礼拝説教要旨 2025年8月31日

主人のほうが帯を締め

ルカの福音書12:35-48

<はじめに>

イエス様を救い主、また主と信じるクリスチャンは、神との関係において二つの面があります。一つは、神の子ども。無条件に愛されている子ども。キリストにあって、永遠の昔から愛されている神の子どもです。この面において、私たちは、父なる神とお呼びする事ができます。それからもう一つ、神に対するクリスチャンの関係は、しもべという面があります。もちろん、いつ怒られるか、怒鳴られるかとビクビク、オドオドしている奴隷ではなく、これまた愛されているしもべです。この世の常識では考えられないくらい愛されているしもべです。で、しもべというのは、私たちが神に仕える者でもある、という面を表します。もちろん、子どもも親に仕える者ですから、両者は矛盾するものではありません。ただそのどちらを強調するかで使い分けているのだと思います。神の子どもも、親である神に当然仕えますし、神のしもべも、この上なく愛されているしもべなのです。

今日の箇所は、クリスチャンの、しもべという面に焦点を当てて、私たちのご主人であるイエス様が説き明かして下さった、しもべの心得です。

<① 目を覚ましているのを見てもらえたしもべの幸い(35-38節)>

「帯を締めて」向こうの服は、首から膝のあたりか、長いのだと、かかとくらいまでの、ゆったりしたもので、家でくつろいでいるときはそのままですが、外に出るときとか、何かをするときには帯を締めます。ここでは、主人を出迎える支度をするということ。また、それは夜なのでしょう、明かりをともしていなさい。これも主人を迎える用意です。で、ここは、主人が婚礼から帰って来るのを待つという設定ですが、向こうの婚礼は一週間ほど続いて、その間に途中で来たり、途中で退席したりがあったそうです。それで主人が夜中に帰って来る事もあったのでしょう。そのときに、主人が戸を叩いたら、すぐに開けて差し上げることができるように、待ち構えているしもべのようであれというのです。

ここでは、主人の帰りは、主の訪れのことを表しています。聖書では、主の訪れは神の裁きを表します。もっとも、それは、主を待ち望んでいる人にとっては喜びの日であり、迫害の中にある人に取っては救いの日です。他方、そうではない人にとっては、特に迫害している側にとっては厳しい裁きの日となります。ですからここは、信仰ゆえの迫害や、あるいは忍耐をもって主に従っている人たちを励ますために、主の訪れを待ち望む生活をしなさいと勧めているのでしょう。前段からのつながりで言うと、天に宝を積む生活を、あくまで続けなさい。地上のあれやこれやに心を奪われて、霊の目をふさがれ、天よりも地上の欲でいっぱいになって、天の事なんかどこへやら…?とならないようにと。その時が、いつ来るか、わからない。それは婚礼に出席しに行った主人の帰りを待つようなものだから、いつ帰って来てもお迎えできるように備えていなさい。

そしてイエス様は大きな励ましを与えてくださいます。実際に、主人が帰って来た時に、そのようにしているのを見てもらえるしもべは幸いですと。なんと、主人のほうが帯を締めて、しもべたちを食卓に着かせて、そばにいて給仕して下さると!常識ではあり得ないことです。でも、そのあり得ない事を、私たちの主は、してくださるのです。いや、すでにして下さっているのです。ヨハネの福音書13章には、イエス様のほうが、弟子たちの足もとにひざをつき、たらいに水を入れ、手ぬぐいで弟子たちの足を洗って下さったという記事があります。そればかりでなく、主であられるイエス様が、しもべである私たちのために、ご自身のいのちをさえ捨てて、十字架にかかってくださった。いのちのパンを与えてくださいました。私たちは、考えられないほど、愛されているしもべです。そしてイエス様は、天の御国でも、私たちを天に迎えた暁には、天の食卓に着かせて、そばにいて自ら給仕して下さる。地上での労苦、特に信仰ゆえに受けた苦難に、忍耐に、「よく忍耐しましたね。最後までよく信仰にとどまりましたね。」と、いたわらずにはいられない。そういう主人です。イエス様は、生ける神の御子、聖なる聖なるお方であられるのに。

だから、こんなすばらしいごほうびが用意されているのだから、私たちがくれぐれもその御国のテーブルにあずかれないことのないように、最後まで、その時まで、目をさましていなさい、と主は言われます。主人が、真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、そのように待っているのを見られるしもべは幸いです、と。忍耐を切らさないように、あくまでも主に従うことをやめてはいけないと。

使徒ペテロは、終わりの時には「キリストは、いつまで経っても来ないじゃないか」と言って、自分の欲望のままに振舞う人が出て来ると警告していました(第二ペテロ3:3-4、新約p.476)。時代の闇が濃くなって、神なんて、神の裁きなんて、とあざけり、サタンの誘いの声が満ちている時代。平気で罪を犯していても、好き放題やっても、いっこうに裁かれないように見える。まじめに生きているのが馬鹿らしく思える。そんな時代でも、クリスチャンは、天に望みを置くライフスタイル、主を待ち望む生活を崩さない。今日来られても、主をお迎えできるように、日々、悔い改めと赦しを確信し、そして信仰に立って歩む。その歩みをまっとうさせて頂く、幸いなしもべでありたいものです。

<② 人の子は、思いがけない時に来る(39-40節)>

私たち以上に私たちの事を案じてくださるイエス様は、念には念を入れて、もう一度、別なたとえを語られました。それも、なんと大胆にも、ご自分を盗人にたとえて!です。これは、イエス様が思いがけない時に訪れるから、気を抜かないように、と強調する表現です。ほかの所でも、主の日は盗人のように来ると言われています(第一テサロニケ5:2、第二ペテロ3:10)。私たちが、神を忘れ、私たちを贖ってくださった方を忘れて、神だの天国だのなんて気にしてられない、などと言い出して、この世の欲を追い求めている状態。そのような状態を聖書では眠っている状態にたとえています。眠っている間、周りから意識が遮断されて夢の中にいるように、霊的には、天の現実に目を閉じて、天から意識が遮断して、この世の事だけになっている状態。天の御国で目が覚めると、それまで世で見ていたものはすべて夢と消えてなくなり、永遠に残る天にある真の現実と向き合うことになります。だから、天に対して常に霊の目を開いて、みわざに励みなさいと、主は言われます。霊的に眠りこけていてはいけませんよと。「あなたがたも用心していなさい。人の子(イエス様)は、思いがけない時に来るのです。」(→大使館警備の時の話)

<③ 酒に酔ったりし始めるなら(41-48節)>

ここで、ペテロはまた、一瞬、ん?となるようなことを言い出しました。「このたとえを話されたのは私たちのためですか。皆のためですか。」こういうペテロのセリフというのは、聖ペテロ様のありがたいお言葉にどんな深い意味があるのだろう、などと神妙な顔をして考えるのは見当違いで、ペンテコステに聖霊を受ける前の彼の言葉は、今度はまた何を言い出したんだろう、くらいの見当で読んだほうがあたっているようです。ここでもおそらく37節の、御国のテーブルに着かせて頂いて、イエス様がじきじきに給仕してくださるという特別待遇にあずれるというところに反応したのでしょうか。そんな特別待遇にあずかれるのは、われわれ使徒たちだけなのか、それとも他の人たちもなのか。ペテロとしては、使徒である自分たちの特権であることを期待したかもしれません。そんなペテロ、好きです。そして、聖人とは程遠いこのときのペテロにも愛想を尽かさずに、教え、導き、清めていってくださるイエス様だからこそ、自分のような者にも望みがあるのだと、ありがたく、うれしくなります。俗っぽさ丸出しで、聖書にさらけ出してくれたペテロにも、天国に行ったらお礼を言いたいところです。あなたのおかげで、どれだけ励まされたかと。

さて、この質問に対して、イエス様は、ストレートには返されないで、質問でもって返されました。「では、主人によって、その家の召使いたちの上に任命され、食事時には彼らに決められた分を与える、忠実で賢い管理人とは、いったいだれでしょうか。」直接的には、ペテロに語られた言葉でもあり、その家の召使いたちの上に任命されて、とありますから、使徒たちに向けられたことばでしょう。食事時に決まった食べ物を与えるとは、みことばの糧を与える働きのことでしょう(参考 使徒6:1-4)。ただ、管理人という意味では、私たちはみな、神からさまざまな賜物を与えられている管理人です。その意味で、私たちも、神からいろいろなものを委ねられている管理人の心得として読むことができるでしょう。

で、ここには忠実で賢い管理人は、食事時には召使いたちのために、決められた分を与えるという、当たり前と言えば当たり前のことを、忠実にしている人のことです。そして主人が帰って来た時に、そのようにしているのを見られるしもべは幸いだと。そうしたら、主人の信頼を得て、今度は全財産を任せるようになると言われました。

ところが、それに対して、主人がすぐには帰ってこなかったからでしょうか、そのしもべが心の中で、「主人の帰りは遅くなる」と勝手に思って、男女の召使いたちを打ちたたき、自分たちだけで食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めたら、その主人は予期していなかったときに突然、帰って来るというのです。ここを注意してみると、「酒に酔ったりし始めるなら」とあります。このしもべも、最初から飲んでいたのでなく、途中までは、まじめにやっていた。だけども、主人がなかなか帰って来ない。それで「まだ帰ってこないだろう」と思って飲み始めたところ、ちょうどそこに…という残念な場面です。途中までまじめだったからと言って、大目に見られない。「厳しく罰し」です。そして「不忠実な者たちと同じ報いを与える」という書き方。彼ら自身は、必ずしも、最初から不忠実だったわけではないかもしれないが、途中であんなふうになってしまったなら、最初から不忠実な者と同じ報いを与える。これは一番、悔やまれるパターンでしょう。

そしてまとめ。主人の心を知りながら、食事の用意もせず、主人の思い通りにしなかったしもべは、むちでひどく打たれる。知っていながら、しない。不忠実は厳しく罰する。しかし、知らずにいたために、むち打たれるような事をしたしもべは、打たれても少しで済む。知るということには、責任も伴うということです。最初のペテロの質問に対する答は、ここでしょうか。ペテロよ、お前さんは、使徒だからと言って、特権意識があるものと思って、すっかり天国のテーブルに着く気になってるかもしれないが、その前に、使徒なら使徒として多くを求められているその責任を自覚して、気を引き締めて、自分の務めを果たしなさいと。

御国のテーブルでイエス様に給仕して頂く特権は、使徒たちだけ限定ではなく、誰であっても、忠実な賢い管理人として、その責任を果たした人はみな、テーブルにつくことができます。使徒だからとか、牧師だからとか、肩書がモノを言うのでなく、人それぞれに、どう主に忠実に歩んできたか。報いの度合いは、主に対する忠実さにあります。

「 いつかは知らねど 」新聖歌 465番

いつ、主が来られるか、わからないから、いつでもお迎えできるように、備えていなさい。こういうある種の緊張感は、私たちには必要なのだと思います。特に心が主から離れて行きそうなときに。ただ、理想的なのは、主を愛する心から主にお仕えすることです。愛する主のために、主に喜んで頂けるようにと、みこころを行なう者とならせて頂きたいものです。ただ主人がいつ来るか、ビクビクしているのでは、クリスチャン生活に大切な喜びも平安もないでしょう。キリストにおいて明らかにされた神のご愛を、聖霊によって確信し、喜びのうちに、主に忠実に、主の御心にお従する歩みをまっとうさせて頂けますように。