今朝の舞台も前々回からの続きで、イエス様を食事に招いたあるパリサイ人の有力者の食卓での一コマとなります。彼の仲間たち、錚々(そうそう)たる律法学者、パリサイ人たちも招かれていたテーブルです。前回は、そこに呼ばれた来客たちが、上座を選んでいる様子をご覧になって、イエス様が彼らに語られましたが、今度は食事に招いてくれた人に向かって貴重な教え、そして悔い改めの機会を与えて下さいました。それは彼一人だけにあてはまるものではなく、その場にいた来客たちにも、また弟子たちにも、そして私たちにもあてはまるものです。
「イエスはまた、ご自分を招いてくれた人にも、こう話された。『昼食や晩餐をふるまうのなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。…」当時も、普通に、友人、兄弟、親族などを招いて食事をしていたことでしょう。仲睦まじく、お互いに行き来することはもちろん、喜ばしいこと、願わしいことです。イエス様の意図も、もちろん、これらの人をいっさい食事に招いてはいけないということではありません。むしろ、詩篇132:1「見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。」とあります。仲睦まじく、良好な関係を持つことは、祝福であり、幸いなことです。で、聖書にはときどき出てくるのですが、強調したいポイントがあるときに、それと対になっていることをわざと極端な、否定的な表現をすることがあります。たとえば「AよりBの方をより愛する」というときに、「Aを憎み、Bを愛する」などと言います。実際はAも愛しているけれども、それよりもBをずっと愛するということを表しています。それはBを非常に愛するということを際立たたせるための表現です。ここでも、これらの人を招いてはいけないというのは、次に出て来る、これこれ、こういう人たちを招きなさい、ということを強調するための表現に過ぎません。安心して呼んで下さい。ただ、ここに、「近所の金持ち」があるのは、ちょっと微妙な含みがあるような気がしますが…。
ともかく、極端な言い方ですが、これらの人を招いてはいけない、それはなぜかというと、「彼らがあなたを招いて、お返しをすることがないようにするため」というのです。これも、別にお返しを受けることが悪いと言っているのではありません。それはそれで、普通の営みとしていいのです。ただ、ほかに、食事に招くべき人たちがいることを忘れている。あるいは、無視している。蔑ろにしている。それらの人たちにこそ、心を向けなさいとイエス様は言われるのです。「 食事のふるまいをするときには、貧しい人たち、からだの不自由な人たち、足の不自由な人たち、目の見えない人たちを招きなさい。…」当時は、ここに挙げられているような人たちが今よりも多かったのでしょう。自分が悪いわけではないのに、そういう体に生まれついた人たちもいたでしょうし、事故や病気でそうなった人たちもいたでしょう。医学も発達しておらず、福祉制度も未熟だったでしょう。そういう人たちのことが、パリサイ人は眼中になかった。存在しないかのように無視していた。むしろ、見ないようにしていた。イエス様はそれらの人たちをこそ、食事に招きなさいと言われたのです。
続けて、イエス様は言われました。「その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。あなたは、義人の復活のときに、お返しを受けるのです。」もちろん、本当はただ隣人愛から、手を差し伸べるのが本来あるべき姿なのでしょうが、ここでは彼らパリサイ人にあわせて、お返しというのなら、神が与えて下さるのだから、神に期待していいから、これらの人を招きなさい、と諭されたのでしょう。この世でお返しがなかったら、来るべき時に、神からお返しが来る。見ておられて、お返しをして下さる方が、確かにおられる。この神に望みを置いて生きるのが、信仰者の基本的な姿勢であるということ。これがこの箇所のポイントだと思います。
身近な人たちを招いて一緒に食事をすることは良い事。ギブ・アンド・テイクというのもその関係が長続きするためには良いことかもしれません。それがダメと言っているわけではない。ただ、この世の損得勘定だけで、動いているとしたら、それは信仰者の生き方として大切なことを欠いている。天で見ておられるお方、お返しを用意して下さるお方の存在を忘れてはいけませんよ、そのことをあなたの生活にあらわして、天に宝を積む歩みをしなさいと、彼らを、また私たちをイエス様は導いておられるのでしょう。
良いことも、悪いことも、お返しの時があるというのが、聖書が教える世界観です。善も悪も、すべて清算される時が備えられてる。もし、本当に、リアルに、現実に、その時が来るのが確実だとしたら、そこに私たちの人生の焦点をあわせて生きるのが、最も知恵のある生き方ではないでしょうか。その時になって、こんなはずでは…と後悔しないように。
ところで、「義人の復活のとき」にお返しを受けると言って、その「義人」とはどういう人のことだったでしょう。聖書には「義人はいない。一人もいない」とも書いてあります(ローマ3:10)。これはキリストを離れては、義人は一人もいないということです。悔い改めて「これからは神を信じ、神に従って生きます」と決心し、イエス・キリストを、神が遣わした救い主であると信じた者には、完全・完璧なキリストの義が与えられています。キリストの傷一つない、罪の汚れも染みも一つもない完全な義を、私たちはただで頂いています。そのキリストの義を自分のものにしたので、神に受け入れられています。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:17)とあるのは、このことを信じる信仰のことです。キリストが下さった義のゆえに、神に受け入れられていると信じて、生きることです。そのように生きる人を、神は義人と認めて下さるのです。その意味で、キリストの義を頂いていると信じている人はみな、義人の復活のときに復活させていただけるでしょう。
ただし、世の終わりの場面については別な面もあります。その時、すべての国の人々がキリストの御前に集められて、キリストの右と左に分けられます。そしてキリストは右にいる人たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。あなたがたはわたしが空腹であったときに食べ物を与え、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、わたしが裸のときに服を着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからです。」ここだけ見ると、こういう行いのゆえに救われるように見えますが、これは悔い改めてキリストを信じた人には聖霊が与えられるので、このような隣人愛、兄弟愛の実を結ぶようになるということです。聖霊がそのように霊の実を結ばせて下さるのです。興味深いことに、キリストからそのように言われた人々は、「私は、いつイエス様に食べさせたり、飲ませたり、そんなことをしましたか?」と言います。それに対してイエス様は言われました。「まことに、あなたがたに言います。あなたがが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイ25:31以下)。最も小さい者とは、お返しができないくらい無力な人のことでしょうか。そろばんをはじいて、この世の損得で生きている人には素通りされる人。しかしイエス様は、その人にしたことは、ご自分にしたことだと言われました。その人と一体だということです。それほどその人をイエス様は深く愛しておられるということです。義人の復活のときに、イエス様からこのように御声をかけて頂けるとは、なんと幸いな夢のようなことでしょうか。
私たちが地上で行う隣人愛のわざに対する神からのお返しは、義人の復活のときです。もちろんその前に与えられることもありますが、そうでない場合でも世の終わりの義人の復活のときにすべて清算されます。ただ、そのときまでにタイムラグがあります。すぐにお返しが来るわけではありません。そこに信仰が要ります。信仰が試されます。待つということは、せっかちな人には難しいことでもあります。それででしょうか、聖書には神が報いて下さるから、善行に励めと勧める個所がいくつもあります。旧約聖書の箴言19:17
報いをいっさい求めないのが、本当の愛だという人もいますが、実際、そうしていらっしゃる方もたくさんいると思いますし、みなそれができたら一番いいのかもしれませんが、ただ私たちのことを腹の底までご存じの神は、現実的といいますか、報いを期待していい、励みにしていいから、善行に励めと言ってくれます。理想論ばかり掲げて、何もしないよりも、報いに励まされてでも実際に困っている人を助けるという実を結べと。ただ人からお返しを求めるのでなく、神から頂くのを待ち望みなさい、というのです。それは神に喜ばれる信仰のわざでもあります。この神の心遣いは、ありがたく頂かせて頂きたいと思います。
また、人からのお返しを期待するのは、相手がこちらの期待通りにしてくれないと不満になるでしょう。こんなにして上げたのに、、、とせっかく善い事をしたのに、イザコザの種になる。人からの賞賛を期待して何かをして、誰も自分を賞賛してくれないと、怒りになるかもしれません。もし、そういうことがあった時には、神がそのようにしておられると思った方がよいのかもしれません。私たちの間違った軸足の置き方、焦点がずれていることに気づかせるために、神がそうしておられるのかもしれないと。その時に神からお返しを受けると心に定めることによって、そんな不平不満のガスでいっぱいになることから救われます。人からは報われなくても、気にかけない。いやむしろ、人から報われないならその分、正しく報われる神が上乗せして報いて下さる。利子を付けて報いて下さる。よく私にだけ信頼して、この時を待つことができたね、とその信仰と忍耐に過分なおほめの言葉を頂けるのかもしれません。私たちは目の前のことに心を奪われ、近視眼的になりがちですが、信仰者は、まだ見ぬその日その時のことを思って、今の時をアレンジし、行動していくもの。イエス様は、私たちを、そのような信仰による歩みへと導いておられるのだと思います。
神はすべてを正しくさばかれることの保証として、キリストを死者の中から事実、栄光のうちに復活させました。キリストの復活は、単に私たちも復活することを保証するだけでなく、神が必ずご自身に信頼し通した者に栄光を与えること、つまりすべてに正しく報われることを実際に歴史の中でして見せて下さったのです。必ず、現実に、このように神が正しくお報いになるときを用意していると、言葉だけでなく、デモンストレーションして下さったのです。 この新しい一週間、信仰の遠近両用メガネをかけて、かの日を仰ぎ見つつ、足元の一日一日を神のわざに励ませて頂きたいと思います。