本日の箇所は詩篇 67 篇です。短い詩篇ですが神様が全世界の王であられ、その王である神が全世界でほめたたえられるよう歌われている壮大な詩篇です。主のみ名がほめたたえられるために、イエス様の大宣教命令によって、全世界で福音が宣べ伝えられ続けています。2 ヶ月前になりますが私たち長老教会の海外宣教週間として海外宣教を特に注目する週を過ごしました。私は高校生のときから現在に至るまで海外宣教師を志し、今後の導きを求めている者です。本日は詩篇 67 篇から「全世界が主を礼拝する理由」というこの壮大なテーマが私たちにも深く関わっていることを考えていきましょう。
1節に注目してください。後半部分に「御顔を私たちの上に照り輝かせてください」とあります。これは驚くべきことであり、なんと神様ご自身が私たちを照らすというのです。私
たちの本来の姿とはいったいどのような姿だったでしょうか。旧約聖書を見るとあのモーセでさえも神様に「わたしの顔を見ることはできないし、見たら死ぬ」(出エジプト記 33章20節)と言われています。イザヤは神様を見たことで「私は滅ぼされる」と言っています
(イザヤ6章5節)。なぜでしょうか。それは神様は言葉では表現しきれない聖いお方である
のに対して、私たちは言葉では表現できないほど罪に汚れた者だからです。詩人はそのような私たちの姿を踏まえ、この詩篇を歌っています。
1節をもう一度、読みます。このみことばには聞き覚えのある方がおられるかもしれません。礼拝の最後には祝祷がありますが、そこでよく使われる民数記6章24節〜26節のみことばに似ています。私が民数記の箇所を読みますので皆さんは詩篇67編1節を見ながら聴き比べていただければと思います。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 25 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 26 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」違いはありましたでしょうか?民数記は祭司アロンが神の民に対して「あなたを祝福し」としていますが、この詩篇では詩人を含めて「私たちを祝福し」となっています。
神のあわれみ、祝福とは具体的に何でしょうか。皆さんはどういったことをイメージしますか?クリスチャンの方々はよく使ったり、聞いたりする単語でしょう。あわれみを旧約聖書でその使い方を見ると何種類かありますが、代表的なものは本来、罪人の私たちが
受けるべき罰から解放してくださる、罪を赦してくださる神様からの一方的な愛の行為であり、神様ご自身の本質を示しています。最初にお伝えした本来の罪深い私たちには神様のあわれみが必須です。私たちの救いも神様のあわれみによるものです。私自身のことをお話しさせていただきますと、私は小学生の頃から中学生にかけてまで盗みを止めることができませんでした。当時も教会に行っていましたが、神様よりも自分が欲しいものを手にいれることを優先していました。神様はそんな私にさえも近寄ってくださり、聖霊を通して、「イエス様はこんな罪人の私のためにこそ十字架でいのちをささげてくださった」と確信へ導いてくださいました。これは神様のあわれみとしか言いようがありません。
祝福はどうでしょうか。それには1節の後半にある神がみ顔を照り輝かせてくださる霊的なもの、6節で見られるような食べ物の収穫といった物質的なもの、他の箇所を見れば子孫繁栄といった社会的なものもあります。実はもう一つ神様の祝福には意味があり本日はその祝福に注目します。それは礼拝の祝福です。
神様の祝福には礼拝に関する面があるというのです。実は先ほど触れた神の祝福の物理的・霊的・社会的な側面はすべてこの礼拝つながる、神様は私たちを礼拝のために祝福されると言っても過言ではありません。そのことが2節以降を見るとわかります。2節には神様の道、神様の救いが全ての国々の間で知られるためにとあり、1節の祝福を求める祈りの目的が記されています。3−5節はこの詩篇67のクライマックスにあたります。3、5節は同じ内容であり4節のクライマックスを挟んでいます。3〜5節をお読みします。
皆さんは普段、どのような神様の祝福を祈り求めていらっしゃいますでしょうか?私自身は健康、経済面、人間関係や仕事といった社会面の祝福を祈り求めることはあっても、神を礼拝するために祝福されるようにと祈ることはあまりないと気付かされました。礼拝者となる祈りの対象は私自身だけでなく、他の人のことも含まれます。3〜5節では宣教の相手が「諸国の民」と言われています。イスラエル以外の民、つまり異邦人を指します。しかも一部の異邦人だけではありません、前後の箇所を見ても「全世界の人々」を指していることは明確です。詩人は福音が全世界に広がって、全ての人々が主を礼拝するようにと祈り求めています。
私は宣教師を志しつつも、このような祈りに欠けていると痛感しました。私が仕えている世田谷の地域のため、日本のため、または宣教地候補として考えている国々について
は祈ることがあっても全世界の人々への世界宣教のためには祈っていませんでした。私が海外宣教へと志が与えられたきっかけは高校 3 年生の時に初めての海外であるマレーシアに行ったことでした。クリスチャンのユースキャンプが行われ、アジア諸国から多くの若
者が集い、同じ神様を礼拝しました。その経験を通して、神様は日本だけでなく全ての国々
や人々を造った方であり、この神様に造られた私たちが主を礼拝できることはなんと素晴らしいことなのかと高校生ながらとても感動しました。これをきっかけにこの礼拝の姿が世界中で起こされていくようにと願い海外宣教へと導かれました。この時の私は喜びがありました。4節はこの詩篇のクライマックスの願いであり、その願いとはすべての民が主を礼拝することです。その礼拝する理由が主が全ての民をさばき、導く支配者であり王であるからです。主のさばきとは罪人に罰を与えることではありません。神様の正義に沿って世界を支配し、救いの祝福を与え、公正なさばきによって喜びを与えます。この主こそ全世界の王であり、すべての民から礼拝されるべき方であるとの宣言はこの詩篇だけでなく、詩篇全体からも言えることです。この主こそ迷子の羊である私たちを先頭に立って守り、導いてくださる羊飼いなのです。この羊飼いである主と共にいれば、主からの祝福を受け、喜びで満たされます。そしてその喜びが礼拝のモチベーションとなります。3〜5節はまさに全世界で礼拝されている姿です。私たちは神のあわれみによって祝福を受け、喜びで満たされ、その結果として神様を礼拝します。礼拝の姿は喜び歌っています。別の箇所を見ると「喜び叫ぶ」とも表現されています。最近、私の子どもたちが全身を使って大声で賛美していました。私は恥ずかしくてできませんが、主を喜び歌うとはこのような姿だな、と教えられました。
最後に6−7節に注目しましょう。6節には祝福の結果である「大地が実を産み出した」とあります。私の長男の名前はこの御言葉から「大地」と名づけました。当時はここまで深く聖書を調べることはしませんでしたが、息子が神様の祝福をたくさん受けて、息子が多くの人々にとって神様の祝福となって欲しいと願いを込めています。神様が与えてくださった実りとは人々の救いです。救われて神の祝福を受け取った人々を通して福音がすべての国々へと広がっていきます。ここにおられる皆さんもなんらかの形で聖書のこと、教会のこと、イエス様のことを聞いて、知って、礼拝に来るようになったでしょう。私たちはこの神様の祝福を受けずして礼拝することはできません。だからこそ私たちは日々の歩みの中で神様の祝福を積極的に祈り求めていきましょう。礼拝の根源は神様の祝福です。私た
ちは本来、受けるにふさわしくない価値のないものですが、神様のあわれみによって、救い主キリストの十字架と恵みによって祝福を受けるべき者と 180 度、変えられました。この詩人の礼拝する姿の規模は壮大です。7節では周りの家族、友人、ご近所さんだけでなく
「地の果てのすべての者」が主を礼拝するようにと願ってこの詩篇を終わりにしています。
私は大学生の時に、バングラディッシュの山奥で暮らす社会的身分の低い方々へ宣教している方々と一緒に現地に行ったり、妻と私は 1 年間フィリピンで OM という宣教団体を通して、仕える中で小さな船でしか行けない村で礼拝する人々を見てきました。福音がこ
のような場所にまで広がり続けている姿を見て感銘しました。彼らに良き知らせである福音を伝えたいという人々が与えられ、実際に伝わり、教会が建て上げられ、主のみ名がほめ
たたえられている。日本はどうでしょうか。私が行ったバングラディッシュやフィリピンのように地理的に宣教が難しい国ではありませんが、福音を信じていない人が 99%です。牧師不足もすでに深刻ですが、今後ますます大きな課題となるでしょう。こうした現実が
私の生まれた母国である日本にあるにもかかわらず、なぜ私は海外宣教を志しているので
しょうか。一時期、その疑問に悩んでいましたが今はその答えも主にゆだねています。これまでずっと大切にしているみことばはピリピ 2 章 13 節です。「 神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださる方です。 」このみことばか
ら神様が私に与えてくださった海外宣教師という志を実行してくださると信じています。
冒頭にお伝えいたしましたように私たち夫婦は長年、宣教師になることを祈り続けています。今年の 2 月にはオーストラリアのメルボルン・日本人教会にビジョントリップに行き
ました。この教会は 30 年以上も前に、私の義理の父である片岡牧師と働かれていた宣教師
のスティーブ・ヤング先生によって開拓された教会です。コロナによって一時は閉鎖も検討された教会が今では 30 人ほどが集い、現地に住む日本人に福音宣教が続けられ、主のみ名がほめたたえられています。このこともまさに神様の祝福であり大きな実りです。この
神様の祝福こそが全世界が神を礼拝する理由なのです。
皆さんはいかがでしょうか?神様のあわれみ、祝福、御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいと願っていらっしゃいますでしょうか。私たちは素直に子どもたちのように神様の祝福を求める特権が与えられています。その祝福を受ける目的は何だったでしょうか。自己満足のためではなく、私たち、周りの人、世界の人々が神を礼拝するためです。その原動力は喜びです。神様は私たちに祝福を与え、私たちは喜びをもって祝福を伝え、ともに全世界の王である主をほめたたえます。まさに今、集められた教会としての私たちはこの礼拝で私たちはその姿を味わっています。世界中が神を礼拝するということを思う際、皆さんに示されているチャレンジはどのようなことでしょうか。世界を見るときに悲しい現実が多くあります。日本にも福音を知らない方々が多くいます。神様は祝福を受けた皆さんをどこに遣わされていますでしょうか。また派遣されている宣教師の方々と一緒にどのように海外宣教できるでしょうか。ぜひこの1週間、ゆっくりと時間をとってこれらの点について祈って考えていきましょう。