。神の喜びです。みなさん、一人ひとり、自分の存在を、神はそれほどに大喜びされるんだと言うことを、考えてみてください。このちっぽけな私たちが、一人ひとり、神を喜ばせることもできれば、また、悲しませることもできる存在なのです。自分一人なんかいなくなったって、世の中は、何事もなかったかのように明日もその次も動き続けるのだ、などと自分には価値がないかのように感じてはいけないのです。また、時に厳しい試練を通らされることがあったとしても、その背後にはこの神の愛があることを忘れてはいけません。
聖書の中心的なテーマの一つは、失われたものの回復です。聖書全体が、失われた人間を、神が御子キリストによって回復するストーリーです。そこに感動があり、大きな喜びがあり、ドラマがあります。罪によって失われた人をどうしても取り戻したいとの神の熱意が、人となって世に来られた御子キリストとなって現れました。キリストは、失われた人を捜して救うために世に来たと言われました。イエス様は、失われた人を神のもとに連れ戻して下さいます。ただ捜しに来られただけでなく、私たちの罪を身代わりに背負って十字架にかかり、私たちに罪の赦しを与え、神のもとに帰れる道を開いてくださいました。そして、そのことを誰よりも喜んでおられるのは、それで救われる人間よりも、神ご自身の方です。また、大切な人を先に天に送った方にとっても、そうです。その方々との交わりを回復して、喜びに喜ぶときが用意されています。失った大切なものの回復が、聖書の主題であることを忘れないようにしたいものです。それを可能にして下さるのは、天地を造られた、恵み深くあわれみ深い神です。そこに希望があります。