詩篇23篇3節「主は…私を義の道に導かれます。」イエス様は、ご自分の羊たち、私たちを、義の道に導かれます。ありがたいことに。また、今日の交読文の詩篇16篇11節「あなたは私に いのちの道を知らせてくださいます。」イエス様は私たちをいのちの道に導いて下さいます。そして実は、義の道といのちの道は一つです。
今日の個所は、一見、厳しいみことばに見えますが、実はイエス様は私たちを義の道に、いのちの道に導いておられるように思います。そして、私たちを偽りの安心から真の平安へと導いておられるのだと思います。そのイエス様のみことばに耳を傾けましょう。
22節「イエスは町や村を通りながら教え、エルサレムへの旅を続けておられた。」イエス様は、健脚でいらっしゃったと思います。イスラエル中、町だけでなく村にも足を運ばれました。目指すはエルサレム。私たちの罪のために、身代わりに罰を受けて下さるために、十字架の待つエルサレムを目指していました。しかし、弟子たちは、イエス様がいよいよ、エルサレムに行って王になられる、神の国が実現すると思い、そのあかつきには、自分のポストは右大臣か左大臣か…心がはずんだことでしょう。そんな中、おそらく弟子の一人でしょう、ある人がイエス様に質問しました。23節「主よ。救われる人は少ないのですか」当時、人々の間で、救われる者が多いのか、少ないのかと話題になっていたと言います。それで何の気なしに聞いてみたのでしょうか。この聞き方、何だか、他人事です。「救われるためには、私はどうしたらいいのですか」ではない。今話題になっているから、イエス様ならどう答えるだろうと、興味本位で聞いたような。自分は大丈夫、と思っていたのでしょう。
それで、イエス様は彼らに言われました。24節「狭い門から入るように努めなさい。あなたがたに言いますが、多くの人が、入ろうとしても入れなくなるからです。」ここの「門」と訳された語は、25節の「戸」と訳されたのと同じ語です。マタイの方にも「狭い門」が出てきますが、そっちの「門」は別の語です。ここでは、家に入るための戸、ドアです。狭いというのと違いますが、茶室の「にじり口」をイメージしてもいいかもしれません。要は入りにくい入口です。「救われる人は少ないのですか」などと、他人事のように言っているが、あなた自身、狭い門から入るよう努力しなさい。でないと、入ろうとしても入れなくなるかもしれませんよ、とギクリとすることを言われたのです。入ろうとしても入れなくなる。恐ろしいことです。それも多くの人が。つまり、多くの人はこの狭い門から入ろうとしないのです。その「狭い門」とは、何のことでしょう。それは、悔い改めのことだと思います。私たち人間には、これが一番、難しいことかもしれません。しかし、悔い改めなしに、救われること、神の国に入れて頂くことはありません。悔い改めたら神の国なのです。彼らは、イエス様といっしょにはいたけれども、というより、イエス様といっしょにいるというだけで、すっかり安心してしまって、悔い改めがお留守になっていたようです。彼らを、そんな偽りの安心から目を覚まさせるべく、イエス様はたとえを話されました。
このたとえは、神の国に入ることを、この主人の家に入ることにたとえています。当然、家に入れてもらえると思っていた人たちが、そのときに入れてもらえなかった。彼らは、戸を叩いて「ご主人様、開けて下さい」と訴えますが、主人は「あなたがたのことは知らない。」と答える。すると、それはないですよ、とばかりに彼らは「ごいっしょに食事をしたではありませんか。私たちに教えを下さったではありませんか。」と言いますが、主人は「わたしは、あなたがたを知らない。不義を行う者たち、みなわたしから離れていけ」と言い放つというのです。彼らがアピールした点は、イエス様といっしょに食事をしたこと、イエス様から直接、教えを受けたことでした。それだけで、自分は神の国に迎えられる気になっていた。しかし、それらは何ら、神の国に迎えられる保証にはなりません。神の国に入るためには、悔い改めて、キリストを信じること。これ以外にありません。イエス様といっしょに食事をしたからとか、イエス様の教えを聞いたからとか、そんな人間的なことで安心していては、アウト。聞いてはいても悔い改めないなら、最後に「こんなはずでは…」と青くなるのです。それらは偽りの安心です。
この人たちは、実際にイエス様といっしょに食事をしました。正直、それはそれでうらやましい気もします。しかし、考えようによっては、それはかえって害になるのかもしれないとも思います。イエス様と食事をした、イエス様から直接教えて頂いた、そんな人間的なことを誇ってしまったり、そんなことで安心してしまう、そう勘違いしてしまう危険があるからです。肝心の悔い改めをせずに、そんなことで安心していたら、それは百害あって一利なしです。もしかしたら、ルカがこの福音書を書いた時代には、まだ実際にイエス様と過ごした弟子たちが生きていて、オレはイエス様と食事した、イエス様から直接教えを聞いたと、自慢していた者がいたのでしょうか。しかし、そんなことは救いには何の役にも立ちませんよ、主から知らないと言われますよ、とルカは警告しているのでしょう。
御国から締め出しを食った人たちは27節で「不義を行なう者たち」と呼ばれています。悔い改めを拒むことは、不義のうちにとどまることだからでしょうか。罪を犯さない人は一人もいないのですから、罪を示されたら、認めて、悔い改めることです。それによって、不義からきよめられていくのです。第一ヨハネ1;8-9、新約p.478
一度に全部など、主は求めておられません。示されたことを一つずつ、少しでも悔い改めの実を結ばせて頂けますように。
28節以下は、神の国に入れない無念な結末をイメージさせて、彼らを悔い改めへと促しているのでしょう。アブラハム、イサク、ヤコブ。ユダヤ人たちは、この三人の父祖たちを誇り、自分たちがその子孫であることを誇っていました。当然、彼らといっしょに神の国に入れるものと思っていました。預言者たちのことも、神の民として誇りとしたでしょう。しかし、この弟子たちは、神の国に入れず、自分たちが外に放り出されているのを知って、そこで泣いて歯ぎしりするというのです。戸が閉められてからでは遅い。狭くても、戸が開いているうちに、そこから入らないと。狭くて入りにくいなどと言っている場合ではない。
29節の、人々が東西南北から来て、神の国で食卓に着くとは、異邦人が神の国に入れられるということでしょうか。ユダヤ人は、自分たちには神の律法がある、神の民だ、アブラハムの子孫だと、人間的に誇り、異邦人を見下していましたが、その異邦人の方が救われて、自分たちは拒まれる。30節「後にいる者が先になり、先にいる者が後になるのです。」異邦人だけでなく、取税人や遊女たちの方が、自分の罪深さを知って悔い改め、律法学者たちよりも先に神の国に入ると言われました(マタイ21:31)。逆に、今、先にいると思っている者、この時の弟子たちのように、人間的なものを誇る者は後になる。私たちも、信仰歴が長くなるにつれて、悔い改めから遠ざかりがちです。そういえば、前回、悔い改めたのは、いつだったかなあ…と、思い出せないくらい昔だったということは、ないでしょうか。
前々回、学びましたが、悔い改めとは、大きな意味では、神に立ち返ること。またそれまで神に背を向けていたのを、クルリと向きを変えて、これからは神を見上げて、神に信頼し、神を礼拝し、神に従います、と決心することです。この根本的な生きる姿勢の悔い改めがなされているなら、「入ろうとして入れなくなる」ことはありません。神は完璧を求めておられるのではありません。根本的な姿勢を悔い改めたら、その後は、主に、みことばに、従う歩みをする中で、具体的に罪を示されたら、そのことについて一つ一つ、悔い改めればいいのです。イエス様はそのために尽きることのない赦しをご用意下さいました。神の前に率直に罪を認めて、告白して、イエス様のゆえに赦されていることを確信する。そして、また立ち上がって、主に従う歩みを続ける。それも、自分の力だけで頑張るのでなく、イエス様が助けて下さる、御霊が助けて下さることを祈りつつ、その信仰をもって歩む。何度でも。悔い改めは、生涯にわたる信仰の訓練です。クリスチャンになる時に、一回だけ、悔い改めたら、あとはしなくていい、というのではありません。「狭い門から入るように努力しなさい」とありました。この「努力する」と訳された語は競技用語で、全力を傾ける、奮闘するというニュアンスだそうです。努力して、悔い改めの実を結ぶことが大切です。
ある宣教師が日本に来た時のこと。その方は学識もあり、きよらかで、愛があり、謙虚で、その方のことをとても尊敬していたある日本人の牧師が、先生がうらやましいです、とつい言ったそうです。すると、その宣教師は、「私は努力しているんです。」と仰ったそうです。それを聞いて、その牧師はハッとしたそうです。ああそうか。努力しているのか。罪人である自分は、地のままではできないのだから、人に愛を示すように努力するべきなのだと教えられたそうです。それを聞いて、いっそうその宣教師を尊敬したそうです。
最後に一カ所、みことばを読みたいと思います。第二ペテロ1:1-11(新約p.473)