今日から2026年という新しい年の旅路が始まります。一年のスタートラインに立って、さて、今年はどんな年になるのか、と思う人、あるいは、今年をどんな年にしたいか、志を立てる人もいるでしょうか。私は去年の1月中だと思いますが、今年の目標―目標というと、自分が達成するものみたいですが、そうではないものも含まれているので、願いと言ったらいいでしょうか。そこに向けて進んでいく願いーを思い浮かぶまま、書いて、13個リストアップしました。結果は、2つ、実現しました。それは私が達成したことではなくて、神がしてくださったことです。内池輝夫兄が信じて洗礼を受けられたこと、大野泰行兄が信仰告白されたことです。これは神がしてくださったことで、実現しました。もちろん、ほかに願いながら、まだ実現していないこともありますので、それは引き続き、祈り続けていこうと思っています。
そのような「一年の計は元旦にあり」と計画なり方針なりを立てるということとともに、やはり、新しい年のはじめには、人知を越えた神の守り、また祝福を願い、祈るのは、人の心情の自然な発露です。毎年、お正月にはどこそこの神社仏閣に大勢の人たちが詰めかけて、チャリンとお賽銭を投げ入れては、パンパンと手をたたき、何秒間か、神妙な顔をして手を合わせる光景がテレビなどで映し出されます。願いは人それぞれでしょうが、やはり新しい年、つつがなく、災いに合わずに過ごせるように、神仏のご加護を祈る人が多いのではないでしょうか。ハイテクの時代になっても、心のどこかには、人間の力を超えた何かにすがりたい、そのご加護を願う気持ちがあるというのは、尊いことです。現代人にも、そのような「信心」が残されていることは、神の恵みです。文明が進み、技術が発展すると、人は何でもできるような錯覚に陥り、まるで自分の力で生きているかのように思ってしまいがちです。しかしイエス様は言われました。ルカ12:25-26
いのちは、神のものです。神に生かされて、初めて生きることのできる人間です。いのちを支える環境や、自分自身の健康など、神が全部お膳立てしてくれて、舞台が整った上で、人はあれをやり、これをやり、と自分がよいと思うこと、やりたいことができるわけです。体の仕組み一つとっても、寝ている間にも心臓を動かし、呼吸が止まらないようにしているのは、自分の意思ではありません。神が、私たちのいのちを慈しんで、そういう仕組みを与えておられるわけです。ですから、いのちの与え手また支え手である神に、改めて感謝を捧げるとともに、また新しく明けた年の初めに、いっさいをお造りになった神の守りを祈り、神のご愛を覚え、神への信頼をもって歩み出したいと願います。
先ほど読みました聖書の個所は、今から約3500年ほど前、イスラエルの民が荒野を旅する時に神から与えられた祝福の言葉です。神は、当時の祭司たち(22節「アロンとその子ら」は大祭司、祭司のこと)に「このように祝福しなさい」と「お命じに」なりました。ここから、最初に教えられたいことは、神はご自身の民を祝福したいと願っておられるということです。だから「このように祝福しなさい」と「命じて」いるのです。神のみこころは、私たちを祝福することです。もったいぶって、何か特別なことをしないと、祝福してあげない、なんてことはないのです。神は祝福したいのです。私たちを。民が神に祝福を願う先から、神の方から祝福を命じているのです。親は、子どもから頼まれたら、食べ物を与え、必要なものを与えるのでしょうか?いや、生まれたときからー本当は生まれる前からー子どもの必要を備え、与えるでしょう。与えることはむしろ、喜びでしょう。頼まれなくても、子どもの幸せを願うでしょう。人間でさえ、そうならば、ましてや神ははるかにそうです。そういうわけで、まずは、私たちを祝福することが、神のみこころ、神の願いだということを、しっかりと受け止め、信じましょう。
今日の箇所では、これから荒野の旅に出るにあたって、不安、恐れを抱いている彼らに、「わたしはあなたを祝福しているから、わたしがついているから、わたしがあなたを守るから、大丈夫。恐れずに出発しなさい。」と神の親心というのでしょうか、彼らを励ましています。これは私たちにも必要な励ましではないでしょうか。リスクのない人生はありません。リスクを取って前に進まなければいけない場面が人生にはあるでしょう。そしてリスクを取って進んだからこそ、得られる達成感、栄冠というものもあるでしょう。その際に、私たちのバックに、「大丈夫だ、わたしはあなたを守るから、進みなさい」と言ってくださる、偉大なお方がおられると知ることは、大きな力となるでしょう。
24—26節は祝祷などに使われることもある、有名な祝福の言葉です。原語では24節が3語、25節が5語、26節が7語で、3,5,7と増えていく形で、内容の広がり、深化、強調などを表わす技法だそうです(漸層法というそうです)。
主なる神が彼らに与える祝福の第一は守りです。羊飼いが羊を守るように、主があなたを守られるというのです。荒野には、多くの敵や野獣が襲ってくることが予想されました。神の民はほとんど丸腰で、戦う力は無に等しい。しかし、羊自身は弱い動物でも、羊を守る方、羊飼いの力が強ければ、安心です。また、疫病や自然災害もありました。人の力ではどうにもならないこと。それらのわざわいからも、主は守る方として彼らを祝福されました。
主は、あなたがどれほど強いか、あるいはどれほど弱っているかに関わらず、まず「あなたを守る」ことから始められます。自分の力だけでやっていかなければならないと思わないでください。あなたを愛し、守る方が共におられます。
主が御顔を照らすという表現は、主が恵み深いお方として臨んで下さることを表すようです(詩31:16,80:3,7,19)。主が恵み深い御顔を照らしてくださって、実際にあなたに恵みを注いで下さるようにというのです。これは水とパンのことでしょうか。今の日本では、蛇口をひねれば水がいくらでも出るし、食べ物もあふれていますが、荒野ではそうはいきません。飲み水とパンの確保は死活問題です。しかしそれは、主が与えてくださるから、心配しないようにというのです。
主は恵み深いお方です。私たちの生活の必要を満たして下さいます。それは私たちが神のみこころにかなった良い人間だからではありません。神が恵み深いお方だからです。イエス様は言われました。「(天の)父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ 5:45)私たちも多くの失敗をしてしまう者かもしれません。心ならずも、罪を犯してしまうかもしれません。しかしそれにもかかわらず、神はキリストにあって、限りない赦しという恵みをご用意下さっています。神は、キリストにあって、私たちに恵み深い御顔を照らしてくださいます。
ときに、試練の嵐のただ中にあって、神が御顔を隠しておられるように感じるときもあるかもしれません。しかし、地上では嵐でも、雲の上では常に太陽が輝いているように、私たちに対する神の御顔は常に恵みに満ちています。そしてやがて嵐が止み、どす黒い雨雲が遠のくと、また天から恵みの光が差し込むのです。キリストにあって、神の恵み深い御顔は変わることがありません。
恵みの次に来るのが平安です。ここではこの「平安」が祝福のクライマックスになります。主は恵み深い方として御顔を向けてくださるので、私たちは平安が与えられます。それはあたかも、親が自分の赤ちゃんを抱いているようなイメージでしょうか。親は慈しんで赤ちゃんの顔を見つめます。その愛情深い親の顔が向けられていることで、赤ちゃんも安心するのでしょう。そこには無条件に注がれている愛情だけが与えることのできる安心感があるのでしょう。
恵みがあって平安。この順番に意味があります。ただキリストにあって、罪の赦しを受け、神に受け入れられているので、平安を持つことができます。
世界を見回し、社会を見渡して、この先、どうなるのだろうと不安を覚える方もいるかもしれません。そういう時代にこそ、イエス様が下さると約束された平安に心を向けたいものです。イエス様は言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」(ヨハネ 14:27)これは、主が共にいてくださる平安です。何度か言っていますが、「平安」というテーマの絵の展覧会で、平和な田園風景を描いた絵などあった中、ひときわ、目を引く絵がありました。そこには、嵐で荒れ狂う波が打ち付ける断崖絶壁に、小さな横穴があって、そこで親鳥の翼に覆われているひなが描かれているものでした。外は激しい嵐でも、頑丈な岩に守られ、ひなたちは親鳥の翼にかくまわれています。試練自体はクリスチャンでもクリスチャンでなくてもあるんだけれども、その真っただ中にも主がともにおられて、私たちを守る岩となり、親鳥となって、実は守って下さっている。そのことに、後から気づくということが、あるのではないでしょうか。神さま信じたら、何も試練がない、悪いことが起こらない、なんて嘘臭いです。あるわけないです。ただ、その中で主が共にいて下さって、目に見えない御手をもって守って下さっている。これは真実です。
最後に、これら三つの祝福の土台と言ってもいいような、結びの言葉です。
この新しい年、先のことは、私たちには知る由もありません。しかし、私たちはすでに神の子どもとされ、神の保護下にある神の家族であることは確かです。それゆえ、神はいついかなる時も、恵み深い御顔を照らし、愛情に満ちた御顔を私たちに向けておられます。その神の御顔を私たちも仰いで、神との交わりのうちを歩ませて頂きましょう。