この日、イエス様はある会堂で教えておられました(10節)。イエス様の言葉が語られ、イエス様の言葉が聞かれている所では、イエス様のみわざが起こります。この時も、イエス様の救いを必要とする、ひとりの、病の霊につかれた女性の身の上に、イエス様のみわざがあらわれました。イエス様は彼女の嘆きを賛美に変えました。イエス様は今も、愛する者のために、嘆きを賛美に変えることができる方と、私たちも確信を持っていたいものです。
その女性は、年齢はわかりませんが、18年間、腰が曲がったままだったと言います。「腰が曲がって」の「曲がる」という語は、「二つ折りにする」の意味があり、直角よりももっと曲がった状態でしょうか。しかもそこに「全く伸ばすことができない」と、この福音書を書いた医者のルカは、病状を正確に書き留めています。がんばれば一瞬でも伸ばせるということもない。曲がりっぱなし。そんな状態で生活するのは、大変なことだと思います。
彼女の場合は、病の霊によるものとあり、少し後の16節に、サタンが縛っていたと言われています。サタンの魂胆は、神から人間を引き離すことです。こんな目に遭わせて、神なんか…、こんな状態が18年も続いて、もう神なんか信じられない、と。つらいところを長く通らされると、神を呪いたくなってしまうものです。でも、彼女はどうだったのでしょう。もちろん、神に対して文句や不平が口からもれてしまうことはあったかもしれません。でも、少なくとも彼女は、礼拝に来ていました。そんな状態では歩くのも大変だったでしょう。人からもジロジロと見られたりもするでしょう。でも、そんな中でも、彼女は礼拝に来ていたのです。そんな体でも、ただ神を礼拝するために来ていたのか。それとも、神に一縷の望みをおいて、神に癒して頂きたいという願いを持って来ていたのか。いづれにせよ、彼女は、神を礼拝しに来ていました。そんな、けなげな礼拝者に、神が目を留めないはずがありません。18年間、耐え続けた末に、ついに待ちに待った解放の時が来ました。
12-13節をもう一度、読みましょう。「イエスは彼女を見ると、呼び寄せて、『女の方、あなたは病から解放されました』と言われた。そして手を置かれると、彼女はただちに腰が伸びて、神をあがめた。」イエス様は、まず「彼女を見」て、そして「呼び寄せ」、それから「あなたは病から解放されました」と癒しの宣言をされて、「手を置いた」。すると、すぐに癒された。この女性が癒されるためにしたことは、何かあったでしょうか?癒されるために、厳しい戒律を守ったとか、多額の献金をしたとか、そんなことはいっさいありません。まったくのイエス様がなさったみわざです。
まずイエス様が、目を留められた。ある意味、これがすべてかもしれません。救いは、あわれんで下さる神による。神が目を留めて下さった時に、神の救いのみわざが始まる。今、イエス様を信じている人は、みな、一人ひとり、イエス様が目を留めて下さったということです。たまたまクリスチャンになったということはありません。この自分にも、イエス様が目を留めて下さったと思うと、感動を覚えるのではないでしょうか。
イエス様はそれから彼女を「呼び寄せ」た。なぜイエス様のほうから行かなかったのでしょう。彼女は歩くのにも不自由だったでしょうに。それは、唯一、私たち人間の側でなすべき事を際立たせるためかもしれません。それは、イエス様の呼びかけに応答するということです。今日もイエス様はいろんな人を通して、また聖書の御言葉を通して、呼びかけています。イエス様が、わたしを信じる者には、罪の赦しを与えます、永遠の命を与えます、あなたを縛り付けているものから、あなたを解放します、だから私のもとに来なさい、と招かれた時に、そのイエス様の招きに応える。すると、それらの賜物は、ただで、まったくの恵みとして、与えられるのです。彼女がイエス様の呼びかけに応えてイエス様のもとに行った時に、それだけで、他に何もしていないのに、ただイエス様の呼びかけに応えてイエス様のもとに行った瞬間に、「女の方、あなたは病から解放されました」と宣言されました。自分の力ではどうにもならなかったものを、イエス様が、イエス様の力で、解き放って下さいました。そのときに、イエス様は御言葉だけで癒すこともできますが、彼女に手を置いて癒されました。これまで苦しかったね、つらかったね、とあわれみのお心からでしょうか。こうして、彼女を長い間、縛り付けていたサタンの鎖はほどけ落ちて、彼女は18年ぶりに、腰を伸ばすことが出来ました。イエス様はサタンの縛りから彼女を解放しました。
人を縛りつけるものは、いろいろあります。怒りや憎しみ、あるいは悲しみに縛られていることも、あるかもしれません。それは苦しいものです。また不自由にするものです。キリストのもとに来て、取り扱われ、癒されますように、と祈ります。
さて、18年ぶりに背伸びをした彼女の心からは、神への賛美が溢れました。その場にいた群衆も、喜んで神をあがめたでしょう。ところがそんな中、一人、怒気を放つ者がいました。
14節の会堂司とは、会堂でささげられる礼拝を取り仕切っていた人、責任者です。会堂の維持管理だけでなく、聖書の朗読箇所の選定、聖書朗読者、説教者の指名なども行いました。人々からは一目置かれる立場でした。その彼は、イエス様が安息日に彼女を癒したことに憤ったと言います。そして、イエス様に対してでなく、群衆に向かって文句を言いました。本当なら、イエス様に向かって言うべきですが。彼は、安息日に癒してもらうことは、モーセの十戒の第四戒違反だというのです。それは、安息日を覚えて、これを聖とせよ、という戒めです。働いて良い日は六日。安息日は、いっさいの労働から離れて、神の前できよく守るようにという戒めです。で、イエス様が癒したことは、医療行為という労働をしたことになるから、律法違反だというのです。当時の規則でも、いのちにかかわるような怪我や病気の場合は、安息日にも治療することが認められていましたが、この場合は、一刻を争うわけではないのだから、明日でもかまわないという理屈でしょう。
しかし、彼はどうして、憤ったのでしょう。この女性が癒されたことを喜ぶことができなかったのでしょう。この会堂司にとっては、律法を額面どおりに形の上で守ることが、何よりも大切だったからでしょうか。イエス様が安息日に癒しを行ったのを見ていながら、何も言わないことは、律法違反を黙認することになる。自分が同罪とされ、非難される。キャリアに傷がつく。そう感じたのでしょうか。自分の義を守ることでいっぱいの人は、愛とあわれみがおろそかになりがちなものです。そして判断を間違えるものです。
ちなみに、前回見た、前の段落は悔い改めを促す個所でしたが、それとの関連で言うと、ここは悔い改めを拒む原因は、自分は律法を守っていると思って、自分の義に立っていることにあると、いうことを表しているようです。間違った自己義を後生大事に握りしめている限り、真の悔い改めはできないという。それで、イエス様は彼の間違いに気づかせ、悔い改めてくれることを望んででしょう、彼の義は偽物であることを示しました。15-16節「しかし、主は彼に答えられた。『偽善者たち。あなたがたはそれぞれ、安息日に、自分の牛やろばを飼葉桶からほどき、連れて行って水を飲ませるではありませんか。この人はアブラハムの娘です。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。』」「飼葉桶からほどき」日本だと木の桶を想像しますが、向こうでは大きな石をくりぬいて飼葉桶(飼葉槽?)にします。これにロープで牛やろばをつないでおいた。で、安息日には、それをほどいて水を飲ませに行っていたのでしょう。で、当時、安息日に禁じられている行為の中に、ひもを結ぶこと、解くことがあったそうです。しかし、彼らは自分の家畜は大切だからか、また愛着があるからか、安息日でもひもをほどいてあげて、水を飲ませに行っていた。一日飲ませないからと言って、死ぬわけではないでしょうが、それはかわいそうだから、そうしていた。それなのに、サタンが病で縛っていたこの女性をイエス様が解いてあげたことには、律法違反だと非難する。自分の牛やろばをかわいそうに思うのだったら、それ以上に彼女をかわいそうに思って、すぐにその苦しみを解いてあげたいと思うのは当然ではないか。あなたには、自分の牛やろばを思うほどの愛もあわれみも、神の大切な娘である同胞に対して、隣人に対して持ち合わせていないのか…。こう言われて、反対者たちはみな、恥じ入ったのでした。
こういうダブル・スタンダードというのでしょうか。人に対しては厳しい基準で裁き、自分には甘々。違う基準を無意識のうちに使い分けているということは、往々にしてありがちかもしれません。子どもに対して厳しく言っていたら、実は自分も同じことをしていたとか。部下には厳しくて自分には甘い上司とか。自戒したいものです。
こうして、最後17節、群衆は改めて、イエス様のなさったみわざを喜びました。
18節の頭に「そこで」とあります。前の話を受けて、ということです。イエス様のみわざは、反対する者も現れるが、誰もそれを止めることができず、人々がイエスのみわざを喜ぶ喜びを原動力として広がっていく、というつながりでしょうか。
ここには、神の国の広がりについて二つのたとえがあります。まず、からし種。マタイ13:32では「どんな種よりも小さい」と言われています。それが生長すると大きな木となって、空の鳥が枝に巣を作るほどになる。それは種自身の中にある生命力のゆえです。そのようにキリストを信じる教会も、イエス様のみわざ=福音の生命力のゆえに、そのように大きくなるというのです。確かに、キリスト教は、最初、一握りの弟子たちから始まりました。それこそ吹けば飛ぶような、小さなものでした。それが、激しい迫害、弾圧にあいながらも、何ものもこれをとどめることはできず、今や全世界に広がる巨木になりました。
もう一つのたとえはパン種、イースト菌です。わずかなパン種が、三サトン=39リットルの粉と混ぜ合わせるならば、発酵してまわりの粉を変質させながら、香ばしい香りをさせながら、粉全体をふくらませる。そのように福音を信じる教会も、ほんの小さなものから始まって、じわじわと周りに影響を与え、変えていき、神の前に香ばしい香りをさせながら、大きくなっていく、というイメージでしょう。明治時代、キリスト教精神に基づき、一夫一婦婦制や公娼制度廃止などを訴えた矯風会が、その一例でしょう。と同時に、身近なところでの一人ひとりの証しも影響力大です。第一ペテロ3:15、新約p.469
「心に深く届くものは、世界に広がる」とある人は言いました。私たち自身がまず、福音を、イエス様のみわざを心に深く受け止める者でありたいと思います。
イエス様がなさったみわざと言って、もっとも重要なのは、私たちの罪のために身代わりに十字架にかかって下さったこと、そして三日目に復活されたことです。そのおかげで、私たちはまったき罪の赦しを与えられて、神に受け入れられ、永遠のいのちにあずかる者とされました。いつも神がともにおられ、私たちの内には御霊が住んでおられて、私たちをきよめ、イエス様の似姿へと造り変えて下さいます。そして、神とともに永遠に栄光のうちに住む永遠の御国を受け継ぐ者とされました。そしてそれらすべての背後には、私たちを愛してやまない、神の御愛があります。このイエス様がなさって下さったみわざを事実として思い巡らし、その救いを喜び、ほめたたえたいと思います。