礼拝説教要旨 2025年10月12日

罪をおおわれた人の幸い

ローマ人への手紙4:1-8

<はじめに>

6月第二週から、ローマ人への手紙を要点を絞って読み進もうとして3回目となる。使徒パウロがローマの聖徒たちに語った福音の中心は、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」との言葉に、はっきりと言い表されていた。(3:23~24)自分の罪を認め、悔い改めてキリストを信じること、十字架で死なれたキリストを信じる信仰によって義と認められること、これが神の前に罪を赦され、救いに与る唯一の道である。自分の行いを積み上げ、神に認められるよう努力したとしても、それらは人前には誇れても、神の前に何ら誇ることはできない。そのことを心から認めることが肝心である。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それは取り除かれました。・・・信仰の律法によってです。」(3:27)パウロはこう言明したが、ユダヤ人たちから反論のあることを理解していた。

1、

パウロの指摘に納得できない人々は、「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムは何を見出した、と言えるのでしょうか。」と言い始めるに違いなかった。ユダヤ人たちにとって、「アブラハムは『信仰の父』ではないか、彼の信仰を大いに倣うべきと教えられているではないか・・・?」と。彼らがそのように言う時、「信仰」と言いつつ、信仰に伴う外面的な生き方や行いを思い描いていた。アブラハムを信仰に生きた偉人のように捉え、その行いに倣おうとした。真実に倣うならまだしも、アブラハムの子孫であることを誇った。パウロの指摘は、「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。『それでアブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義とみなされた』とあります」であった。(1~3節)

旧約聖書を注意深く読むなら、アブラハムは神を信じて、義と認められたと記されている。「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」(創15:6)この時、彼の何がしらかの行いが認められたとは記されていない。主なる神の約束は彼の思いを超えていた。子どもがいないアブラハムに、主は天の星を数えさせ、「あなたの子孫は、このようになる」と告げられた。(創15:5)彼はただ信じるしかなかった。しかし、彼が信じたことを彼の義と主が認められたのである。アブラハムの心が柔らかかったとか、素直に信じたとか、信じるよう努力したわけでもなかった。神の前に信じて義とされるとはこういうことである、と明かにされている。神を信じるとは、神の言葉を信じること!と。神が言われたから、それを信じるという、その一点である。

2、

パウロは続けて、更に「信仰による義」を説き明かそうとする。「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものとみなされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。」(4~5節)「働く者」と「働きがない人」、「報酬」と「恵み」が対比されている。そして「働きがない人」は「不敬虔な者」、すなわち神の前に罪ある者、神に対して不遜で不信心な者=全人類=を指している。社会の常識に照らすと、報酬は働きに対するものであり、働いた者は当然これを受ける権利がある。けれども「信仰によって義と認められる」のは、「働きがない人」が働きのないまま、義と認めて下さる神を信じて義とされることとなる。これは報酬ではなく「恵み」そのものである。罪ある者、不敬虔な者が神の前に義とされるのは、神の恵みにより、信仰によることである。ただただ罪赦されることなのである。

このように言われる信仰の律法(原理また原則)は、アブラハムのみならずダビデにも当てはまる。ダビデは、大きな罪を犯した後、罪を悔い改めて赦される経験をした。「行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸い」を味わった。彼は身近な人に対してと同時に、神に対して大罪を犯した。むさぼり、姦淫、偽証、殺人等の罪を次々に重ねて、それでいて自分の罪を認めず、隠そうとした。しかし、罪は隠し通せるものでなく、消し去ることもできなかった。激しく苦悩した後、行いによらず、罪を赦していただく恵みと幸いを得た時に、彼の心は神からの平安をいただいた。そして、感謝と賛美をささげたのである。「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」(6~8節 ※詩篇32篇)

3、

ダビデが行き着いた所は、不法を赦され、罪をおおわれた人の幸いであった。それは「主が罪をお認めにならない人」の幸いである。罪の事実は消し去れない。けれども、その罪を一つ一つ数えて責め立てることを、主はもはやなさらない。神が罪を赦して下さるとは、罪をおおって下さることである。罪の事実をもはや暴いて責めることはなさらない。神は見ておられ、知っておられるものの、赦して下さり、神に近づく者を受け入れて下さる。ダビデはこの幸いを知った。神の赦しの大きさと底知れなさに心を打たれたのである。神の前に心打ち砕かれ者として、この幸いに到達したのであった。(詩篇51:17)

自分で自分の罪を覆い隠そうとする時、人の心は激しく動揺する。罪意識にさいなまれ、夜も眠れなくなる。(多くの場合、罪を罪として認めず、自ら罪なしとするので、心騒ぐこともなく過ぎているだけである。)けれども、心を開かれ、罪に気づいて、神の前に罪を言い表すなら、罪意識や罪責感から解き放たれる。神が罪をおおって下さるからである。これこそ神が備えて下さった救いの道である。そのためにキリストは十字架で身代りの死、贖いの死を遂げて下さった。パウロは十字架の意味が分かった時に、ダビデも、そしてアブラハムも皆同じように、神を信じて罪を赦される幸いに与っていたのだ!と、全てが明かになって喜んだのである。罪ある人間にとって、これに優る喜びはない。これこそが真の幸いである。

<結び>

「不法を赦され、罪をおおわれた人たち」の幸いに、今朝私たちも確かに与っていることを、はっきりと理解して、心から感謝する者でありたい。生ける真の神の前に、自分の罪を認め、悔い改めてイエス・キリストを私の救い主と信じているなら、私たちも、「主が罪をお認めにならない人」の幸いに、確かに与っている。その幸いを心から感謝して、心から賛美の歌声をあげることができる。パウロが、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず」と言った時、全人類に、罪ゆえの「死刑」が宣告されている事実を告げていた。生きている限り、刑の執行が猶予されていることになる。(※執行猶予中)その間に神は私たちの一人一人に対して、罪を悔い改めて神に立ち返り、罪を赦され、罪をおおわれて生きるよう招いておられる。罪をおおわれた人が味わう喜びと平安に招いて下さっている。この礼拝においても、神からの救いへの招きは、一人一人に届けられているのである。

罪の赦しは、刑の取り消しとか変更ではなく、神を信じる者、罪を悔い改める者に対する赦しであり、恩赦である。正しく恵みである。赦しが底無しと気づく者は、その幸いの大きさと計り知れなさを感謝する者となる。私たちは、パウロやダビデ、そしてアブラハムとともに、不法を赦され、罪をおおわれた人の幸いを喜ぶ者として、その信仰に生きることを導かれたい!!