礼拝説教要旨 2025年10月5日

信じます。不信仰な私をお助けください。

マルコの福音書9:14-29

<序>

今日の箇所で、私達は、あるお父さんとその息子に出会います。このお父さんは、息子が癒されるために、息子をイエス様の所に連れて行きました。

どれ程の喜びを持って、このお父さんは、息子の誕生を迎えたでしょう。自然の世界を、この男の子といっしょに探検することを楽しみにしていたでしょう。息子に、有意義な人生を送ることができるように教える機会も楽しみにしていたでしょう。子供の賜物や能力が出て、その子供がユニークな人になることを見る喜びを期待していたでしょう。

でも、自分の愛する息子についての夢が実現しないということがわかったのは、どれ程の苦悩だったでしょう。健康な子供に見えました。でも、口がきけなくなりました。そして、聴覚が少しずつ弱くなって、最終的に、完全に耳が聞こえなくなりました。そして、ひきつけが起こるようになりました。お父さんは、18節で、このひきつけを描写しました。「息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。」 ひきつけが起こった時、子供は、地面に倒れました。危ない所、例えば、火の中や水の中に倒れた時もありました。何よりも、このお父さんは、自分の息子が幸せな人生を送ることができるように望んでいました。ですから、お父さんは、イエス様を探しに行きました。

<目に見えない力>

お父さんの説明を読むと、この子供は、てんかんにかかっているようです。症状は、てんかんの発作の症状に合っています。でも、この場合、てんかん以上のことも起こっていました。まず、この子供は、耳が聞こえなく、口がきけなくなりました。そして、お父さんは、子供の状況が悪霊につかれたことの結果だと言っていました。

悪霊につかれるということが、昔の人が自分がわからないことを説明する方法だとよく言われています。現代、もっと進んだ医療の知識を持っている私達は、体の病気や精神病の原因がわかっているという考え方がよくあります。

でも、私達が直面している苦難に、霊的な部分もあるという考えを軽く捨て去らないように、お勧めします。すべての病気や障害が悪霊の結果だとは、言っていません。私が最近かかった風邪は、睡眠が足りなかった結果でした。多くの病気の原因は、明らかです。

でも、聖書は、私達の世界の目に見えない領域で活動している霊があるということを教えています。その中で、神様の権威に対して反抗している霊もあります。その反抗の一つの側面は、人を神様から引き離すために、また、人が神様との関係の中で生きることを妨げるために、自分の力を使うことです。そして、そうする方法の一つは、病気や精神病で人を攻撃することです。

今日の箇所は、そういう時です。息子が癒されたのが、イエス様が悪霊を追い出した時だったということは、その証拠です。

皆さんが直面しているすべての苦難の後ろに悪霊があるとは、言っていません。私達の世界は、それより複雑です。でも、あなたが健康の問題や人間関係の問題やいろいろな状況の他の苦難に直面している時、あなたを神様から引き離すような攻撃を受けているということを軽く捨て去らないように、お勧めします。

<より強い力>

今日の箇所のお父さんは、自分の息子をイエス様の所に連れて行きました。イエス様は、一年以上、ガリラヤ湖の周りのいろいろな場所に巡っていました。神の国について教えていました。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1:15)。

そして、ご自分が巡ったいろいろな場所で、イエス様は、奇跡を行なっていました。ガリラヤ湖で、嵐を静めました。少しだけの食べ物で、5000人以上の人に食べさせました。ガリラヤ湖の水の上を歩きました。人の様々な病気を癒しました。熱。皮膚病。まひ。手の奇形。慢性の出血。聞こえない耳。きけない口。見えない目。そして、大勢の人から、悪霊を追い出しました。

これらの報告を聞いた時、このお父さんの期待は、高まったでしょう。『このイエス様は、私の息子を助けることができるかもしれない。』 ですから、イエス様を探しに行きました。

イエス様の弟子達の9人を見つけましたが、イエス様は、彼らといっしょにいませんでした。イエス様と3人の弟子達は、近くの山の上にいました。その山の上で、イエス様の姿が変わって、3人の弟子達は、イエス様の栄光を垣間見ました。でも、それは、別の説教です。

お父さんは、9人の弟子達を見つけた時、彼らに悪霊を追い出すようにお願いしました。そして、弟子達は、そうしようとしました。そうしようとすることは、無謀なことではありませんでした。今日の箇所の3章前に、イエス様は、12人の弟子達を、2人ずつ、周りの村に遣わしました。「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった」(マルコの福音書6:7)。イエス様は、彼らに、悪霊を追い出す権威を与えました。彼ら自身の権威ではありませんでした。イエス様の権威でした。イエス様の権威に基づいて、彼らは、人に取りついている悪霊に、その人から出て行くように命じることができました。そして、その時、彼らは、このことができました。彼らは、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒やした」(マルコの福音書6:13)。

でも、今日の箇所の場合、9人の弟子達は、悪霊を追い出すことができませんでした。こういうことを言ったかもしれません。『イエス・キリストの御名によって、この子供から出て行きなさい。』 しかし、すると、何も起こりませんでした。弟子達は、不安を感じたかもしれません。群衆は、笑い始めたかもしれません。そして、律法学者達は、この機会をつかんで、弟子達を非難したかもしれません。『あなたがたも、あなたがたの先生も、詐欺師です。』

弟子達が後に、自分達がなぜ悪霊を追い出すことができなかったかを聞いた時、イエス様は、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」(29節)と言いました。というのは、彼らは、祈らず、悪霊を追い出そうとしたのです!前に数回できたから、その力や権威が自分のものだと、だんだん思うようになってしまったかもしれません。このことができるのが、「イエス様の御名によって」、また、イエス様の力のゆえだということを忘れてしまったかもしれません。これは、教会として、私達に対する警告です。成功は、自信過剰をもたらします。この町で、神様に仕えることによって結ばれる実は、私達からではなく、神様の力から来ます。

ちょうどその時、イエス様と3人の弟子達は、山から戻りました。大混乱の場面に着きました。17節で、子供のお父さんは、こう説明しました。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした」(17-18節)。

イエス様は、ガッカリなさったようです。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。何回も、ご自分の力を表しても、周りに不信仰がたくさんありました。イエス様によって与えられた権威を使うことができなかった弟子達の不信仰。イエス様の奇跡という証拠を見ても、イエス様を信じようとはしなかった律法学者達の不信仰。

イエス様は、「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)と言いました。20節によると、「イエスを見ると、霊がすぐ彼に引きつけを起こさせた」。お父さんは、心から懇願しました。「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」(22節)。

イエス様は、この懇願をそのまま受け入れませんでした。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです」(23節)。イエス様が冷たくお父さんの懇願を断っているように見えるかもしれません。でも、実は、イエス様は、お父さんの信仰を養っていました。

私は、24節が大好きです。この箇所を説教するのを決めたのは、24節のためです。お父さんは、必死です。自分の心は、息子が解放されるという切なる願いであふれていました。「信じます。不信仰な私をお助けください」 と叫びました。

このお父さんは、とても正直な人です。『イエス様、私は、信じます。とても信じようとしています。でも、難しいです。信じるのは、戦いです。』 お父さんは、イエス様についての報告を聞いたから、息子をイエス様の所に連れて行きました。イエス様が息子を助けることができるだろうと思いました。息子をイエス様の所に連れて行くことこそ、お父さんに、ある程度の信仰があるという証拠でした。でも、不完全な信仰でした。揺らぐ信仰でした。信仰が強い時も、弱い時もありました。疑問のある時もありました。

皆さんは、このお父さんの仲間ですか。聖書で、イエス様の力についての記事を読んだかもしれません。知り合いのクリスチャンから、イエス様がどのようにして彼らの状況の中で働いてくださったかという話しを聞いたかもしれません。でも、イエス様が、あなたが今直面している状況の中で働くことができるということを信じることができますか。健康の問題の中で。人間関係の問題の中で。職場や学校での問題の中で。イエス様の言葉 – 「信じます。不信仰な私をお助けください」(23節)という言葉は、あなたやあなたの状況に当てはまりますか。

一つのよくある誤解は、私達の信仰が十分強かったら、神様が私達の状況の中で働いてくださるということです。『もし、もう少し堅く信じるなら …』 でも、それは、今日の箇所に出た結果でしょうか。イエス様が息子を癒したのは、お父さんの信仰が十分強いからですか。まったくそうではありません。お父さんは、明確に告白しました。『私の信仰は、不信仰と混じっています。信じたいです。信じようとしています。でも、疑問も、私の心の中にあります。』

今日の箇所のすばらしいところ、美しいところは、イエス様の応答です。イエス様は、お父さんの不完全な信仰を、本物の信仰として認めました。お父さんの信仰を見て、イエス様は、『それは、十分です。私は、それを認めます』 と思いました。私達は、どのようにこのことがわかりますか。イエス様が息子を癒したからです。25節: 「イエスは、群衆が駆け寄って来るのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。『口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。』 すると霊は叫び声をあげ、その子を激しく引きつけさせて出て行った」(25-26節)。悪霊は、イエス様の命令に抵抗しようとしましたが、イエス様の権威に抵抗することができませんでした。出て行かなければなりませんでした。「するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは 『この子は死んでしまった』 と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった」(26-27節)。

あなたがどんな状況に直面していても、イエス様は、その状況の中で働くことができます。「信じる者には、どんなことでもできるのです」(23節)。イエス様があなたの状況の中で働くことができるかどうかという問題ではありません。できるのです。

ここで、私達は、気をつけなければなりません。私達は、自分の信仰で、イエス様を支配することができません。信じることによって、私達の状況の中で働くように、イエス様を強いることができません。イエス様が主です。ご自分の主権的な御心に従って、働きます。そして、イエス様は、すべてのことをご存じの方です。どんな状況の中でも、最善な結果をご存じです。そして、多くの私達が経験したとおりに、イエス様が苦難をとおして私達の心の中で、尊い、重要な働きをしてくださる時もあります。

皆さんにとって信じるのが難しいところは、何でしょうか。神様があなたを愛していること?聖書は、そのとおりだと教えています。過去にあなたがしてしまったことが赦されること?神様は、自分の罪を悔い改めて、イエス様とイエス様の十字架上の死を信頼するだれにでも罪の赦しを与えると約束してくださいました。神様があなたの状況の中で働くことができること?あなたの健康。あなたの子供。あなたの結婚関係。あなたの仕事。「信じる者には、どんなことでもできるのです」(23節)。聖書の約束は、信仰の燃料となります。

ですから、あなたが今直面しているどんな苦難をも、不完全な信仰を持っていても、祈りで、イエス様の御前に持って行ってください。揺らぐ信仰を持っていても。疑問もいっしょに混じっている信仰を持っていても。実は、この地上で、私達が持つことができるのは、不完全な信仰しかありません。イエス様は、完全な信仰を要求していません。一番重要なのは、私達の信仰の強さではなく、私達の信仰が信じている方の強さです。

私にとって、この箇所は、とても自由を与えてくれる箇所です。私がイエス様の御前に正直であることができるということを語っています。今日の箇所のお父さんと同じように、私は、イエス様に、『あなたを信頼しようとしています。でも、難しいです』 と言うことができます。『私の信仰は、今、そんなに強くない』 と言うことができます。でも、今日の箇所は、イエス様が不完全な信仰をも、弱い信仰をも、本物の信仰として認めてくださるということを語っています。

ですから、私には、ふりをする必要がありません。私は、正直な祈りを祈ることができます。自分にとって難しいことをイエス様に言うことができます。疑問があるから私を拒否するということを恐れなくてもいいです。むしろ、私の心にある信仰の種を、イエス様は、認めてくださいます。そして、ご自分の御心に従って、私の祈りに答えてくださいます。私は、何についても祈ることを躊躇しなくてもいいです。イエス様が私の状況の中で最善をもたらすために働いてくださることを信頼することができます。

宗教には、ふりをしてしまうことが多いです。自分が事実よりもすぐれている人だというふり。自分の信仰が事実よりも強いというふり。イエス様は、ありのままのあなたを招いています。ふりをしなくてもいいです。あなたは、十分良い人、十分忠実な人、他の何者にもならなくてもいいです。もちろん、これは、平気で罪を犯して、神様の命令を無視してもいいという意味ではありません。しかし、正直でいいです。ありのままでいいです。何かのふりをしなくてもいい関係には、すばらしい理由があります。神様は、イエス様をとおして、あなたをそういう関係に招いているのです。