ある時期、「EQ:こころの知能指数」(ダニエル・ゴールマン)という本が流行ったそうです。IQ(Intelligence Quotient知能指数)とEQ(Emotional Quotientこころの知能指数)を比較している本だそうです。高いIQを持つ人は多くの事柄を知っていたり、理性的・論理的に考えたりすることが得意で、難しい数学の問題なんかも解くことができます。他方、EQが高い人は自制、熱意、忍耐、意欲など違った能力を持っています。自分自身を動機付け、挫折してもしぶとくがんばれる能力、自分の気分をうまく整え、感情の乱れに振り回されない能力、他人に共感でき、希望を維持できる能力などです。この本の著者の結論は、豊かな人生を生きるのに直結するのはIQではなく、EQだということでした。
聖書の知恵は、このEQに近いものと言われます。それは、いわゆる「知恵者」のように頭が回るとか、策略に秀でているとかでなく、神に祝福された人生を歩むための生きる術(すべ)、人生の舵取りの術です。それは単なる処世術の類いではなく、いのちの道です。まずは聖書の中の知恵の書と言われる箴言(しんげん)からいくつか見てみましょう。
聖書では人生は「道」にたとえられます。過去に歩んできた道があり、現在地点があり、時々、節目となる分岐点があり、どちらを選ぶかで行き着く先が変わってきます。それは進路や結婚のような大きな人生の節目もあれば、もっと日常的なところにある分岐点もあります。それは人生の大きな分岐点ではありませんが、知恵の道を選ぶか、愚かな道を選ぶかで、時にその後の人生が大きく変わることもあります。以下、いづれも箴言から。
かたや、億万長者の生活、だけども家族は争い、憎み合っている。他方は、それほど裕福ではないけれども、家族の仲が良く、愛し合っている。「大草原の家」みたいな感じでしょうか。もし、このような選択肢が与えられたら、どちらの道を選ぶでしょうか。冷静に考えれば、後者の方が幸せと思う人が多いでしょうが、目の前に富というエサをぶらさげられると、人によっては、なかなか判断が難しくなるかもしれません。実際にそういう機会はないでしょうが、何を大切にするか、ということは明確にしておきたいものです。
ちまたにも、「短気は損気」と言います。短気を起こして、あとで後悔した経験のある方もおられるのではないでしょうか。反対に、穏やかさは、からだのいのちとか、いのちの木と言われています。
心と体は互いに関連し合い、影響し合うと言います。怒りと穏やかさと、どちらを選ぶか。もちろん、時と場合によるのですが、小さなことですぐに怒るようなことはないようにと願わされます。それが聖書の教える知恵、いのちの道を選び取るということですから。
相手を責めると、逆恨みされたり、こちらが悪者扱いされかねない。それでもこのままだと、相手がつらい思いをする、大変なことになるとわかっていたら、心配だから、責める。これはある意味、勇気の要ることです。反対に「憎む者は多くの口づけでもてなす」は、「巧言令色鮮し仁」(論語)にも通じるでしょうか。
これは叱責を受ける側の心得です。誰しも叱責されたらいい気持ちはしません。しかし、そこに自分に必要な知恵があるかもしれない。それは自分自身にとって益となる宝です。一生の宝かもしれません。カチンと来て拒んだり、逆ギレすることを選ぶか、冷静に、その叱責を吟味して、自分のまちがいを正してくれるものだったら、受け入れることを選ぶか。これも日常生活の中で時に直面する、のちに大きな違いの出る分岐点でしょう。
この手のニュースは芸能人であれ、政治家であれ、後を絶ちません。いつの時代にもあったのかもしれませんが、社会の倫理観が後退して衝動的な欲望に対するブレーキが弱くなっているようにも思われます。社会の風潮がどうであれ、神の与えておられる知恵は、ハッキリとノーです。この分岐点で間違った方を選んでしまったら、間違いなく悲惨な結果になるでしょう。それを火を懐にかきこむことに例えて、その悲惨さをアピールしています。
箴言にはほかにもたくさん、実生活に適用できる知恵が記されています。
箴言の中には、ちょっと変わったものもあります。
だから何?と一瞬、思ってしまいますが、ここにも知恵が隠されています。これらは小さいものだが、知恵者中の知恵者と言われています。蟻は力のないものだけれども、夏のうちに食糧を確保するという知恵によって、生き延びている。岩だぬきも強くないものだけれども、巣を岩の間に設ける。雨風をしのぎ、狼やワシなど他の大きな動物が入ってこれない避け所に身を隠すことによって、生き延びることができる。いなごも、一匹一匹は小さく、すぐに食べられてしまうようなものだけれども、隊を組んで移動することによって、身を守り、生き延びることができる。そしてヤモリは、子供でも手で捕まえられるようなものだけれども、王の宮殿に住むことによって、子どもたちや他の動物たちから身を守り、生き延びることができる。つまり、弱い者は弱い者なりに、生き延びるための術というものがあり、神はそのための知恵をこれらに与えておられるということです。このことは、これらの小動物や虫のためだけに与えられているのはなく、私たち人間を教えるためでもあります。力において、あるいは何か他の面でも、自分を弱い、無力だと感じても、神は必ず一人ひとりに、弱ければ弱いなりに、その人にあった生き延びる知恵を備えておられる。その神を信じて、神に知恵を求めなさい、というのでしょう。
特に、神は、岩だぬきのために、岩の裂け目という避け所を用意してくださったのなら、ましてや、私たち人間のために、神はどれほど確かな避け所を用意しておられることでしょう。詩篇46:1
岩だぬきは力はなくても、知恵者中の知恵者と言われているのは、確かな避け所を持っていて、いのちを守る術を知っているからです。私たちも神に信頼し、神を避け所とする知恵をもつことができます。神は、ご自身に信頼する者に、喜んで避け所となって下さいます。
説教の前に読んだ聖書箇所に戻ります。ここには、金や銀、鉄、銅、それに宝石などが地中深くに隠されていて、それを人間は非常な苦労をしながら、危険を冒しながらも、地面を深く掘り、堅い岩も掘り進んで、捜し出す様子が記されていました。しかし、知恵については、人はその価値を知らないと言います。その知恵の価値は、金や銀や高価な宝石にも比べられない、計り知れない価値があるものと言います。しかしその知恵をどこで見つけることができるか、手に入れることができるか、人の世界にはそれは見つからない。ただ神だけがご存じと言います。そして神は人に仰せられました。「見よ。主を恐れること、これが知恵であり、悪から遠ざかること、これが悟りである」と。地中深く掘っても、どこを探しても、人の世界にはない。知恵は金や銀やどんな高価な宝石よりも価値がある。その知恵を神が教えてくださった、と言って、どんなすごい知恵が出て来るかと思いきや、ふたを開けてみたら、「主を恐れることと悪から遠ざかること」これが知恵であり悟りだというのです。肩透かしを食ったというか、そんなことか、と感じるかもしれません。もしそうだとしたら、それは私たちがこの知恵の価値がわかっていないからです。どうしてこれが、それほどに価値があるものなのか。それは、この世界を造られた神が事実、おられて、そしてすべての人を、ひとりひとり、地上に生きていた時にした行い、心の中の思い、それらすべてをおさばきになるという現実があるからです。これがもし本当に事実、現実であるならば、これほど大切な知恵はないでしょう。天国か地獄か、永遠の運命を決めるさばきが、あるのですから。神がおられるか、おられないか。どっちでもいいことではなくて、どっちが事実かによって、永遠の運命が決まる分岐点です。いのちの道を選ぶか、永遠の滅びの道を選ぶか。生きている人はみな、その分岐点にいるのです。どちらの道を行くか。。。
しかし、神がおられるということが事実だとすると、そしてすべてのことをおさばきになるとすると、安心していられなくなると思われる人もいるでしょう。心ある人ほど、そうでしょう。でも、安心して下さい。さきほど、岩だぬきのために、神は避け所を用意してくださったのだから、ましてや、私たち人間のために、もっと確かな避け所を用意して下さると言いました。神は、さばきのときにも、安心していられる避け所を用意して下さいました。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、私たちの罪を身代わりに背負って、十字架にかかってくださり、三日目に復活してくださいました。そのことを信じる者は誰でも、罪赦されて、神に受け入れられ、この世にあっても、あの世に行っても、私たちの避け所となってくださいます。天国が約束されます。永遠のいのちが与えられます。だから、この知恵はどんな金や銀や宝石よりも、はるかに尊いのです。主を恐れる、悪から遠ざかる道を行く先に、自分には罪の赦しが必要だとわかるときが来る。それでキリストを信じて、永遠のいのちにあずかる。それは神が人に与える最大の、永遠の祝福です。
私たち人間には先のことはわかりません。ましてや、死後の事、世の終わりの裁きの事など、いくら考えても、自分の頭ではわからないでしょう。しかし、まず②で紹介たような、箴言の知恵を心に留めてみることによって、聖書の言葉が真実であることを体験できたら、もしかしたら、聖書の教えを信じる助けになるかもしれません。神が生きておられることがわかるかもしれません。まずは実践できるところから実践してみてはいかがでしょうか。最終的には、神が私たちの心に悟りを与えてくださることによって、その確信が与えられます。神に祈り求めましょう。