礼拝説教要旨 2025年10月19日

あなたがたも同じように

ルカの福音書13:1-9

<はじめに>

「ちょうどそのとき」と今日の個所は始まります。どういう時か?というと、直前の個所を受けています。人はみな、最後に神の厳正なさばきを受けなければならない。が、今、生かされている間は、まだいわば裁判所に向かっている途中であり、今ならまだ、神との和解のチャンスがある。だから、生かされている間に、今のうちに神と和解するように。神と和解しないまま死んでしまったら手遅れ、神の厳しい裁きを免れない。そう、イエス様が教えられた、「ちょうどそのとき」です。何人かの人が、ある知らせをもってやってきました。

<① あなたがたも同じように(1-5節)>

「ローマ総督ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた」つまり、ガリラヤ人たちが神殿でいけにえを捧げている最中に、ピラトが彼らを虐殺したというのです。どうしてこういうことをしたのか、確かなところはわかりませんが、総督ピラトなる人物は残虐を好む性質だったと言います。正当な裁判なし、正当な理由なしにピラトの剣の犠牲になったのでしょうか。まったくの災難です。この知らせを聞いて、先ほどのイエス様のお話を聞いていた人々は、そのガリラヤ人たちに神の裁きが臨んだと思ったのでしょう。彼らは、ガリラヤ人の中でも人一倍罪深かったから、そんな災難にあったのだろうと。そしてそういう死に方をした連中は、当然、死後の裁きにおいて滅びに投げ込まれるのだろうと。

しかしそれは、まったくの思い違いでした。イエス様は言われました。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」このイエス様のお言葉を注意深く読むと、イエス様は、その犠牲になった人たちに罪がなかったとは仰いませんでした。そうではなくて、「あなたがたも」と指さして、ー他人事のように思っているあなたがた自身もー悔い改めなければ同じように滅びるのですよ、と言われたのです。まるで自分は滅びを免れるかのように思い込んでいた人々に、現実を教えてくださいました。

私たちも同じです。もちろん世の中の法律に照らしてなら、死刑に値する罪は犯していないでしょう。しかし神の御前にはどうか。世界を造られた神、いのちの源であられる神との関係においては。聖書によると、最初の人アダムは、あなたが神に背くその時、あなたは必ず死ぬと、言われていました。神の戒めを破るその時、あなたは必ず死ぬと定められていました。どうでしょうか。私は神の戒めに背いたことがないという人、いるでしょうか。聖書によれば、一人もいません。とすれば、すべての人は、とっくのとうに、罪に対する裁きを受けて、死んでいてもおかしくなかったのです。生かされているのは、ただ神の恵み、あわれみだったのです。あの、災いにあったガリラヤ人たちが、罪がないのにアンラッキーなことに、そんな災難にあったというのではなくて、むしろ、そういう災いにあっていない私たちのほうが、ラッキーなのです。本当は、神の裁き、御怒りに値する者であって、いつ刑罰が下されても文句の言えない罪人なのを、それを神が忍耐して、裁きを下さずに待ってくださっている、というのが実情なのです。生かされているのが恵み、あわれみなのです。当然のことなのではなくて。恵みによってまだ悔い改めのための猶予期間が与えられているということなのです。

続けて4-5節でも、イエス様は、当時、おそらく話題になっていたであろう大惨事に触れて、同じ趣旨を繰り返されました。シロアムはエルサレムの南東部にある場所。そこに塔があったのでしょう。そこで、当時こういう痛ましい事故があったのでしょう。そこでまた、その犠牲になった人たちは、何か、人一倍悪いことをしていたに違いないと、うわさされていたのでしょう。当時はそういう考えが一般的でした。しかし、そうではない。あなたがたも悔い改めないならば、同じように滅びるとイエス様は言われたのです。

昔、ある先生から聞いた話です。戦時中のことだったと思いますが、爆弾を落とされてあたり一面、焼け野原になりましたが、ある教会堂は被害を免れました。するとその教会では次の日曜日の礼拝で、守られた、感謝、感謝、ハレルヤ!という説教だったそうです。それを聞いて、その先生は、つまずきそうになったと言います。もう一つ、被害を免れた別の教会の礼拝に行ってみると、そこではこのルカ13章から「あなたがたも悔い改めないなら、同じように滅びる」と説教されたそうです。その先生は、これだ!と思ったそうです。もちろん、守られたら感謝するのもいいと思いますが、それだけで終わってしまうのでなく、このルカ13章も思い出すことができたら、いいのかな、と思います。

<② どうか、今年もう一年(6-9節)>

ぶどう園にいちじくを?と思いますが、当時の植物の栽培について書かれた本には、ぶどう園にいちじくを植えることが勧められているそうです。詳しいことはわかりませんが、そのようなことがなされていたのでしょう。いちじくを植える時、当然、実を期待して植えます。柿の木を植える時は、柿の実が生るのを期待して植えますし、桃の木を植える時は、桃の実が生るのを期待して植えます。そして実が生るのを首を長くして待ちます。「実を探しに来た」とありますから、ぶどう園の主人は離れた所に住んでいるのでしょうか。普段は番人にぶどう園の世話を任せて、実のなる頃に来る。ところが、当然もう実を生らせている時期なのに、来てみると、期待していた実がなっていない。その年、その次の年、そのまた次の年、、、と三年越しで待ったけれども、いっこうに実を結ばない。それで、場ふさぎでしかない、実を結ばない木は切ってしまって、別の実を結ぶのを植えよう。ぶどう園の主人は、そう考えました。

ところが、ぶどう園の番人は主人に、どうか、あと一年、待ってください、木の周りを掘り、肥やしをやってみますから、と言いました。これも当時の栽培の本に、だんだん実がならなくなってきた時に、どうやって木を再生させるかという方法が書いてあり、そこに「木のまわりを掘り」「肥しをやり」とまったく同じことが書かれているそうです。番人の執り成しのおかげで、いちじくのいのちは、一年、延びました。三年待ってもらって、本当なら切り倒される時、裁きの時が来たはずだったのが、番人のとりなしにより、もう一年、加えられた。恵みとして与えられた一年。イエス様の意図は、私たち、地上に生かされている者はみな、この恵みとして与えられている一年を生かさせて頂いているようなものだ、ということのように思われます。実を結ぶことを期待されて、恵みとして、待ってもらっている一年を、私たちは生かされている。実を結ぶために必要な栄養は、聖霊でしょうか。また、聖霊とともに私たちの心に注がれた神の愛でしょうか。

悔い改めの実を結ぶこと。恵み深い主人は、一度に多くを結べなくても、まず一つでも、一つからでも、実を見つけることが出来たら、喜んでくださるに違いありません。これからは、神に喜ばれる実を結んでいこうという決心自体が、ひとつの悔い改めの実です。これだけで立派な霊の実と、神は喜んでくださるでしょう。また、これまではあまり、みことばに聞いて生活するということをしてこなかった。これからはもうちょっとみことばに聞いて、生活するということをやってみよう。これからは人の悪口を言わないようにしよう。これまで心に握りしめてきた赦さない思いを、イエス様のみこころに従って手放そう、等々。そういった悔い改めの実を結ぶことを、神は喜んでくださいます。

このたとえで、一つ、注意しておくべきことがあります。恵みとして加えられた一年。この一年というのは、もちろん文字通りの一年という意味ではないでしょうが、ただ、悔い改めの実を結ぶチャンスは、いつまでもあるのではないということを表すと思われます。「いつか」、「そのうち」、「明日から本気出すから」ズルズルと先延ばしして、結局、悔い改めなかったということのないように。地上のいのちという限られている時間に、神に喜ばれる悔い改めの実を結ぶように、と促しておられるのでしょう。

もっとも、来し方を振り返れば、毎年、イエス様にあと一年、あと一年、と執り成して頂いて、忍耐に忍耐して頂いて、気が付けば、洗礼を受けてから41年間、延ばしに延ばして頂いてきたようなものとも思います。イエス様のお心、イエス様を遣わして下さった父なる神のお心に、少しでも、聖霊によって、実を結ばせて頂けますように、と願わされます。

<③ 悔い改め>

今日の個所のテーマは悔い改めですが、改めて聖書の言う悔い改めについて一言。それは単なる後悔ではありません。旧約聖書では「立ち返る」という意味の語が悔い改めを表わすものとして使われます。世界を造られた、また私たちを造られた神に立ち返るということです。罪の状態から、神への不従順から、神に反抗する状態から、神に立ち返ること。原点に帰ること。イザヤ55:6-7、旧約p1262

【主】を求めよ、お会いできる間に。呼び求めよ、近くにおられるうちに。

悪しき者は自分の道を、不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。【主】に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

ここに「お会いできる間に」「近くにおられるうちに」とあります。いつでも神に立ち返れると思って後回しにしていると、その機会が二度と、訪れなくなるかもしれないという含みでしょうか。神に心が傾いているなら、その時を逃さないことです。

新約聖書では、「立ち返る」のほかに、「心の転換」「心の向きを変えること」の意味を持つ語が用いられます。今まで、神に背を向けていたのが、グルリと向きを変えて、神の方に方向転換し、神の御前に生きる決心をすることです。神を神として、神とともに生きることです。それは当然、罪を捨てることを伴います。

この悔い改めは、福音の中心的な要素です。バプテスマのヨハネは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)と叫び、イエス様も同じことばをもって宣教を開始されました(マタイ4:17)。イエス様が地上に来られた目的は「罪人を招いて悔い改めさせるため」(ルカ5:32)と明言され、復活の後、天に昇られる際にも、「罪の赦しを得させる悔い改めが」世界に宣べ伝えられると言われました(ルカ24:47)。五旬節(ペンテコステ)のペテロの説教は「罪を赦していただくために、悔い改めて…」と語られました(使徒2:38)。パウロも「神は…今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます」(使徒17:30)、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証してきた」(使徒20:21)と言っています。

神がこのように悔い改めを命じておられるのは、限りない赦しを用意しておられるからです。御子キリストの尊い血潮を流して、尽きることのない赦しを用意して、あとは、私たちが悔い改めるのを、ご自身のもとに帰るのを待っておられるのです。

「 『帰れや 帰れや 帰れや』と 主は今呼び給う 」新聖歌 176番

黙示録に出て来る教会の一つ、ラオデキアの教会に主は言われました。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録3:19)キリストにある完全な赦しと、その背後にある限りないご愛を覚えて、また内に住まれる聖霊が自分をきよめ、造り変えて下さることを信じて、罪を示されたときには、ためらわずに悔い改めましょう。何度でも悔い改めましょう。それは神に最も喜ばれる最高の霊のささげものです。悔い改めが拒まれること、無駄になることは決してありません。