2回、間が空いて3週間ぶりのルカ伝に戻ります。直前はパリサイ人の重鎮の食事に招かれて、イエス様がいくつかの話をされたところでした。今日の個所は、場面は変わりますが、内容としては前の流れを受けているようです。すなわち、神の国に招待されていながら「畑を買ったので」「牛を買ったので」「結婚したので」と理由をつけて断った人々のことを念頭に、それらのものによって心を奪われずに、イエス様に従うことを第一にしなさい、と教えています。畑、牛は財産で33節、結婚は家族のこととして26節で取りあげられます。
まずイエス様は、誰に向かって語られたか。25節「さて、大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスは振り向いて彼らに言われた。」イエス様と一緒に歩いていた、大勢の群衆です。一緒に歩いていたからと言って、悔い改めて、神に従おう、イエス様に従おうと決心していたとは限らない。以前、イエス様と一緒に食事もしたし、イエス様の教えを直に聞いたではありませんか、と訴えながら、イエス様から「わたしはあなたがたを知らない。」と言われて、神の国に入れなかった人たちのたとえがありました(13:26-27)。イエス様と一緒に歩いていた「だけ」の大勢の群衆で終わらないように、イエス様は彼らがちゃんと神の国の門でも、イエス様に迎え入れて頂けるように、本当に「わたしの弟子」であるための心構えを説かれました。自分が必要とするときだけ、あるいは楽しい時だけ、イエス様のところに来るけれども、状況が変わったら手の平を返すように、イエス様から離れて行く、時には迫害する側になる…。そんなナンチャッテ・クリスチャンにならないよう、この段落には、これこれこういう者は「わたしの弟子になることはできません」という言葉が26節、27節、そして33節と3回繰り返されています。
ちなみに、「イエス様の弟子」とは宣教師などの、いわゆる献身者のことではなくて、すべてのクリスチャンのことです。「信者」ではあっても「弟子」ではないということはありません。使徒の働き 11:26「弟子たちは初めてキリスト者(クリスチャン)と呼ばれるようになった」とあります。つまり、「クリスチャン」とは「弟子たち」に対する外部からの呼び名でした。クリスチャン=弟子です。また、いわゆる大宣教命令(マタイ 28:19)において、主は「信者を増やせ」ではなく「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じました。そのために、バプテスマを授け、主の命令を守るように教えなさい、と命じました。それからまた、キリストを信じて義と認められた者は、その瞬間から新しいいのちに生きる者となり、キリストの似姿へと変えられるプロセスが始まっています。キリストに似た者となる歩みをする者は、キリストの弟子です。
ドイツでナチスに対する抵抗運動をして、39歳で殉教したボンヘッファーという牧師がいます。彼は、悔い改めも従順も伴わない信仰を「安価な恵み」と呼びました。それは「罪の赦し」という特典だけを受け取り、キリストに従う「コスト(払う犠牲)」を拒否する生き方です。それに対して彼は、自己犠牲を伴うキリストに従う生き方を強調しました。
もちろん、最初からベテランのような弟子はいません。最初はヨチヨチ歩きでいいのです。大切なのは、私たちの内に始まった、新しいいのちの鼓動をとめないことです。私たちをキリストの似姿へ造り変えようと働いている御霊を消さないことです。主を仰ぎ、主を愛し、主のみことばに従う歩みを続けることです。100回失敗してもいいのです。100回主の元に戻って来て、主に従う歩みを続けることが大切です。主の赦しは無尽蔵です。主はカタツムリより歩みののろい者でも、一生懸命、そこに向かって歩んでいる者を決してさげすまれません。むしろ、いっそう慈しみ、応援する気持ちで見守り、尊んで下さるでしょう。
さて、人々をご自分の弟子とするために、イエス様は甘い言葉で人を釣るようなことをせずに、最初から厳しいことを言われました。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」(26節)前にも触れましたが、これは聖書独特の表現です。Bも愛しているけれども、Aの方をはるかにはるかに愛するということを表すときに「Aを愛し、Bを憎む」という言い方をします。Bの方をネガティブな表現にして強調するわけです。ここではAにあたる語がありませんが、それはもちろん、イエス様です。イエス様を、これらの人たちよりも、第一に愛しなさいということです。言うまでもなく、神のみこころは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」であり、「あなたの父母を敬え」はモーセの十戒中、対人関係の戒めの一番最初に置かれています。キリストが教会を愛したように、夫は自分の妻を愛しなさいともあります。子も、兄弟、姉妹も同様です。また自分のいのちまでも憎まないなら…、とありますが、当然、自分を大事にするべきです。「自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」です。自分を大切にできない人は、ほかの人のことも大切にできないとも言います。健全な意味で自分を愛することは良いことであり、神が望んでおられることです。日本人の中には特に、自分を大事にすることに罪悪感を持つ方も中にはいるかもしれませんが、そういう方にこそ、自分を大切にしていいんですよ、と言いたいです。
ともかく、これらは、ほとんどの人にとって、最も大切に思うものでしょう。それらよりも、イエス様を愛することを優先させるということです。初代教会では、ユダヤ当局からの迫害によって、家を追われるもの、家族から勘当される者、村八分にされる者もあったと思われます。文字通り、この覚悟が必要だったでしょう。また、現代の日本では、別な意味で、これは意味のある事と言う人もいます。キリストを第一とすることは、他のすべてを正しい位置に置くことです。たとえば、親の支配が強かった子は、大人になり、親が亡くなった後でも、精神的に親の支配を受け続けて、苦しむ人もいるそうです。親が神の位置を占めてしまっているのです。その親を神の位置からおろして、イエス様を主とすることによって、その呪縛から解放されたというケースがあるそうです。この例に限らず、呪縛から解放され、自由にされて、初めて人は健全に相手を愛せるようになるのでしょう。
「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」(27節) 「自分の十字架を負う」という言葉は、しばしば、人生の苦労や不運を耐え忍ぶ意味で使われますが、元々の意味は、イエス様がそうだったように、死刑囚が処刑場へ向かう姿です。これは古い自分に死ぬということです。そしてキリストに従うということです。自分の思いや自己主張は捨てて、主の主権に服従すること。これが十字架を負うことの基本的な意味です。それは、キリストに従うゆえの苦難を引き受けることに通じます。天災や病気などの、信仰があってもなくても受ける時には受ける苦しみではなく、キリストに従う決断をした結果、生じる不利益や痛みのことです。世俗的な価値観を拒むことで受ける不利益。キリストの愛を実践するために費やす時間や労力、忍耐。自分のプライドを捨てて、誰かに謝罪したり、仕えたりすること。これらは、主に従わなければ受けなくていい苦しみかもしれません。しかし、イエス様の弟子はイエス様のみあとに従うために、あえてその道を行くのです。ですから、「自分の十字架を負う」とは、「私の人生の主人は私ではなく、イエス様です」という告白を生き方で表すことです。
しかし、イエス様の弟子にとって十字架は、単に苦しみの象徴ではありません。それは、愛するイエス様と一緒に歩んでいるしるしでもあります。「主よ、私はあなたと一緒に、この十字架を背負います」そう告白する時、その人は最も深い主との交わりにあずかっています。十字架が肩に食い込むのを感じるその瞬間、私たちは、キリストの最も近くにいるのです。その十字架の重みは、主がすぐそばにおられるという手応えに他なりません。それはこの世のものではない喜びをもたらします。
28—30節は塔を建てるときに、前もって資金が十分にあるか、まず座って、考えない人はいないでしょう?というたとえ。もし仮に計算せずに始めてしまって、土台を据えただけで資金が尽きて、完成できなかったら、物笑いになるでしょうと。おそらくこういうことをする人は誰もいないと思います。しかし、自分の十字架を負わずに、イエス様の弟子になるということは、そういうものだというのです。途中で投げ出してしまうことになる。
31—32節も、どこかの王が2万人引き連れて攻めて来た時、こちらが1万人しかいなくて迎え撃てるかどうか、まず座って、考えるでしょう?ここでも「まず座って」とあらかじめよく考えることを前提としています。そしてもし見込みがなければ、まだ敵が遠くにいる間に使者を遣わして、講和の条件を尋ねるでしょう、と。十分な準備がないまま、戦いに打って出ることはしない。もし戦力がないのに無理攻めしたら、その結果はひどいことになるでしょう。そして33節で「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません。」とここでは財産のことが言われます。もちろんこれも、文字通り全財産をどこかに寄付しないといけないということではなくて、財産への執着を断ち切るということでしょう。富を偶像にしないと言いますか。これに心を奪われて、イエス様に従うことを妨げられてはならないこと。初代教会の時代には、文字通り、信仰ゆえに迫害され、財産を没収されることがありました。
人間関係にしろ、財産にしろ、これらへの執着が、イエス様に従うことの妨げになってはいけないということです。小さな子供が両手におもちゃを抱え込んでいたら、お父さんと手をつなぐことができません。お父さんと手をつないで一緒に歩くためには、一度そのおもちゃを置かなければなりません。主が「捨てなさい」と言われるのも、「わたしの手を取りなさい」という招きです。それは永遠の天の御国へと私たちを導き入れてくれる手です。
34ー35節はクリスチャンは地の塩だから、塩気を保てということ。塩は腐敗を防ぐもの。倫理的なきよさを表します。当時の塩は不純物を含む岩塩が多く、塩気が抜けるとただの砂のようになり、道に捨てられたそうです。クリスチャンが、キリストへの献身を失い、世の人々と全く変わらない価値観で生きるなら、その存在意義を失ってしまいます。世にあわせているうちに、いつのまにか、すっかり世に同化してしまって、塩気がなくなってしまってはいないか。世の人から、あなたは話のわかるクリスチャンだ、などとおだてられて、いい気になっていたら、いつのまにか塩気のない、何の役にも立たないものになってしまっていた、ということのありませんように。しっかりと自分の十字架を負って、イエス様について行き、塩気を保つ者でありたいものです。
職場の休憩室や近所の立ち話で、誰かの悪口や不満が盛り上がることがあります。その場の空気に流されて一緒に悪口を言うのは、塩が味を失い、ただの砂になった状態です。同調しないだけでも、悪意の腐敗が広がるのを止める塩になります。
すべてのクリスチャンは、主の弟子として生きるよう召されています。しかし主は、私たちが無理やり従わされるのではなく、主との愛の交わりゆえに、自ら喜んで弟子として歩むことを願っておられます。自分の十字架を負って、わたしについて来なさいと言われる主ご自身の方が、まず先に、私たちを愛して、私たちのために自ら進んで、文字通りの十字架を背負って、十字架にかかってさえ、くださったのですから。これほどまでに私たちを愛しておられるイエス様の弟子であることを感謝し、喜んで、イエス様と共なる歩みをさせて頂きたいと願います。