礼拝説教要旨 2025年12月14日

神が共におられる幸い

ルカの福音書1:26-38

<はじめに>

一年の過ぎる速さに驚くばかりで、今年もクリスマスの季節を迎えた。今朝は、ローマ人への手紙を読み直していたのをお休みして、マリヤへの御使いの受胎告知の出来事に私たちの思いを留めることにする。御使いガブリエルが、ガリラヤの町ナザレに住むひとりの処女、マリヤのもとへと遣わされ、ダビデの家系のヨセフのいいなずけであったマリヤに、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と告げた。御使いの言葉に、マリヤは驚きと戸惑いを隠せなかった。いきなり「おめでとう」、「あなたはみごもって、男の子を産みます」と言われて、「いったい何のあいさつか」と考え込むのは当然であった。(26~29節)

1、

御使いは「恐れることはありません、マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです」と語ったが、「見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます・・・」と告げられ、マリヤは一層驚くしかなかった。「イエス」の意味は、「主は救い」、「主は救いたもう」であり、また「大いなる者となり、いと高い方の子と呼ばれます」と言われ、いずれも神そのものを思わす名で呼ばれる子が生まれると告げられた。マリヤは、果たして、一言一言を聞き取れたのだろうか。「あなたはみごもって、男の子を産みます」と聞いて、後はよく聞けないほどに驚いたに違いない。「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」(30~34節)

マリヤは戸惑いの中で、御使いの言葉をしっかり聞いていたのも事実のようである。記憶を呼び覚ましてルカに証言したことによって、この記事が残っている。彼女は、大事な事柄を心に留め、「思い巡らす」ことができる人であった(ルカ2:19、51)が、その時の動揺は激しく、自分が身ごもって、男の子を産むとは考えられなかったに違いない。この時マリヤが何歳位であったか、いろいろ推論がなされている。いいなずけとなっていたが、まだ一緒には生活を始めていなかったのは、マリヤもヨセフも年若かったことを暗示している。十代であったかも知れない。特にマリヤについては十代半ばとも言われる。事柄を理解し、御使いの言葉を受け留めるに至るのは、何がカギだったのであろう。

2、

マリヤの「信仰」、神を恐れる信仰がカギであったのは事実であろう。けれども、それは一面のみで、彼女が何を信じ、何を頼りとしたかよりも、彼女に働きかけた神ご自身は何をなさったか、そのことが肝心と思われる。戸惑うマリヤに御使いが語ったのは、どのようにして彼女が身ごもるのか、その一番大事なことであった。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます」と。(35節)聖霊がマリヤに臨むのは、神の力が彼女を覆いつくすことで、神が彼女に宿って、神ご自身である神の子を世に遣わすというのである。聖霊が一切を成さるのである。御使いは、その一番肝心なことを明言した。

それに加えてエリサベツのことを告げた。神が働いて今このようなことが起っていると、確かなしるしを明示した。エリサベツの不妊は親戚中に知られていて、マリヤも知っていたであろう。その彼女が「あの年になって男の子を宿して」いることは、全く不思議なこと、神が働いてこそのことである。「不妊と言われていた人なのに、今はもう六ヶ月です。」(36節)そして「神にとって不可能なことは何もありません」と言い切ることによって、神が全能であること、神が語られたことは必ず成ることを告げた。マリヤが信じられるよう、神ご自身が励ましておられた。信仰は神の働きかけによって整えられ、保たれ、一層堅固なものとされる。決して人の確信や力によるのではないことを、この出来事は明らかにしている。(37節)

3、

「マリヤは言った。『ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。』」(38節)彼女は信仰において何が大切か、それは神の言葉を信じることと理解した。御使いはザカリヤにはっきりと、神の言葉は「その時が来れば実現する」ものと告げていた。今マリヤにも「神にとって不可能なことは何もありません」と明言し、神の言葉は必ず成ることを信じるよう語っていたからである。マリヤは自分が主のはしためであることを良しとした。主が望まれるように自分が用いられることを良しとし、「おことばどおり、この身になりますように」と言った。心から自分の身を神に明渡し、神に献身した。この献身を可能としたのは、神が共におられるとの確信で、神から恵みをいただいているとの感謝であった。

最初は、「主があなたとともにおられます」と告げられても、その実感はなかったであろう。また「あなたは神から恵みを受けたのです」と言われても、どんな恵みかと戸惑っていた。それでも、神が聖霊により自分に臨んで下さること、また胎に神の子が宿ることによって、神が共におられるとするなら、これ以上の光栄はないと、次第に理解し始めた。同時に、神が共におられるとしても、これから先、何が起るのか不安も覚えたに違いなかった。けれども、その不安や恐れは、神が共におられるなら・・・と、主に身を任せたマリヤである。神が共におられることによって、大きな責任が降りかかるのが明らかであったが、それでも「あなたのおことばどおり、この身になりますように」とマリヤは答えた。彼女の心は、神が共におられる幸いに満たされ、そのように言い得たのである。今日、私たちは果たしてどうであろう。

<結び>

マリヤへの受胎告知は、とても印象に残る出来事で、私たちの心に深く刻まれている。彼女の信仰に私たちも倣いたい。しかし、彼女の信仰をどうのこうの言うより、彼女に迫り、彼女の信仰を励まし導いて、力づけておられた神が、私たちに対しても同じように臨んでおられること、近づいて下さることを心に留めたい。神は常に一貫して、「わたしはあなたとともにいる」との約束を繰り返しておられる。何よりも幼子について、「その名はインマヌエルと呼ばれる」であった。「神が共におられる」ことこそが、クリスマスの中心メッセージである。(出エジプト3:12、4:12、15、33:14、ヨシュア1:5、9、イザヤ43:2、5、マタイ1:23、28:20)そして、神は今も生きて働き、私たちを用いようとして下さる。神は私たちと共におられ、私たち一人一人をもご自身のために用いようとして下さる。神は私たちの内に住み、私たちを生かし励まし、それぞれの務めに就かせて下さっているのである。

神が共におられることを信じて、その置かれた所、また遣わされた所で務めを果たすことは、何にも増して尊い。誰もが自分の力に自信が持てないのはある意味で当然である。人は決して強くはない。弱くまた愚かである。けれども、神が共におられ、力を与え、助け導いて下さる時、人の歩みは全く変えられる。人の力に限りがあっても、神の力は限りがない。神に不可能はない。神が共におられる幸いは、神に身を委ね、神と共に歩む全ての人に約束された揺るがない幸いである。今年のクリスマス、私たちも確かにその幸いをいただき、マリヤと共に、神から恵みを受けて、神が目を留めていて下さる者として歩ませていただきたい。