礼拝説教要旨 2025年9月7日

受けるべきバプテスマ

ルカの福音書12:49-53

<はじめに>

聖書には時々、ドキッとするような、エッと思うような箇所があります。今日の所もその一つです。「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。」とか、「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」とか。注意を惹いて、どういう意味だろう?と考えさせる効果があるのでしょうか。結論を先に言えば、ここは、キリストに従う弟子の心構えを説いているところですが、キリストに従っているからと言って、スイスイと何の苦もなく道が開かれ、福音が広がっていくと思ったら大間違い。キリストに従うときに、世は妨げようとし、反対してくることもある。時には家族が対立することさえある。そういう苦境を通ることがあるとあらかじめわかった上で、わたしに従ってきなさい、とイエス様の親心と言いますか、弟子たちに心備えをさせているところです。イエス様は、甘い言葉で釣って、あとで「こんなはずでは…」と思わせるようなことはなさらないのです。

<① 火がすでに燃えていたらと(49節)>

「わたしは、地上に火を投げ込むために来ました。火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。」ここの火とは、「信仰の火」のことと取りたいと思います。バプテスマのヨハネは「燃えて輝くともしび」と言われました(ヨハネ5:35)。彼の神への熱心な信仰のゆえでしょう。彼は人々に、厳しく罪を指摘し、悔い改めを迫りました。神を思う信仰、神を求める信仰、神に信頼する信仰、神のみこころが行われることを求める信仰、神に従う信仰、そして神を愛する信仰。そのような信仰の火が地上に赤々と燃えさかっていることを、イエス様は切望しておられるというのです。私たちはともすると、神のことは脇に置いておいて、自分たちだけで楽しく過ごせればいいと思ってしまいがちかもしれません。この世界とその中に住む人間は、神によって造られたのに、人は、そのいのちの源である神に背を向け、知らんぷり。まるで神などいないかのようにふるまって。世は、神なき楽園を夢見て、神は死んだとうそぶき、神を恐れる心を失って、ますます道徳心を失い、滅びに向かっているように思われます。神から離れた人間について、聖書は、罪の奴隷であり、死の牢獄に閉じ込められて、世の終わりの最後の審判を待つ者であると教えています。そのままでは地獄、永遠に燃え続ける火に投げ込まれると。

しかし、あわれみ深い神は、私たちを救うために御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。このキリストを信じることによって、人は誰でも、まったき罪の赦しを与えられます。その結果、完全に神に受け入れられます。神の子とされます。そして、神とともに永遠に生きる永遠のいのちにあずかる者とされると、聖書は教えています。地獄に投げ込まれることから救い出されて、永遠の祝福のうちに神とともに生きる天国へと行き先が変えられました。ですから、この永遠のいのちの価値というものを考えてみてください。もし永遠のいのちが本当にあるのだとしたら、何にもまさって価値があるのではないでしょうか。そしてそれは、私たちにとって何ものにも代えられない価値があるだけでなく、神にとってもそうなのです。神は尊い御子を救い主として世にお遣わし下さったのですから。神は、私たちが神の救いにあずかり、神がどれほど私たちを愛しているかを知って、神をあがめ、喜び、神と人とを愛する者となることを切望しておられます。そのような神と人との人格的な交わりが、この地上でも繰り広げられる光景をキリストは切望しておられるのだと思います。そのためにキリストは十字架の苦しみをも引き受けてくださったのですから。

神の、またキリストの、私たちへの熱心をわが心として、私たちの、神への、またキリストへの熱心が火と燃えあがるように、聖霊の祝福を願います。

<② 受けるべきバプテスマ(50節)>

神は人に罪の赦しを与え、永遠のいのちを与えることを願われて、御子キリストを世に遣わされました。救い主として来られたのだから、人々はさぞかし、大歓迎するか、と思いきや、そこに待ち受けていたのは、敵意であり、殺意でした。「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」バプテスマ(洗礼)は、水で洗うことや、水をかぶること、どっぷり浸すことも表すようです。ちまたでも「苦難の洗礼を受ける」などと言う表現もあり、厳しい経験を通らされることを言うようです。ここのイエス様が受けるバプテスマも、数々の苦しみを受けなければならないことを指すとともに、特にその極みとしての十字架につけられる苦しみを言っておられるのだと思います。

闇は光を憎みます。光に照らされることを嫌います。それゆえ、罪びとは神を嫌い、憎みます。毒にも薬にもならないような、当たり障りのない偶像の神々ならいいのでしょうが、罪を示し、責め、悔い改めを迫り、さばきがあることを宣言する神に対しては、そんなものは聞きたくない、何を失礼な!と怒る。神のみこころを、少しも妥協することなく、まっすぐに語ったイエス様は、それで律法学者やパリサイ人と言った、当時、プライドにパンパンに膨れ上がったエリート宗教家たちの怒りを買い、ついに十字架にかけられるに至ったのでした。もちろん、それも神のご計画の中にあったことで、イエス様もそうなることをあらかじめ知っておられたのですが。イエス様は、私たちを愛しておられるがゆえに、自ら進んで、私たちの罪を背負い、十字架にかけられてくださいました。罪に対する刑罰は苦しいものです。罪の重さに応じて、その苦しみは増します。とすれば、イエス様は、信じるすべての人の罪を一身に背負って、その計り知れない罪に対する刑罰を一身に受けてくださったのですから、それはどれほどの苦しみだったことでしょう。

私たちがあずかっている救いは、決して安っぽいものではない、永遠の神の御子である方が、十字架に手足を釘づけにされ、私たちの身代わりに神からの刑罰を受けてくださったという計り知れない犠牲と苦しみがあってのことなのだと、改めて心に刻みましょう。

<③ キリストとともに(51-53節)>

あるとき、使徒のヤコブとヨハネは、イエス様から「あなたがたは、わたしの受けるバプテスマを受けることができますか。」と問われ、「できます」と答えました。彼らはわかっていなかったのですが、それでもイエス様は「確かにあなたがたは、わたしが受けるバプテスマを受けることになります。」と言われました(マルコ10:38-39)。その通りに、実際、弟子たちも、のちに福音のために苦しみを受けました。「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。」以下、一つの家の中で二人が三人に対立し、父は息子に、息子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に対立して分かれるようになると言われました。姑に対する嫁は、ある意味、実の母以上に気を使い、遠慮する関係だったでしょうか。それでも、イエス様に従うことだけは、妥協してはならないということです。ここで3つの点を記したいと思います。

⑴本当は、キリストは平和をもたらすために来られました。1:79には、キリストは「私たちの足を平和の道に導く」とあり、2:14にもキリストがお生まれになったときに、御使いたちが「地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように」と賛美しました。それは第一に、キリストは罪びとに神との平和を与えるということです。創造主なる神に敵対し、己の罪のゆえに神の御怒りの下に身を置くものだったのが、キリストの十字架によって、まったき罪の赦しを得たので、神との平和を与えられたのです。それは永遠のいのちであり、この世の与えるのではない、魂の深い平安と喜びをもたらします。この平和を得るまで、人は無意識のうちに、神と争っているのではないでしょうか。ある人は、人は神との平和を得て初めて、自分自身との平和を得、人との平和を得ることができると言っています。キリストがもたらす平和は、表面的なものではなく、人を根本から造り変えるような、人として最も本質的な平和、神との平和です。すべての祝福はそこから始まります。そしてそれは永遠のいのちに至ります。この全体像をまず、おさえておくことが大切です。

⑵このキリストがもたらす神との平和という、大きな視野の中で、人がキリストの弟子として従うときに、身近な人から反対にあうことがある。それは一時的かもしれない。やがて理解してくれて、その家族も信仰をもって救われたというケースもあります。ですから、スイスイと何の問題もなく平和が訪れるのでなく、いったん、対立があって、それを癒すようにその後に真の平和、神の平和が訪れるということもあるのでしょう。いづれにしても、神との平和また永遠のいのちという計り知れない価値のある福音を信じて、キリストに従うということを、やめてはいけない。そこはどんなことがあっても。そういう芯をしっかり持つ。人から言われるままに、流されるだけでは、いったい何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、とも思います。これという芯を持つことは、自分の人生を生きるということでもあります。ともかく、信仰を捨てて、キリストから離れた世界に戻ってはいけない。そうしたら、もろともそろって地獄に行くことになる。また、神の御子であられるお方が、十字架の苦しみを受けてまで成し遂げて下さった神との平和を全世界に広げるという、神のご計画を妨げてはいけないのです。これはどうしても妥協できないことなのです。

⑶そしてその上で、ですが、念のため確認しておきたいことは、神は基本的には家族を大切にすることを命じておられるということ。モーセの十戒の第五戒「あなたの父母を敬え」は、対人関係の戒めの最初に置かれています。使徒パウロも言っています。Ⅰテモテ 5:8、新約p.422

もしも親族、特に自分の家族の世話をしない人がいるなら、その人は信仰を否定しているのであって、不信者よりも劣っているのです。

信仰を口実に、親をかえりみない者がいたのでしょうか。また、ローマ12:18、新約p.318

自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。

またガラテヤ5:22-23、新約p.382には、こうもあります。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です

ですから、イエス様は、喧嘩をしろと言っているわけではもちろん、なくて、できる限り家族を愛し、仕える姿勢が基本的に求められています。その上で、です。どうしても妥協できないこと、キリストに従うということは、やめるわけにはいかないのです。

「 ただわが主の 道を歩まん 」新聖歌 384番

当時のユダヤでは、すでにイエス様を信じる者は、体制側への反逆と見なされ、会堂から追放されることになっていました。それは共同体の一員としての身分を失い、ユダヤ社会から締め出されることを意味しました。また、昔、私がマレーシアにいたときに、マレー人の青年がイスラム教からキリスト教に回心して、親から勘当されました。しかし彼の顔は輝いていました。また、ある長老さんが高校生の時に、イエス様を信じて洗礼を受けたいと言ったときに、家族親族から大反対されて、文字通り、棒で殴られたりもしたそうです。親族からヤソなんか出たら、娘が嫁に行けなくなるとも言われたそうです。今の時代、あまりそういうことはないのかもしれませんが、時代が時代なら、また、ないとも限りません。

しかし、主はその受難に報いずにはおかないお方です。ローマ8:17(第三版)

…私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

キリストに従うがゆえに苦難を受けるなら、それはキリストと苦難をともにすること。そのとき、キリストとの一体感が増すでしょう。もちろん、キリストの苦しみには、はるかに及ばないですが、それでも主はご自分と苦難をともにしたと見てくださる。そして御国で報いずにおかない。キリストと栄光をもともにしてくださる。やがて来るその日が、恥辱の日となるのではなく、キリストと栄光をともにする日でありますように、聖霊の助けを祈りたいと思います。