この13章は悔い改めがテーマとなっています。あまり楽しいテーマではないかもしれませんが、それは、私たちが「いのちを持つため、それも豊かに持つ」道だと思います。私たちの良き羊飼いであるイエス様は、私たちがいのちを豊かに持つようになることを望んで、その恵みにあずからせようと、私たちを導こうとしておられます。今朝も、そのイエス様のみことばに耳を傾けましょう。
「ちょうどそのとき」とあるので、ここは前の段落を受けての話です。我こそは、イエス様の側近、イエス様といっしょに食事までしているし、イエス様から直接、教えを受けていると、そんなことで安心し、当然、神の国に入れると勘違いしていた弟子たちは、イザ、その時が来たら、イエス様から知らないと言われ、天国の門前でシャットアウトをくらうかもしれない。なぜなら、神の国に入るには、悔い改めという狭き門を通らなければいけないから。イエス様といっしょに食事したとか、関係ない。だから、弟子たちよ、あなたがたも、熱心に悔い改めなさい、というのが前回でした。そんな前段を受けての今日の個所です。
このとき、何人かのパリサイ人がイエス様の所に来て、その地域の領主ヘロデが、殺そうとしているからここから出て行った方が良いと言ってきました。実は、彼らはヘロデから差し向けられて来たと思われます。彼ら自身も、イエス様にはこの地域から出て行ってもらいたくて利害が一致したでしょう。このヘロデは、ヘロデ・アンティパスのことで、当時ガリラヤとペレヤ地方の領主でした。彼は、異母兄ヘロデ・ピリポの妻を横取りした罪を、預言者バプテスマのヨハネに咎められたため、ヘロデは彼を投獄し、最後は宴会の座興に首をはねたということがありました。ところがこのヘロデ、のちに良心の呵責に苦しんでか、ヨハネの亡霊に苦しめられます。亡霊と言っても本当にヨハネが化けて出たわけではなくて、ヘロデが妄想でそう思っているだけですが。彼は、イエス様が、ちまたで悪霊を追い出し、病人を癒している噂を聞いて、これは、自分が首をはねたあのヨハネのよみがえりだ、だからあんな不思議な力があるんだ、とブルブルと震えて恐れていたのです(マタイ14:1-2)。それでヘロデは、イエス様を脅して、追い出そうとしたのでしょうか。
憐れな罪人ヘロデ。過去に犯した罪の亡霊におののく罪人の姿です。彼が、その亡霊から、その苦しみから逃れる唯一の道は、自分の罪を認め、神の御前に告白し、悔い改めてキリストを信じることだったのですが、彼は悔い改めるどころか、イエス様を脅して追い払おうとするようでは、救いようがありません。恐れているくせに、悔い改めることを頑なに拒む。神に立ち返って、神に従います、という決心は絶対にしない。自我がガンとして拒む。そして、悔い改めを迫るイエス様を、目ざわり、耳ざわりとばかりに追い払おうとする。ここにも、読む者の魂の姿を映し出す鏡がありました。
ヘロデが殺そうとしていると告げられたイエス様。そんな脅しに屈しません。イエス様は、パリサイ人たちの目の前で、領主ヘロデを「狐」呼ばわりしました。イエス様がヘロデのことを「あの狐」と呼んだというのは興味深いところです。もちろん、ヘロデの容姿のことを言ったのではありません。「あの狸親父が!」のようなノリで言ったのでもないと思います。狐は、狡猾さ、また取るに足らない、つまらないものを表すそうです。ここでは、イエス様の身の安全を思う風を装って近づいて来たパリサイ人、彼らを遣わしたヘロデの猿知恵・猿芝居と言いますか、その安っぽい魂胆はお見通しということを暗に言っているのか。そして、領主ヘロデが殺すぞと脅してきても、ヘロデごときは取るに足らない、つまらぬもの、恐れることはない、ということを表しているのでしょうか。そして、今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、そして三日目に働きを完了して、出ていくというのでしょう。ヘロデに言われたから、三日目に出ていくのではない。元々、今日、明日はこの地方でみわざをして、三日目にここでなすべき働きをなし終えて、ここを去るおつもりだったのでしょう。つまり、メシアとしての働きを決めるのは、あくまでもイエス様ご自身。主導権はイエス様ご自身にあるのであって、ヘロデが決めるのではない。三日くらいは待って下さい、と猶予を乞うのでもない。なすべきことを完了したから、出ていくのだ。そのことを勘違いしないように、ということでしょう。ヘロデごときが、イエス様のいのちを奪うことは、できないのです。
「しかし」(33節)とイエス様は続けました。「わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」イエス様は、ヘロデに殺されることはないが、エルサレムで死なれる。そのことが起こったときに、イエス様の意に反して、祭司長たちに殺されたと勘違いしないように、あらかじめ、予告したのでしょうか。また、イエス様は、ご自分の命惜しさに、ここから逃げるのではない。それどころか、自らの死に場所であるエルサレムに向かって、進んでいくのだと言っているのでしょうか。自分の足で、自分の意志で、一歩一歩、エルサレムに向かって進んでいかれるイエス様の心中は、どのようなものだったのでしょう。
ヘロデへの言伝は33節までで、34節以下は、イエス様の口から漏れた嘆きです。「エルサレム、エルサレム」二回、繰り返されているのは、感情の激しさを表わすのでしょう。肺腑をえぐられるような嘆き。ご注意下さい。ご自身を待ち受ける、十字架の残酷な刑罰を思って、嘆いておられるのではありません。裁かれるエルサレムの行く末を思っての嘆きです。それも、ご自分を十字架につけようと牙をむくエルサレムに対して、なおもこれを惜しむ心情、熱情を吐露しておられるのです。イエス様、わかってますか?ご自分がこれから、十字架にかけられようとしているんですよ、それも、そのエルサレムの人々によって。本当にわかってますか…?そう思わず、言いたくなるようなイエス様の嘆きです。ご自分のことよりも、滅ぼされるエルサレムのことで、心が引き裂かれる。愛とはそういうものなのでしょう。自分のことよりも、愛する者の滅びに肺腑がえぐられるものなのでしょう。
「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」かつては、神の都と称されたエルサレム。ですが、弟子たちが、自分がイエス様の側近であることをむなしく誇り、悔い改めから遠いところにいたように、エルサレムもまた、己を神の都とおごり、高ぶり、悔い改めを迫る預言者たちを拒んで、救いを拒んだのでした。神は、罪を犯し続けて滅びの道をひた走るイスラエルの民をなんとか、そこから引き戻して、ご自分の翼の下にかくまおうとして、預言者をお遣わしになりました。彼らを滅びの道からいのちの道へ、不義の道から義の道へと引き戻そうと、何度も預言者を遣わしたのです。悔い改めなかったら滅びると、神の裁きも伝えました。それで、彼らが立ち返ってくれたら、神はご自身の御翼の陰に、まるでご自分のひなのように、彼らを受け入れて下さったのです。あの放蕩息子を迎えた父親のように、大喜びで迎えてくれたのです。ところが、親の心子知らず。彼らは、それを好みませんでした。むしろ、罪の中にとどまって、悪にふけっていたい彼らにとって、預言者は自分たちの楽しみを邪魔する者でしか、ありませんでした。目ざわり、耳ざわりな存在でしか、ありませんでした。彼らは預言者たちを殺し、ついには神の御子イエス・キリストをさえ、十字架にかけてしまうのです。
悔い改めを迫る預言者は、神がさしのべておられる救いの御手です。その、神がさしのべておられた救いの御手を拒み続けるなら、その結末はどうなるか…。
31節「見よ、おまえたちの家は見捨てられる。わたしはおまえたちに言う。おまえたちが『祝福あれ、主の御名によって来られる方に』と言う時が来るまで、決しておまえたちがわたしを見ることはない。」ここの「家」は単数形で、神殿のことと思われます。それを「おまえたちの家」と言われました。かつては、神が「わたしの家」と呼んでいた宮は、今や「おまえたちの家」として、神から突き放されます。神はもうそこにはおられない。神不在の神殿。そして、神の裁きはエルサレムにくだり、紀元70年、将軍ティトス率いるローマ軍によって徹底的に破壊されたことは、歴史が証言している通りです。かつて世界で最も麗しい都としてこれを飾り、慈しまれたのは神ご自身でしたが、今や、背信背徳の都と成り下がったのを完膚無きまでに破壊されたのも、神ご自身の御手によることでした。神にとって、どれほど残念無念なことだったでしょう。我こそは、神の都、とおごっていた先のものが、あとになってしまったのです。
「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」は詩篇118;26の引用で、待望のメシアが来られる時に歌われる賛歌とされていました。これは世の終わりの時、イエス様の再臨の時のこと。今、悔い改めを拒むなら、次は再臨の時までイエス様を見ることはない。長い長い暗黒の時代の宣告です。しかし、ここで「祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と人々が賛美するということは、その時には彼らも悔い改めて、イエス様を主と認めるようになっているということでしょう(参考ローマ11:25-27)。ここには、エルサレムに対する厳正な裁きの宣告と共に、すでに回復の希望の芽が与えられているのです。彼らが絶望してしまわないようにとの、イエス様の親心でしょうか。
最後に、「エルサレム、エルサレム」との、イエス様の嘆きをもう一度、心に留めたいと思います。ここには、ご自身の民への深い愛があらわれていました。裁かなければならないことを、深く嘆いておられました。しかし、ついにはお裁きになったのです。ご自身にとってこの上なくつらいことだったでしょうけれども、いつまでも裁かないということはなかったのです。このことを心に刻む必要があると思います。最後には回復するとはいえ、地上ではいったん、完膚なきまでに滅ぼされた。悔い改めを拒み続ける者に対して、猶予は永遠にあるものではないということ。いつまでも拒み続けていると、いつかはその時が来るということです。悔い改めを拒み続けたエルサレムの人々の頑なさを他人事とせず、自らの内をかえりみてみるのも、有益あるいは必要なのかもしれません。
繰り返しますが、「悔い改めたら神の国」なのです。悔い改めの向こう側に、神の国の祝福が用意されているのです。私たちは悔い改めを拒むことによって、その祝福を受け損なっていることがあるのではないでしょうか。イエス様が下さるまことのいのちを「豊かに持つ」ことができずにいるのではないでしょうか。また、有能なあの人、この人、とっても良いところ持っているあの兄弟、この姉妹。なのに、悔い改めることができないために、どれほど損をしていることか。福音を深く知らず、神の愛を知らず、自分を守ろう、守ろうとして、あるいはプライドのゆえに、悔い改めを拒んで。
キリストの十字架は、神の義と愛と、その両面をあらわしています。罪は、悪は、必ず裁かずにはおかない。それを、自分の身に引き受けるか、それともイエス様に負って頂くか。悔い改めるなら、イエス様に負って頂けます。イエス様は、想像もできないくらい深く私たちを愛しておられるので、喜んで負って下さいます。神を嘆かせないように、いのちの道、義の道を歩む者でありましょう。