クリスマスは、イエス・キリストのご降誕をお祝いする日とされています。実は、実際にお生まれになった日はわかりませんが、神の御子が天から降りて、人となってお生まれになったという、そのことをお祝いする日として、長年、守られてきました。聖書では、神と言ったら、この世界を、全宇宙を造られた、文字通り全知全能のお方です。時間も空間も造られた方です。そして聖なる聖なるお方です。その神の御子であられる方が、どうして、肉体をまとってこの世界に来られたのでしょう。暇で、観光に来たのでしょうか。お忍びで諸国漫遊でしょうか?人間の姿でひそかに目を光らせて見て回って、不届きな者を裁くためでしょうか。そうではなくて、11節の御使いが告げたところによると、神の御子は、私たちの救い主として来られた、というのが聖書の伝えるところです。裁くためではなく、救うために、天を蹴って地上に来られたのです。
それで、2025年のこの日も、世界中の教会でイエス・キリストのご降誕を感謝する礼拝がささげられています。私たちも、その救い主がお生まれになったときのことが書いてある聖書の個所をご一緒にお読みして、救い主降誕!の良い知らせを共にしたい思います。
場面はイエス様がお生まれになったベツレヘムという町に近い野原。いつものように野宿をして羊の群れの夜番をしていた羊飼いたちがいました。古代の夜空は、さぞかし澄んで星々がきれいにまばたいていたことでしょう。夜番と言っても、まだそれほど夜が更けていない頃、焚火でもしながら、雑談でもしていたでしょうか。すると、そこになんと、主の使い(=天使、御使い)が現れました。突然、現れた御使いにびっくり仰天。震え上がる羊飼いたちに御使いはまず「恐れることはありません。」と声をかけます。恐ろしい用件できたのではない。そして「見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」と言いました。そうです。大きな喜びの知らせを告げに来たのです。ここの「大きな」と訳された言葉は、元のギリシャ語で「メガ」で、とてつもなく大きな、巨大な、というニュアンスの語です。みなさんにとって、この上なく、とてつもなく大きな喜ばしい知らせがあるとしたら、どういうことでしょうか?御使いが告げた、とてつもなく大きな喜びの知らせとは「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」ということでした。一般に「イエス・キリスト」と言うと、イエスが姓でキリストが名と思われるかもしれませんが、実は「キリスト」とは、元々は名前ではなく「油注がれた者」という意味のギリシャ語でした。旧約聖書が書かれたヘブル語でメシア、それを新約聖書が書かれたギリシャ語に翻訳してキリストになりました。昔、聖書の民の間では、王とか大祭司とか預言者とか、特別に神に選ばれて、神に立てられた職務に任命するときに、特別に調合した、聖なる油をその人に注ぎました。それがいつしか、神から特別に救い主として任命されて、世に遣わされる方を指すようになりました。で、人々はこの、神に油注がれた方、メシア、キリストが救い主として来るのを待ち望んでいたのです。ですから「キリスト・イエス」は、「油注がれた方イエス」という意味です(「イエス」は個人名)。ですから、ここで御使いは、この方こそ、神から(救い主として)油注がれた方です、と言っているわけです。
続けて御使いは、見に行ってきなさいというのでしょう、みどり児の救い主を見分けられるように、「あなたがたのためのしるし」を教えました。布にくるまって、飼葉桶に寝ている生まれたばかりの赤ちゃん。これが目印です。確かにこの条件を満たすのは、他にはいなさそうです。また、イエス様がお生まれになったところが、神の御子にふさわしい所として、王宮とか神聖な神殿とかだったら、羊飼いたちは入れてもらえなかったでしょう。普通の宿屋でも、もしかしたら門前払いされたかもしれません。何しろ、彼らは四六時中、家畜といっしょにいて、家畜特有の匂いがついていたでしょうから。しかし家畜小屋なら、そんな心配はいりません。神の何とも行き届いたご配慮です。今も、私たちがキリストを探し求めるとき、神は一人びとりにふさわしい導き、またしるしを与えてくださるのでしょう。
そして、御使いがそう言い終った瞬間、天使の軍勢が夜空を埋め尽くして、神を賛美しました。たぶん、天使が総動員して、神をほめたたえたのではないかと思います。14節「いと高き所で、栄光が神にあるように」は、ラテン語訳が「グロリア・イン・エクセルシス・デオ」で、讃美歌の歌詞になっています(今日、この後歌います)。そして「地の上で、平和が、みこころにかなう人々にあるように。」ここの「平和」とは、神との平和のこと。神との関係の回復です。これについては後で触れます。その神との平和が、「(神の)みこころにかなう人々」にあるように。「みこころにかなう人」とはどういう人のことでしょう?後光が差すような立派な聖人君子のことでしょうか?右の頬を打たれたら、左の頬を差し出すような人でしょうか?これについても、あとで触れたいと思います。
さて、御使いのお告げを受けて、羊飼いたちは、すぐさま、行動しました。ベツレヘムにある家畜小屋を、手分けして、あっちこっちと探し回って、まもなく探し当てたのでしょう。そこには、布にくるまれて、飼葉桶に寝かされているみどり児がいました。御使いが告げた通りでした。彼らは目を輝かせて、そこにいた人たちに、御使いが告げたことを伝えました。以上が、不思議なイエス・キリストの誕生・ご降誕の一幕でした。
以上、ざっとあらすじを見ましたが、今日はここから、キリストが私たちのための救い主であることについて、掘り下げてお話ししたいと思います。今から約二千年前に、ユダヤのベツレヘムというところの、家畜小屋に生まれたイエスという方が、救い主だと御使いは告げました。このことは現代の私たちにどういう関係があるのでしょうか。ご存じのように、イエスという方は、やがて十字架につけられて、死にます。三日目に復活して、天に昇られたと聖書は伝えていますが、十字架にかけられて苦しみを受けられたことは事実です。そんな十字架にかけられたような人が、救い主って。自分が誰かに救ってもらわないといけなかったんじゃないの?と思われるでしょう。しかし、この十字架につけられたキリストこそ、神が送られた私たちのための救い主なのです。キリスト教会はこの約二千年間、この十字架にかかられたキリストをこそ、救い主と信じ、礼拝して来たのです。それはどういうことでしょうか。
救い主と言いますが、これは裏を返すと、人間は救いを必要とする状態だということです。そういうと、自分は特に困っていることもないし、救い主とか、必要ない、間に合ってます、という人もいるでしょう。しかしそういう問題ではないのです。このことを知るには、聖書の一番最初にある創世記というところにさかのぼる必要があります。そこには、最初の人アダムとその妻エバが登場します。彼らは、何一つ不自由ない、満ち足りた生活をしていました。何よりも、すべての造り主であり、良き方であり、彼らを愛してやまない神とともに生きていました。そのとき、人は幸せで、平和でした。死もありませんでした。ところが、あるとき、サタンの惑わしにあって、神に背いてしまいました。これが決定的な悲劇的な出来事でした。その時以来、神との関係は絶たれて、神と人とは断絶状態になりました。神を否定した人間たちは、互いに自己中心の存在となって、争いが絶えない世界となりました。それが今に至るまで続いています。世界規模でも身近な所でも、もしかしたら自分自身の内にもあるかもしれません。また、人はいのちの源である神から断ち切られたので、そのときから死というものが入ってきました。死の原因は神への背き、神に対する罪です。
聖書の言う罪とは、ただ何か悪いことをしたというのでなく、神を神としない、自己中心なあり方を言います。神を無視し、神に逆らい、神からあらゆる良いものを頂いているにもかかわらず、感謝もせず、神を神と認めない。このような神を無視、または神に逆らうあり方そのものを罪と言います。聖書には、罪をあらわす言葉がいくつかありますが、その一つに「的外れ」という意味の語があります。本来、人は神に向けて神を愛し神を喜ぶように造られたのに、むしろ神を避け、神ならぬものの方へと向かって神ならぬものを慕うようになってしまった。お金であったり、特別な人との関係であったり、快楽であったり、そういうものを神としてあがめ、それらに実に献身的に、熱心に仕えるようになった。それらが心を満たしてくれる救い主であるかのように思っても、それらは一時的な興奮は与えても、真に永続する魂の満たしは与えません。魂の渇きをいやすのは、神ご自身だけだからです。人は、そのように造られているのです。
罪によっていのちの源である神との関係が切れてしまった状態は、木の枝が幹から切り離された状態にたとえられます。枝が幹につながっていれば、水も栄養も枝に流れ込んで、生きて、花を咲かせ、実を結ぶけれども、切り離された枝は水も栄養も流れてこないので、やがて枯れてしまいます。神から離れた状態というのは、そういう状態です。最初の人アダムが神に背いて以来、すべての人が生まれながらにして、神から切り離された状態にあると聖書は教えています。だから死なない人はひとりもいません。
だけども、一度、切り離された枝も、接ぎ木して、また幹につながれば、いのちを回復します。また水と栄養は流れ込み、いのちを回復して、やがて花を咲かせ、実を結びます。キリストは、そのように、神から離れていた人間を、再び、神に接ぎ木されるようにしてくださいました。神との関係を回復して、私たちが神とともに生きることができるようにして下さいました。神と和解し、神との平和を実現して下さいました。それが、あの十字架の意味です。罪なき、きよい神の御子が、なぜ、むごたらしい、十字架にかけられたのか。手足を太い釘で木に打ち付けられ、その十字架を立てると体重で肉が裂けます。血も流れ出ます。苦しみの極みで、それは当時、死刑囚がかけられるものでした。なぜそんなものに、イエス様が、神に油注がれた方がかけられたのか。それは、私たちの罪を身代わりに背負って、私たちの身代わりに罰を受けて下さるためでした。神がそのためにキリストを遣わし、キリストはそのために十字架にかかって下さったと信じる者には、誰にでも、完全な罪の赦しを与え、神との和解が与えられます。その結果、永遠のいのちが回復します。だから、十字架にかけられたキリストが、救い主なのです。キリスト教会は、この十字架にかかってくださったキリストを救い主としてあがめ、礼拝し続けているのです。
キリストは、私たちを深く愛してくださったので、私たちのために自ら進んで十字架にかかってくださいました。あなたの罪はわたしが引き受けるから、あなたは神のもとに帰って、生きなさい、いのちを得なさいと。そのために神は尊い御子を、神にとってすべてと言っていいでしょう、ご自身の御子を、救い主として事実、今から約二千年前に、遣わして下さいました。神は私たちを全力で、絶対的に肯定して下さっているのです。キリストを信じた者は、神の絶対的な肯定を受けながら、生きるのです。
神に逆らったのは人間の方なのに、神の方が和解のために必要な犠牲を払って下さいました。神の御子を救い主として遣わしてくださいました。私たちを愛して、私たちとともに永遠に生きることを望んで。永遠のいのちとは、神とともに永遠に生きることです。
聖書は、今も、私たち一人ひとりに向かって語りかけています。「今日、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」いつの時代の人にとっても、最も大切な問題を解決してくださった救い主の誕生を、私たちもお祝いして、神への賛美をささげましょう。