今朝の舞台は前回の続きで、イエス様を食事に招いたあるパリサイ人の有力者、重鎮の食卓です。そこには、おそらく彼の仲間たち、錚々(そうそう)たる律法学者、パリサイ人たちも招かれていたでしょう。しかしながらまた、そういう錚々たる面々が集まるところというのは、やっかいなこともありそうです。時代も民族も越えて普遍的な、人間というものの業といいましょうか、悲しい習性といいましょうか、がここにもありました。
そんなことをふまえて、今日の個所は、文字通り披露宴に呼ばれたときの心得というよりも、神の国のテーブルに招かれたクリスチャンの心得として読みたいと思います。
招かれた人々は、上座を選んでいたと言います。特にこの律法学者、パリサイ人という人種は、上座が大好物だったようです。イエス様は彼らについて言われました。「わざわいだ、パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、広場であいさつされることが好きだ。」(11:43)「律法学者たちには用心しなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることが好きで、広場であいさつされることや会堂の上席、宴会の上座を好みます。」(20:46)お猿さんが高いところが好きだと言いますが、人間もどうやら同じようです。しかしお猿さんが猿山のてっぺんを陣取るために争うように、上座を選ぶ習性は、往々にして悶着のもとになります。つまらぬことで張り合い、争いが起こります。それによって、どれほど周りに迷惑をかけ、多くの傷つけあいがなされ、愛する人まで傷つけ、神の御心が傷つけられ、神の国の進展が妨げられてきたことでしょう。考えてみれば、まったく愚かしいことです。メンツ、プライド、そんなものに捕らわれなければ、どれほど自由でノビノビと、そしてみんなが平和で、そして神のみわざが進展することでしょう。
前にも言いましたが、有名な指揮者であるバーンスタインは、第一バイオリン奏者は喜んでやるという人がいくらでもいるけれども、第二バイオリンを喜んでやる人は見つけるのに苦労すると嘆いていたとか。一流の第二バイオリン奏者が見つかったら、彼は大喜びしたことでしょう。私たちも、人それぞれに、神から与えられた役割というものがあります。それが第一ナントカであれ、第二、第三、第十ナントカであれ、どっちが偉いとか上とか、人と比べるのでなく、神を喜ばせるために、喜んでその役割を行う者でありたいものです。主の判断基準は忠実さです。第一でも第十でも、忠実に仕えた者には、主は全く同じおほめの言葉をかけてくださいます。
彼らが上座で自分が偉くなったような気がして、そうすることによって自分の価値が高くなったように感じて、気分がいいのは、裏を帰せば、ありのままの自分には自信がないことのあらわれでもあります。だから、人からすごいと見られないと、不安なのでしょう。彼らにも福音が必要なのだと思います。悔い改めて、キリストを信じた者は、みな、神にこの上なく愛されている神の息子、娘です。神のかけがえのない子です。そのことが本当にわかって、魂の必要が満たされたら、彼らも行き過ぎた承認欲求から解放されるのでしょう。福音は、私たちの魂の霊的必要を満たして、様々な束縛から解放してくれるものです。
このたとえのポイントの一つは、席順を決めるのは主人だということです。これは、本当の栄誉は、神から来るということを教えています。神の国の席順は、すべてをご存じである神がお決めになる。自己申告制ではないし、フルーツバスケットではないのですから、隣の人を押しのけて席を取るのでなくて、すべてをご存じの神がお決めになります。人が見ているところでも見ていないところでも、隠れたところまでご存じの神です。そして往々にして、それは人が見ているところをひっくり返すもの、逆転させるものになるようです。
このたとえの中で、8節に「あなたより身分の高い人が招かれているかもしれません」とありました。見てわかるようなものではなくて、外見だけではわからないけれども、実は身分の高い方だった。まるで水戸のご老公のように、一見、どこかのご隠居、実は天下の副将軍のような。そのように、教会ではあまり目立つ方ではないかもしれないけれども、しかし、すべてを見ておられる神の御前には、とても立派なクリスチャンということも、きっとあるでしょう。その人は、すべてが明らかになる神の国では見違えるような輝きを放つのでしょう。愛の人、祈りの人、地味に、静かな情熱を燃やして伝道熱心な人、黙々と善きわざを実行している人もおられるでしょう。あるいはまた、忍耐の人。厳しい試練を神に信頼して忍耐して過ごしている人。神はすべてをご存じで、すべてにふさわしく報いられます。使徒パウロは言いました。第一コリント4:5
聖書的な「報い」について、小畑進師、「コリント人への手紙第一 提唱」より引用。「世に盛大を誇る教会、著書の数を誇る神学者、(キリスト)教界に名を売る伝道者らの、はたして、「その日」、聖なる神の審判の火に、何を残すを得ることか。しかして、その日、試練の火の中に、いよいよ輝きを増す者は、意外にも今日世間には名無く、僻地に黙々と励む人々ではあるまいか。犬どもにその腫れものをなめられる乞食ラザロがアブラハムのふところにあげられ、富める名士は炎の中に苦しむ(ルカ16;19-31)。世間の尊敬を得るパリサイ人は退けられて、胸をたたく取税人が高められる(ルカ18:9-14)。真に宗教たるゆえんは、最後の日の審判を視野に置くときに、最も実感されるものです。そしてまた、この視点よりして、パウロは報いの思想を宣明するのです。」この視点は、私たちをあるいは励まし、あるいは恐れさせる、私たちに必要なものだと思います。
この披露宴のたとえは、単に披露宴や神の国の席順のことだけではなく、より深くは人のあり方、姿勢を問うているものだと思います。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」以前見た、先のものが後になり、後のものが先になるというのと似た思想です(13:30)。聖書の他の所には、神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるともあります(ヤコブ4:6、第一ペテロ5:5)。
ある方のあかし。時に、人生の中で、心ならずも、末席に着かせられること、低くさせられる事があります。Aさんの家は、キリスト教とは縁もゆかりもない家庭だったそうですが、3人の子どもたちと奥様がイエス様を信じて、洗礼を受け、Aさんだけが残りました。家族は当然、彼の救いのために祈り続けました。このAさんに試練が訪れました。あるとき、会社執行部を批判したことで、見事に左遷され、関連会社に飛ばされることになりました。Aさんはガックリ来て、すべてに嫌気が差したそうです。そんな時、息子の一人がAさんに対して「何も出来ない人間を恐れないで、天におられる神を恐れるべきだ」と言いました。「何を子どものくせに生意気なことを言って」とAさんは思いましたが、しかし、彼はそこで思い返し、聖書の教えを聞いてみようと思ったそうです。子どもの言うことにも、耳を傾ける謙虚さがあったのでしょう。その結果、Aさんはすべてを支配しておられる神に信頼することの価値を見出しました。それは苦境にある人の心の支えになることがわかりました。そしてイエス様を信じて、洗礼を受けました。55歳だったそうです。その後、Aさんの勤めていた会社は執行部が代わり、左遷されていたAさんは復帰して、その後、この会社でもう一働きすることができたそうです。神の御手によって低くされた時にも、へりくだって、神に立ち返ったときに、神が丁度良い時に元に戻して下さったのでしょう。
なぜ、高慢は破滅に先立つのでしょうか。人の話、忠告や助言を聞かないからでしょうか。自分をかえりみないからでしょうか。言っても無駄だとなると、神からも人からも、見放されるからでしょうか。反対に、謙遜はどうして栄誉に先立つのでしょう。人の話に耳を傾ける、忠告や助言、叱責にも耳を傾け、自分をかえりみるからでしょうか。そして自分が間違っていたと思ったら、改めるからでしょうか。
それらもあると思います。ただそれだけでなく、そもそも、へりくだりの道そのものが、神がお定めになった祝福の道でもあります。それは、イエス様にならうことでもありますから。マタイ20:25-28
自分を低くするとは、人に仕える者となることも含まれています。
神は、恵みをもって、私たちを御国のテーブルに招いておられます。しかし、人々が上座の方を求めて、上座に主人のイエス様がおられると思って我先にとそちらを目指し、上座の席に目を注いでいると、思わぬ方にそのお姿が現れるのではないでしょうか。末席も末席、一番の末席にイエス様がおられるのではないでしょうか。自分で上座、上座と求めていった者は実は、イエス様から遠く離れていた。末席こそが、一番の特等席だったと。
キリストとは反対に、サタンは神の座に着こうと高く高く舞い上がろうとして、さばかれた堕落天使です。サタンの道とキリストの道は、正反対でした。高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ、です。最後に一カ所、聖書のみことばを。ピリピ2:3-11
このイエス様のみあとに従って、十字架の道、へりくだりの道をイエス様と共に歩ませて頂き、そしてその先にある栄誉にも、イエス様と共に与らせて頂きたく願います。