今朝の舞台も前からの続きで、イエス様を食事に招いたあるパリサイ人の有力者の食卓での一コマで、その4回目となります。前回、前々回と、イエス様は、招かれた客人にも、招いてくれた家の主人にも、ダメ出しをされました。客人たちが上座を取ろうとしていると、上座に座ってはいけません、かえって末席に座りなさい、と言い、家の主人に対しては、昼食や晩餐には、友人、兄弟、親戚、近所の金持ちなどを呼んではいけません、かえって、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい、と続けざまにダメ出ししました。それで、ちょっと微妙になった場の空気を変えようとしたのでしょうか、イエス様が「義人の復活のときに」云々と言われた言葉を受けて、ある人が「神の国で食事に招かれる人は、何と幸いなことでしょう!」と声を挙げました。ところが、これもまたダメ出しされることになるという落ちが待っていました。我こそは、と高ぶっていた、当時のエリート宗教家には、手厳しいイエス様です。彼らをへりくだらせ、いのちの道に導こうとされたのでしょうか。
こう言った人もパリサイ人の仲間でしょうが、彼は、自分が当然神の国に入れるとは言いませんでした。心の中でどう思っていたかはわかりませんが、一応、「神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。」と遠慮気味に言いました。言外に、「私などはとてもとても…。」というニュアンスをにじませたのでしょうか。よくこういう人おられます。私みたいなのが天国になんて、とてもとても、と。一般の方がそう仰るのはわかるのですが、クリスチャンでそう仰る方もけっこう多いことには、参ってしまいます。天国に入るための条件を誤解しているのです。何か、自分が立派だったら、天国に行けるというような。この人も、神の国に入れるのは、十分に善行を積んだ、よっぽどきよくて、落ち度のない生活をした人と思って、こんなことを言ったのでしょう。とんでもない誤解でした。
その誤解を解くために、イエス様は16節以下、たとえを話されました。神の方は、人々に御国の食事を味わってもらいたくて、招いておられるのです。必要なのは、善行を積み上げることでも、天使みたいなきよらかな生活をすることでもなく、ただ神の招きに応じること、これなのです。神の招きをお受けすれば、神の国の食卓に着かせて頂けるのです。ところが、せっかく神が、御国に招いておられるのに、断っている人々の何と多いことか。神の国に入れないとしたら、それは神が拒んでいるのではなくて、人の方が拒んでいるから。拒んでいるのは神ではなく、人間の方だったというのが、この箇所で教えられることです。
ここの盛大な宴会を催したある人は、神のこと、その宴会は神の国で食事をすることをあらわしています。宴会と言っても、神の国ですから、悪酔い・悪ノリする輩はおらず、安心して楽しめるものに違いありません。で、しもべがあらかじめ招いていた人たちを呼びに行ったところ、最初の人は、「畑を買ったので、見に行かなければなりません。」と言って断りました。向こうでは、このような招待を断ることは、大変な侮辱だそうです。「ご容赦ください」とは言ってますが、実際には軽んじているのです。「どうしても見に出かけなければなりません」と言っていますが、そんな緊急を要するものではないはず。次の「五くびきの牛を買ったので」も同様。一くびきは二頭なので、五くびきは十頭。その牛を試すから、行けないと言いましたが、それを試すのは、翌日でもいいはず。また、牛は高価な財産ですから、先の畑を買った人といい、牛を買った人といい、羽振りが良い生活が伺われます。イエス様のみことばが浮かびます。「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」(マルコ 10:25)
そして最後は、「結婚したので」もう、何をぬかすか、です。繰り返しますが、これは当時の社会では、考えられないような侮辱です。それを平気でしているのです。
それで、この主人は当然、怒りましたが、今度は、「貧しい人たち、からだの不自由な人たち、目の見えない人たち、足の不自由な人たち」を招くことにしました。これらの人たちは、前回の13節に挙げられていた人たちです。お返しができない人たちです。「大通りや路地に出て行って」とあるので、もしかしたら、物乞いをしていた人たちでしょうか。要するに、まったくの恵みとして、宴会に招かれるということです。彼らは、前の3人と対照的でした。彼らはタダで、恵みとして、大宴会に招かれて、大喜びで応じたでしょう。「貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」とのみことばが思い合わされます。私たちもまったくの恵みとして神の国に招かれています。
さて、ここまでしても、まだ席が余っていました。これは、神の恵みの大きさを表わしているのでしょうか。今度は、街道に出ていくようにと言います。街道は、多くの旅人が通る幹線道路で、異邦人も含まれます。垣根は、どういうことか、よくわかりません。ともかく、これは全然、関係ない人たち、旅人でも異邦人でも、手あたり次第、連れて来るようにということでしょう。これも、ただ恵みによって神に招かれることを表しているのでしょう。なお、聖書の歴史的な枠組みで言うと、イスラエル人が救い主を拒んだので、救いの招きは、異邦人に向けられた、ということを表わすものとも思われます。また「無理にでも」というあたりに、神の、何が何でも満席にしたいという熱意が感じられます。
この「無理にでも」という熱意に関連して、ある証があります。もう何十年か前になりますが、JR新大久保駅で、韓国からの留学生、李秀賢(イ・スヒョン)さんという方と、日本人のカメラマンの関根史郎さんという方が、ホームに転落した人を助けようとして亡くなった事件がありました。その事に心を打たれた在日韓国人のバイオリン演奏家ジョン・チャヌという人の証です。彼もまた、文化交流を通じて日韓の架け橋になりたいと願っていた人です。彼は、その出来事に感動して、新大久保駅のあたりで追悼コンサートというか、バイオリンを弾いていました。そして愛と平和ということをよく語っていたそうです。ところが、そのバイオリンを弾いているところに、ある年配の牧師が来て言ったそうです。あなたは平和平和と言っているが、キリストを知らずして何の平和か。愛、愛と言って、神の愛を知らずして、何の愛か、と。ジョン・チャヌさんは、なんだこのおじさん、と思ったのですが、構わずその牧師は聖書のことを話し続けて、しまいには、私が毎週、聖書の話をしに行ってあげるから、聞きなさい、と言い出しました。彼は、ありがた迷惑だなあと内心、思いましたが、丁重に、ご好意はありがたいですが、ちょっと私も忙しいので遠慮します、とお断りしました。ところが、それでもその牧師は構わず、私が暇だから行きます、と言って、ついに家まで押しかけてきて、聖書の学び会が、それこそ無理矢理始まりました。最初は迷惑だなと思っていたけれども、根が優しいジョン・チャヌさんはしばらく続けていくうちに、段々目が開かれてきて、ついにはイエスさまを救い主と信じるようになったということでした。無理にでも、押しかけてきてくれて、今では心から感謝していると言うことです。ジョンさんは「無理にでも」連れて来られたクチかもしれません。
さて、最後にこのたとえのしめくくりが24節「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は一人もいません。」つまり、こういうことです。あなたは「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。」と言いましたが、神はあなたも招いているのです。しかしあなたがそれを断っているのではないですか?と問いただしたのです。神は、バプテスマのヨハネというしもべを遣わして、悔い改めという神の国の門を入るよう、招いておられました。イエス様を遣わして、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と招いておられました。しかし彼らは、その招きに応じませんでした。
最後に、今回、このたとえを改めて読んでみて、ことごとく招待を断られたこの人は、よっぽど人々から嫌われていたのかなあ…という気がしました。もしかしたら、それが本当の理由なのかもしれません。断った人たちは、本当は招待してくれた人の家に行きたくなくなかった。それで理由にもならない理由をつけて断った。とすると、これは、罪びとの、神に対する態度を表わしているのかもしれません。神を避ける、神のもとに来ようとしない、神よりも世を愛する。そして、神の招きには、なんだかんだと理由をつけて、断る。そんな罪びとの姿が浮き彫りにされているようにも見えます。
神の国への招待状には「悔い改めて、福音を信じなさい」と書いてあるのかもしれません。私たちも、神の国に入りたいなら、この招待状に応じる必要があります。神の国に入りたいと言いながら、この招待状を拒んでいたということのないようにと、願わされます。
最後に24節「私の食事を味わう者は」とあります。神ご自身がご用意下さった食事です。文字通り、やがて復活して神の国で味わう食事のことともとれますが、これを象徴的にとって、私たちの魂を養う霊の糧、真のいのちを養う糧ととることもできます。これは、十字架の上でほふられた神の御子キリストを味わうということです。キリストが私たちの罪のために、自ら進んで十字架にかかってくださった。それによって、信じる者は罪の赦しを得、神に受け入れられました。聖霊を頂きました。永遠のいのちにあずかりました。そこに込められている神の深いご愛を味わい知りました。これらすべてによって、私たちの魂は養われます。神がご用意下さったのは、この上なく尊い御子キリストの十字架の死による救いです。神の方はこれほどの、この上ない犠牲を払って、私たちを御国に招いておられます。そのことを忘れてはいけないのだと思います。
もちろん、最終的に完全にその食事を味わうのは、世の終わり、神の国が完成してからですが、今もその前味を味わうことは許されています。私たちは、このキリストを味わうように招かれています。「味わう」というのは、単に知識として知っていることとは違います。たとえば、クリームならクリームというものをいくら成分表示を見て、あるいは言葉で説明されたものを読んでも、それだけではクリームというものがどういうものか、わからない。実際に一口食べてみて、初めてああ、こういうものか、と知ることができます。そのように、キリストを体験的に味わうということができます。神からの招待状に応答するなら。
このたとえの「しもべ」は、単数形でイエス様トのことと理解されます。イエス様は言われました。ルカ 5:32
悔い改めるとは、根本的には、神に立ち返るということです。一つ一つの具体的な罪を悔い改めることも必要なことですが、それ以前にまず、生ける神に立ち返ることです。イエス様は、私たち罪びとを招いて、神に立ち返らせるために、世に来られました。そのために、十字架にかかって、尽きることのない罪の赦しをご用意くださいました。たとえのしもべが「さあ、おいでください。もう用意ができましたから」(17節)と言ったように、主は私たちにも同じように言われます。あなたを招き入れるための用意は、もうできているから、必要なことはわたしがすべて用意してあるから、恐れずに、わたしのところに来なさいと。無尽蔵の赦しを頂けるからこそ、私たちは何度でも悔い改めること、神に立ち返ることができます。