礼拝説教要旨 2025年11月16日

自分の息子が

ルカの福音書14:1-6

<はじめに>

章が改まって14章。舞台は、ある安息日の午後、あるパリサイ人の家の食卓となります。この食卓でなされたイエス様のお話が、24節まで4つの段落にわたって続きます。当時、安息日は午前の礼拝が終わると、午後は親せきや友人を招いて宴会のような食事をする習慣があったそうです。このときも、このパリサイ派の指導者はイエス様一行を招いたのでした(12節)。彼はどういうつもりでイエス様を招いたのか。1節「人々はじっとイエスを見つめていた」とか、2節にはちょうど仕組んだように、イエス様の真正面に水腫を患った人がいたとあることから、この人は、イエス様を罠にはめるために招いたのでは?と勘ぐられるようです。確かにこの書き方は、そう匂わせるものですが、しかし、それにしては、イエス様が「安息日に癒すのは律法にかなっているか」と問われたときに、彼らは何も答えを用意していませんでした。当然、そのような問いかけは来ると予想できたはずなのに。また、ほかの箇所では、イエス様に反論できなかったパリサイ人たちは、怒りに満ちたと記されていますが、ここにはそういう記述はありません。確かなことはわからないのですが、このパリサイ人は、もしかしたら、民衆からのイエス様の人気がとどまるところを知らないし、どうあがいても太刀打ちできなさそうなので、これは敵対するのは得策ではないと考えて、イエス様との友好関係を作ろうとしたのかもしれません。あわよくば自分たちの仲間に取り込んでしまえれば、と考えて、イエス様を食事に招いた。パリサイ派の「指導者」、いわば重鎮ですから、そのような政治的な腹があったのかもしれません。

<① 黙っていた(1-4節)>

ともかく、パリサイ派のある指導者の食卓に着くと、イエス様の目の前に水腫を患った人がいました。水腫とは、体内の余計な水分が、からだの組織内あるいは体腔内にたまった状態のこと。旧約聖書では、神から呪われた結果と見なされることもあるようです(民数5:21‐22、詩109:18)。彼は招かれたのではなく、自分で入って来たのでしょう。当時、高名な先生が来た時には、友人知人でなくても、その家に来て、大切な神の話を聞けるようにする習慣があったようです。たとえば、やはりパリサイ人とイエス様が食事をしている時に、遊女がなぜかそこにいて、イエス様の足を涙で濡らし、香油を塗ったという記事がありますが(ルカ7:37-38)、彼女も招かれたのでなく、その家にイエス様がおられると知って、自分で入ってきたのでした。ここでも、この水腫を患った男は、イエス様がこの家に入るのを見るなどして、ぜひ、癒して頂きたいと、イエス様の真ん前に場所を取ったのでしょう。人々から冷たい視線で見られることも構わず、イエス様に癒して頂きたくて、勇気を出して、この場所に来たのでしょう。

そんな彼の切実な願いが、イエス様に届かないわけがありません。イエス様は彼を癒されます。ただ、その前に、この場にいた律法学者やパリサイ人に、イエス様の方から一つの質問を投げかけました。「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」当時のパリサイ人の律法理解では、かなっていないと答えるところです。しかし、ここで角を建てるわけにはいかないので、そう言うわけにはいかない。かと言って、かなっていると答えたら、律法学者たちから非難ごうごう。へたをすると、寝返ったと言われ、今の自分の立場、今の生活を失うことになりかねない。彼らはそんな算段をして、応とも否とも答えず、黙っていたのでしょう。

対照的なのは、イエス様です。イエス様は自由です。人々の視線が注がれる中、当局から批判され、敵対されることを知りながら、それらのものを恐れることなく、神のみこころを行なわれました。様々な思惑から、ただ沈黙するしかない、不自由な彼らの目の前で、イエス様は、その水腫を患っていた人を癒しました。彼を「抱いて」癒したのは、彼に対する熱いご同情の思い、憐れみの思いからでしょう。また、ここでこの人を「帰された」のは、彼がこのパリサイ人に招かれた客人ではなくて、ただイエス様に癒してもらいたくて来ていたからでしょう。

ここのパリサイ人たちは、露骨にイエス様に反抗したわけではありません。しかし、イエス様についたわけでもありません。沈黙しました。私たちも、イエス様から何かを問いかけられた時、答えが分かっているのに、はいと答えることができず、沈黙してしまうことはないでしょうか。これが正しいとわかっているのに、それを認めることを拒んで、沈黙していることがないでしょうか。たとえ、露骨に反対していなくても、それはやはり不従順です。主にあわれみと助けを祈り求めて、素直に主に従うことができますように。詩篇 51:10

神よ 私にきよい心を造り 揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。

<② 自分を愛するように あなたの隣人を(5-6節)>

水腫を患っていた人を帰された後で、イエス様は、沈黙するばかりだった彼らに、たとえを用いて諭されました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者が、あなたがたのうちにいるでしょうか。」(5節)「すぐに」です。その時には反射的に、即座に引き上げるでしょう。モタモタしてたら手遅れになります。安息日に引き上げることは正しいことだろうか、よくないことだろうか、などと考えない。ほとんど反射的に、即座に引き上げる。それをさせるのは自分の息子への愛情です。また息子と牛を並べていますが、息子と牛が同じということではなくて、息子どころか牛でも同様にするでしょう、ということ。当時は家畜に対する愛着も家族のようなものだったと言いますし、また牛は大変高価な財産でしたから、牛を惜しむ気持ちが強くあります。そういう憐れみ、惜しむ気持ちが、理屈抜きに、そうさせるはずです。自分の息子、自分の牛だったら。

つまるところ、パリサイ人たちにとって、水腫の人のことは、所詮は他人事だったということです。最も大切な戒めの一つは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ですが、その真逆。彼らの関心事は、自分のために律法を落ち度なく守ること。自分の義を守ることだけに汲々としていて、水腫の人に対する愛も憐れみもなかった。もちろん、自分を愛するのまったく同じように隣人を愛することはできないにしても、その相手の身に自分を置いて考えてみる、自分がその立場だったら、と思ってみる。それだけでもずいぶん違うでしょう。彼らはその程度のことすら、思わなかったのでしょうか。それとも、思うことはあっても、パリサイ人としての立場を守るために、考えないことにしていたのでしょうか。彼らは、ここでも、何も答えることができませんでした。このパリサイ人の姿を他山の石として、改めて私たちも教えられましょう。マタイ22:37-40

22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

<③ 自分の息子が(5節)>

パリサイ人たちは、自分の義を守ることにきゅうきゅうとして、心に余裕がなく、水腫の人の苦境を思いやることができませんでした。それは、罪と言ってしまえばそれまでですが、また別の見方をすると、神がどれほど自分たちを愛しておられるか、神がどのような慈しみ深い目で自分を見て下さっているか、わからないから、そんな態度になってしまっているのかもしれません。自分が神にこの上なく愛され、これ以上ないほどに神に受け入れられ、確かに神に認められ、しっかりと神に守られ、神にとってかけがえのない存在とされていると知ったら、彼らも変えられるでしょう。神の愛を知ることは、私たちを縛っているさまざまなものから解放します。

イエス様は、ご自分が水腫の人を癒されたことを、たとえの中で、自分の息子が井戸に落ちたら、誰でもすぐに引き上げることにたとえました。ということは、イエス様にとって、あの水腫を患った人は自分の息子のように思っているということです。人が自分の子を愛して、井戸に落ちたらすぐさま引き上げずにはおかないように、そのように、神は私たちのことを愛しておられるということです。事実、悔い改めて、キリストを信じた者は、みな、神の愛する子どもとされています。

ヨハネ1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
ガラテヤ3:26
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。
Ⅰヨハネ 3:1-2
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。…
3:2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。…

神は私たちをご自身の子どもとして永遠の昔から定めておられたので、罪と滅びという深い穴に落ち込んでいた私たちを深くあわれみ、尊い御子をさえ、お遣わしになって、私たちをその滅びの穴から引き上げて下さいました。今、キリストを信じる私たちは、事実、神の子どもです。間違いなく、永遠の愛をもって、極みまで愛されている者です。このことの確信が、聖霊によって、心の深くに与えられますように。

「 罪咎を赦され 神の子となりたる 」新聖歌 266番

アイデンティティという言葉は、日本語に訳しにくい言葉ですが、「自分は何者であるか」という意識のことです。これは人間の精神の核となる、とても大切なものだそうです。進化論のように、自分の先祖はアメーバみたいなものとか、猿の出来損ないと教えられて、そのように思ってしまうと、自分が尊い存在に感じられない、卑しい存在に感じてしまうという面があるかもしれません。もちろん、他にもたくさんの要因があるのですが。他方、この世界を造られた神の子どもであるというアイデンティティは、自分が尊い存在であると感じさせてくれるものでしょう。

自分が神の子どもであるという事実を過小評価しないようにしましょう。世界を造られた聖なる神の愛する子どもとされているということを、現実のこととして認識しましょう。それはどれほど、輝かしい栄光であることか。いわば、全宇宙を治める王族の一員となったようなものです。そしてやがて、永遠の栄光の御国を受け継がせて頂きます。

もちろん、王の王である方の一族だからと言って、高慢になるのではありません。私たちの模範はイエス様です。永遠の神の御子であられる方は、父のみこころに従って、ご自分を低くされて、人々に仕えられました。私たちは神の子どもとして、御父のみこころをこの地上で行うようにと、この地に置かれている者です。エペソ5:1-2

5:1 ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。
5:2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。