礼拝説教要旨 2025年9月21日

途中で和解するように

ルカの福音書12:54-59

<はじめに>

今日の個所は、前半は今がどういう時代か見分けなさいということ、後半は裁判に引かれていく人のたとえとなっています。一見、どういうつながりがあるんだろう?と思いますが、結論を先取りすると、今という時は、神の裁きに向かっている途中であり、神との和解のチャンスの時だということです。それで、この恵みの時を無駄にしてはいけない、と。

<① 時を見分ける(54-57節)>

イエス様はここまで、弟子たちに語ってきましたが、今日の所は、集まっていた群衆の方に顔を向けて語られます。「あなたがたは、西に雲が出るのを見るとすぐに、『にわか雨になる』と言います。そしてそのとおりになります。」西は地中海。水分を含んだ温かい空気が西から流入して、みるみる雲が起こるのでしょうか。それを見ると、「あ、にわか雨が来るぞ」急いで家に帰るとか、洗濯物を取り寄せるとか、それに応じた行動を取ります。「南風が吹くと、『暑くなるぞ』と言います。そしてそのとおりになります。」向こうは南の方にネゲブという砂漠があります。その砂漠から乾燥した熱い空気が流れ込んでくるので、これは暑くなります。そのように、目の前の生活に直接関わることに関しては、そういうしるし、前兆をめざとく見て取って、それに応じた行動を取ります。日本でも、台風が来ると言っては、飛ばされそうなものを片づけたり、今日は晴れるとなったら、洗濯物を干したりするでしょう。今は天気予報がありますが、昔は自然を観察して何らかの兆候を見つけて先を読み、その予想される結果に応じた行動を取ったわけです。

その抜け目なさを、この世のことだけに用いるだけでなく、どうして、もっと大切な、永遠の事柄、魂の事柄に用いないのか、とイエス様は仰るのです。「偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。 あなたがたは、何が正しいか、どうして自分で判断しないのですか。」イエス様は時々、手厳しいことを言われます。ここでも「偽善者たちよ」と、群衆に向かって言われました。「偽善者」と訳された語は、元のギリシャ語では、仮面を付けて役を演じる役者のことを指したそうです。ここでは、表面上は信仰的な仮面をつけ、役回りを演じているけれども、実は、本当の生ける神を恐れることをしていない人のことを指すように思われます。神の裁きがあることも、お題目のように唱えてはいるけれども、現実のこととしてそれを受け止めていない。神を信じてはいるけれども、自分に都合のいいように、つまみ食いしているだけ。本当に生きておられる神を知ろうとしない。すべてを見ておられ、心の中の思いまでをお見通しであられる、生きておられる主を…。結局、彼らが求めているのは、この世のことだけ…。

「偽善者たちよ。あなたがたは地と空の様子を見分けることを知っていながら、どうして今の時代を見分けようとしないのですか。」この地上の生活を少しでも快適に、よりよくするために、めざとく地や空の現象を見分ける。それが悪いというのではなく、それ自体は必要なこと、良いことですが、ただそれだけではなくて、目に見えないもう一つの現実、霊的現実にも、そのように知恵を用いて、意を用いて、時を見分けなさいということです。今という時が、どういう時か。すでにイエス様が来られて、盲人を癒したり、足なえを歩かせたり、悪霊につかれている人を解放したり、貧しい人には福音がのべ伝えられたりと、イエス様が次々となさっていることをみれば、イエス様が、神が遣わされた救い主だということが、彼らにはわかるはず。彼らは旧約聖書に親しんできたのだから、メシアがそういうことをされると言うのは、教えられているはず。それにバプテスマのヨハネというしるしもありました。メシア、キリストが来られる前に、道備えをするために遣わされると預言されていた預言者。西に雲が起こると雨が来る、南から風が吹くと暑くなる、とめざとくしるしを見分けるように、見る目さえあれば、求める心さえあれば、これらのしるしを見て、イエス様が救い主であることがわかるはず。そしてそのことがわかったら、今、自分はどうするべきか、どう行動するべきか、わかるはずではないか…。

彼らにとって、今は、救い主を与えられている時。恵みの時、救いの時なのです。ならば、今、どうするべきか。イエス様は、続けて、たとえを用いて教えて下さいました。

<② 途中で和解するように(58-59節)>

この58-59節は、マタイ5:25-26では、兄弟姉妹との和解が礼拝よりも優先されるべきことを教えるものとして記されていますが、ここでは、神との和解を勧めるたとえとして語られているようです。誰かに対して罪を負って、その相手に裁判所に引っ張られていく。「最後の1レプタ(当時の最小単位の銅貨幣)を支払うまで、そこから出ることは決してできない」とありますから、借金を返済できないで裁判所に突き出されたという状況でしょうか。裁判所とは、法を厳正に執行するところです。裁判所に付いたら最後、そこからは粛々と事が進められて、裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまう。58節の中ほど、「裁判官のもとにひっぱって行き」と訳された語は、強制的に連れて行くという語です。有無を言わさず力づくで連れて行く。そして最後の1レプタを支払い終えるまで、決してそこから出られない。びた一文負けてもらえず、厳正に刑が執行される。事、そこに至ってしまったら、あわれみは一切、期待できないということでしょうか。

返さなければならないものを返さないのですから、こちらが悪いのは明らかで、そのまま裁判官の前に立たされたら、牢獄行きが見えているという状況です。裁きの時が来てしまってからでは遅い。裁きが確定してからでは、どうにもならない。そして、そのままでは、そういう結末を身に引き受けなければならなくなる。その結末がわかっているのだから、それに応じた行動を取りなさい、ということです。裁きの場に着いてしまう前に、そこに向かっている間に、途中に、和解に努めなさい、と。ここでの強調点は、今、生かされている人たちはみな、裁きに向かう「途中」にあるということです。裁きはあります。確かにあります。そしてすべての人が裁きに向かっています。しかしまだ、確定していません。途中です。この途中である間に和解できれば、罰を免れられるのです。チャンスは今しかありません。後になってからでは、どれだけ泣きわめいても、嘆いても、駄々をこねても、後の祭り…。生かされている今とは、そういう「時」なのです。

聖書では、罪は負債、借金にたとえられます。私たちの造り主であられるお方に対して、私たちは当然お返しするべき賛美や感謝、神が当然に要求しておられる義務も従順も、お返しできていない、負債だらけの状態です。その負債額たるや、天文学的数字です。そして、このたとえのように、すべての人は裁きの座に向かっている途中です。最後の審判の時には神は、ひとりひとりに厳正に裁きを執行されます。それは誰も逃れることはできません。そしてそれは永遠の裁きです。ですから、その裁きの座に行く途中にある間に、すなわち地上に生きているうちに、なんとか和解に努めなさい、とイエス様は拳を握りしめて、人々に語られたのではないでしょうか。このとき、集まっていた群衆が、どういうつもりで、何を求めて来ていたのか、わかりません。中には真剣に求めている人もいれば、野次馬もいたかもしれません。まさか自分が「偽善者」だとは露ほども思わず、神と和解が必要だとも思っていない人もいたでしょう。そんな彼らに、イエス様は、彼らが置かれている状況を教えてあげて、そして今のうちに、悔い改めて、神と和解する必要に気づかせようとされたのでしょう。

アメリカにビリー・グラハムという伝道者がいました。ある時、その大規模な伝道集会が、ネバタ州ラスベガスにあるコンベンションセンターで、三日間にわたって行なわれました。その集会が終った翌日、同じ町のホテルが火事になりました。炎はまたたくまにホテル中に広がって、いたましいことに死者は84人にものぼる大惨事となりました。その中で、かろうじて救助されてきた人々が、例の伝道集会をしたコンベンションセンターに収容されてきました。ビリー・グラハムもそこにかけつけ、被災者たちをなぐさめ、はげましていると、その中のある人が涙をためて彼のもとにやってきました。「私は昨夜、最後の集会に参加しました。私はイエス・キリストを自分の救い主として受け入れなければならいと強く感じましたが、それを決断しませんでした。今、火事の中からかろうじて救われて、ハッキリとわかりました。今、決断の時を失うべきでないと深く反省しています。今からでも、ここで、イエスを私の救い主として告白してよろしいでしょうか。今からでも赦されるでしょうか。」涙ながらに言ったそうです。

<③ 和解のために必要なことは、神がしてくださった>

イエス様は、ただ人々に和解せよ、と勧めるだけではありません。義なる聖なる神との和解のためには、罪のための犠牲が必要です。イエス様はそのために、ご自身が命を捨てて、信じるすべての者の罪を背負って十字架に掛かって下さいました。神の方で、和解のために必要なことをすべてして下さったのです。私たちが、神に対して罪ある者なのに、負債を負っているのは私たちの方、赦して頂かなければならないのは、私たちの方なのに、神の方が、和解のために必要な犠牲を完全に支払って下さったのです。神は私たちを愛しておられるからです。私たちを赦すために必要なイエス・キリストという、この上なく尊い贖いの代価を払って下さって、それこそ一レプタさえも残さずに、完全に支払って下さって、さあ、私との和解を受け入れなさいと招いておられるのです。まるで、どっちが裁かれる身かわからないようなありさまです。裁かれて、やがて永遠の刑罰に合わなければならない私たちの方が、そんなことどこ吹く風でいて、逆に、すべてのことを正しくお裁きにならなければならない神の方が、そして誰よりも損害を受けている、愛する人間によって罪を犯されて、傷つき、大損害を被っている神の方が、そんな人間の行く末を思って、和解しなさいと勧めておられるのです。第二コリント5:18-21、新約p.361

…神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。 すなわち、神はキリストにあって、この世をご自分と和解させ、背きの責任を人々に負わせず、和解のことばを私たちに委ねられました。 こういうわけで、神が私たちを通して勧めておられるのですから、私たちはキリストに代わる使節なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。 神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。
「 告げよ主に 告げよ今 」新聖歌 35番

神との和解は、罪を告白して悔い改めることと、イエス・キリストを信じることによって与えられます。まだ救い主を受け入れていらっしゃらない方は、ぜひ、すみやかに、そのようにして、神と和解されますようにお願い申し上げます。また、すでに洗礼を受けている方も、その神の御愛と尊い赦しを頂いているからこそ、なおさら、主を愛し、隣人を愛する歩みをして、主をお喜ばせすることができますように。悔い改めるべき罪があるならば、主の前に告白して悔い改め、主との平和のうちに主と共に歩みましょう。私たちは、恵みの時、救いの日に生かされているのですから。第二コリント6:1-2、新約p.362

私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。 神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。